五 警部、己を受け入れ、志七郎となる事
暗い、暗い道を歩いていた。
足元を見ることさえ覚束ない深い闇の中、何処を目指しているのかも解らず、それでも一歩一歩ひたすら愚直に前に進んでいく。
ただ進むべき方向は解る。
俺が知っているわけではない。俺と共に歩き続ける幼い男児……志七郎が行くべき方向を教えてくれているのだ。
彼の歩幅に合わせ歩いているので、その進みは牛歩の如く遅い。
別に焦る必要はないのだ、ゆっくり、ゆっくりと歩いて行けばよい。
生前の俺ならば、その速度に痺れを切らせ引っ張るなり抱き上げるなりしていただろう、だが今ではそれが間違った対応だったと思える。
志七郎とつないだ手の温もりが、自分が独りではないことを教えてくれる。
今まで俺は自分が独りだと思っていた。
家族を拒絶し、部下や同僚もただ仕事上の関係だと思い、深い交流を持つことはなかった。
だが、それは結局のところ、自分だけの事を考え楽な方に楽な方に逃げていただけなんだ……。
深い、深い沈黙の中、ただ黙々と歩を進めていく、が不意に志七郎の足が止まり俺の手を引いた。
……大丈夫? そう言いたげな瞳が見上げていた。
幼いその瞳に心を射抜かれ、微苦笑を返し、そっと空いている手で志七郎の頭を撫でた。
ああ、そうだ俺はもう独りじゃない、新しい家族、新しい俺が居る。
そんな思いとともに、ある決意を胸に俺たちは再び歩き出した。
どれほどの時間、どれほどの距離を歩いたのだろう。
それらすら麻痺するほど長く遠くまで歩けたと感じた頃、目指す先に微かな光が見え始めた。
そして、その光の向こうからは、誰かが懸命に、必死に呼びかける声が聞こえていた。
それは、父の母のそして兄姉達……家族の呼び声だった。
あぁ、この子は本当に家族に愛されている……。
この思いに応えたい、今度は間違えない。そう強く強く思った時、俺は光りに包まれた。
「「「しーちゃん!!」」」「「「志七郎!!」」」
目を覚ますと、そこには家族が勢揃いしていた。
その顔には、皆不安と心配がはっきりと浮かんでいる。
「先生! 志七郎は、志七郎はもう大丈夫なんですか!?」
父お……父上がそう先生――医者と思しき男性――に掴みかからん勢いでそう問いかける。
「目を覚ましたということは、魂が体に戻ったと言うことです。もう大丈夫でしょう」
その医者の言葉に、ほぅっと家族が皆揃って大きくため息を着いた。
「しかしながらまだ無理は禁物。今は静かに眠らせてあげたほうが良い」
「もう、もう二度と眠ったまま目を覚まさない。そんなことは有りませんよね!?」
母上が涙混じりの声で問いかけると、医者は安心させるためか満面の笑みを浮かべ口を開く。
「ご安心ください。魂抜けはそうそう起こる事では有りません。それに症例の中でも三日は短い方でもありますし、まぁ問題ないでしょう」
医者に促され、彼と兄姉達が静かに部屋を出て行き、後には両親と俺だけが残った。
「……ちちうえ」
暫しの躊躇の後、意を決し口を開いた。
この身体に戻るまでに決意した、それを実行するために。
「おお! 志七郎なんじゃ? 厠か? 腹が減ったか?」
「おはなし、したいことがあります」
「しーちゃん……お話できるの?」
俺の言葉に母上が訝しむような声を上げる。
当然だろう、さっきの医者の話では三日間も目覚める事無く眠り続けた挙句、今まで幼児語の単語が精一杯だったのに、唐突に文章を口にしたのだ。
それでも、それでも本当の家族になるためにはコレは必要な過程のはずだ。
「し、志七郎。それは今でなければ成らんのか? 三日も寝ていたのだ、身体も弱っている。ゆっくり休んだほうが良いのではないか?」
父上のその言葉に、心が揺れる。今でなくても良いのではないか、また今度機会が有った時に……と。
だが、今を逃せばおそらく決意は鈍り、機会があっても話すことは出来なくなる。
それでは、たぶん前世と同じ過ちを繰り返すことになるだろう。
「いまで……今でなければ成らないのです」
声が震えるのは、父上の言うとおり身体が弱っているからだろうか、それとも受け入れられない可能性への恐怖だろうか。
……有りもしない物に恐怖し逃げ出すのはもう沢山だ!
俺は身体を横たえたまま、枕元に座る両親へと顔だけを向け、ゆっくりと深呼吸し改めて口を開いた。
「私は、私には前世の記憶が有ります」
前世では警察官だった事、捕物の最中に命を落とした事。両親家族と不和の内に逆縁を犯し、結果現在の家族を受け入れず命を落としかけた事、初祝の夜二人の話を聴いた事、死神の言葉によりそれを悟り後悔している事。
それらをよく回らぬ口で訥々と言葉を紡いでいく。
両親はただ黙って遮ること無く俺の言葉を聴き続けた。
「……けいさつかん、とは察するに町奉行のような生業かの? だとすれば、持っておった技能にも得心がいくのぅ」
「……家は仮にも大名家ですからねぇ。同じ様なお仕事をするなれば、養子に出るか分家するかしなければならないわねぇ」
暫しの沈黙の後、二人の口から出たのは想像していたのとは、大分ズレた答えで意外といえば意外過ぎる反応に、俺は呆然とするしかなかった。
その時の俺の表情が、あまりにも崩れていたせいだろう、二人は軽く吹き出しそして声をあげて笑い出した。
「クククッ、志七郎よ……。あの夜の話を聴いておったなら最早わし等の答えなど解っておろう」
「そうですとも、貴方は私が腹を痛めて産んだ子です。たとえそれが、どの様な過去世の者であろうと変わりません」
涙が出た、おそらくはそう言われる事確かに予想はしていたが、本当に受け入れられるとは……。
「もう一度言います。しーちゃ……志七郎。貴方は誰が何を言おうと、私が産んだ子です。
解り合うことが出来なかった過去世の家族の事忘れろとは言いません、ですけれど今生はまだまだこれからなのですから、今からでもしっかりと家族となりましょう」
そっと、俺の頬にふれ涙を拭い取りながら、そういう母上の言葉を聞きながら、抗うことの出来ない安心感と脱力感に包まれ、静かに眠りに落ちた。
翌日、朝食のため家族も家臣達も広間に集まった時、父上は唐突に皆に対し俺に前世の記憶があり、普通の子供ではないと、話しだした。
特に前振りが有った訳でもなく、家族だけでなく家臣達にまで話すとは思ってなかった俺は、あまりに急な展開に着いて行けなかった。
「……という訳で、加護神である死神様に呼び出され、過去世の記憶や技能を授けられたが故に、魂抜けを起こしたという事の様だ」
どうやら、元から記憶が有った訳でなく、初祝をきっかけに記憶を取り戻した。そういう事にしたらしい。
しかしながら、中々衝撃的な話だと思うのだが、誰一人として訝しんだり驚愕したりする者は居ない。
下の兄姉は未だ幼い事から、単純に理解していないだけだと思うが、それなりの年齢である上の兄姉も、家臣達も平然としたものだ。
だからと言って、父上の言葉を聞き流したり、信じていないという訳でも無いらしい。
俺が戸惑っているのを見とってか、家老の笹葉が重々しく口を開いた。
「……殿のお子が、尋常な童子でないのは今に始まったことでは有りますまい。七人連続加護持ちで、異能持ちもちらほら……今更何を驚くことが有りましょう」
「然り然り」
「全くその通り」
「殿の子であれば、何でも有りで御座ろう」
至る所から聞こえてくるそんな言葉に、俺は脱力感に襲われる。
俺は、別の意味で信頼感のある家族の元に産まれてきたらしい。
ビビって損した!