六百八十八 志七郎、嫉妬に襲われ指導受ける事
影千代殿をあしらい続けて獅子丸殿を打ち倒すと、俺を待っていたのは錬武舘に通う者の中でも割と年嵩の者達からの手荒い洗礼だった。
幾ら実戦を経験したとは言え、未だ技も体も出来上がっていない二人が相手では、俺が稽古を付けると言う形にしか成らず、此方に取っても実入り有る稽古が必要だろう……と言うのが彼等の弁では有った。
が、そう言って俺に挑みかかって来た者達の大半は、御家人旗本大名問わず、次男や三男若しくはそれ以下の家の跡継ぎでは無い者達。
「子供の癖に許嫁とか!」
「しかもお前確か四男だよな!?」
「色気付きやがってこの野郎!!」
「俺達にも出会いをよこせぇ!!」
……どうやら二人と手合わせをする前にしていた会話を聞かれていたらしい。
「男の嫉妬はみっともないですよ」
打ち込まれる木刀を受け流しつつ、言葉の刃で其れ等の醜い嫉妬を一刀両断する。
「ぐぎぎ……言うてはならん事を!」
「嫉妬の心は父心押せば命の泉湧く」
「ええい、誰でも良い此奴に一太刀」
「者共、出会え! 出会えぇい!!」
四人の先輩を打ち倒したと思ったら、やはり同じ様な境遇の者や、嫡男では有るが未だ縁談が纏まって居ない者等が、どんどんと俺に向かって勝負を挑んで来た。
この状況、この雰囲気、何となく前世の学生時代を思い出して頬が緩むのを抑えられない。
子供の頃から警察学校に進むまで、殆ど毎日通っていた曾祖父さんの道場でも、誰かに彼女が出来たなんて話が有れば、嫉妬に狂った男達が其奴を休ませる事無く只管稽古を続けさせるなんて事は偶には有った。
あの厳格な曾祖父さんですら、そう言う時は『彼女を守れる男に成るには当然の試練』等と嘯いて、当人がへばるまで休む事を認めず只管稽古を続けさせたりもした物だ。
前世では彼女いない歴=年齢だった俺も、当然そうした嫉妬する側で稽古……と言う名のじゃれ合いに参加したが、真逆異世界に産まれ変わった上で、彼女をすっ飛ばして許嫁を得るとは思いもしなかった。
でもだからこそ、この理不尽な状況でも、彼等の気持ちを汲んで受けて立つ事に否は無い。
「俺は……いつ何時、誰の挑戦でも受ける。命がけで勝負します。誰でもかかって来い!その代わり……手前ぇも覚悟して来い!」
そう吠えて俺は決して弱い訳では無い上級生達をも相手取り、何時終わるともしれない嫉妬の刃に身を晒すのだった。
「あー、うん。鬼切り童子君は、極めて真面目な性質なんですねぇ。悪くは無いですが……でも幾ら許嫁とは言え、今の段階で口説き文句を手紙に組み込む事を考える必要は無いと思いますよ。先ずは近況報告を相互に繰り返し、文での交流に慣れましょう」
道場での修羅場は、多勢に無勢で流石に俺がへばって来た所で、その矛先が他の彼女持ち女房持ちに移った事、抜け出す事が出来た。
丁度その頃には、志学館の授業も一通り終わっている時間だったので、教官室へと足を向け語学を教える先生に相談したのだ、その結果返って来たのが今の言葉である。
ちなみにそう教えてくれたのは赤ら顔の老人と言って間違いない人物で、名を『平民 愚道』練武志学両館に置いて唯一その名字通り平民階級出身の教官だ。
彼は市井にいた若い頃には戯作者を生業として居た文著家で、戯作以外にも和歌や短歌に狂歌に川柳、更には外つ国の書物の翻訳等……火元国の文壇にこの人有りと言われた程の人物である。
その作品は火元国だけで無く外つ国でも多いに評価されており、そうした文学周りでの評価から、一時は朝臣として公家の家に婿養子に入る……と言う話まで出てきた程だったらしい。
けれども当時の彼には既に将来を誓い合った娘が居り、其れと無理矢理別れさせられる所だったのを回避する為、武に依って立つ者……即ち『武士』と成る為に大物狩りの鬼切りへと挑み、結果今ではこうして志学館の教壇に立つ立派な武士と成っている。
とは言え、彼は一般的な武士の様に生来『氣』を扱う素質を持っていた訳では無い。
にも拘らず、武士と認められるだけの武功を上げたのは、酒を呑み酒精を氣に変える業である『練火業』を修めて居るからだと言う。
赤ら顔なのは仕事中にも拘らず、常に酒を手放す事無く授業中にすら呑んで居るからだ。
前世の世界の学校でそんな教師が居れば大問題に成るだろうが、此方の世界の江戸では仕事に支障が無い限りは、酒を呑んで居ても何ら問題にされる様な事は無い。
寧ろ彼の場合、酒を呑まないと武士としての武力を維持出来ないだけで無く、手が震えてたり精神的に不安定に成ったり執筆が滞ったり……と、完全に酒精中毒の欠陥品に成り下がると言う問題も有ったりする。
しかし多少なりとも酒さえ入って居れば、思慮深い文豪で元町民とは思えぬ豪腕の持ち主だ。
今もお猪口片手に俺の相談に乗ってくれているが、吐息が熟柿臭い事以外には何ら問題は無い。
なお名字の『平民』はそのまんま元平民で有り、武士と成った今でも其れを忘れず驕る事無い様にと、名も姓を与えられた際に改名した物で『愚道』と言うのは自分は決して賢者では無いと言う自戒を込めた物らしい。
町人だった頃の名は『久道』で、戯作者としての筆名が愚道だったと言う話だ。
「許嫁ってもお互い未だまだ子供、無理に背伸びをした内容を書いても仕様が無い。とは言え今の時点で二つ名を得ている君に、歳相応の子供らしさを求めるのも違うでしょう。なればこそ普段の行いを記するのが最良と思いますよ」
文机の上に置かれた徳利からお猪口に酒を手酌で注ぎ、言い切ってから其れをくいっと一気に呷る。
「んで、次からは相手の文を読み、其れに対する返事と伝えたい事を少しずつ織り交ぜて行けば良いのです。歳頃に成ったら相手を思う気持ちを歌に込めて一首捻るのも有りですが、お互いに教養が付いてからじゃなけりゃ誤解が産まれる事もあるから注意ですね」
肴の鯣の足、所謂下足を一本口に放り込み、其れを獅噛みながらきっちり手紙の書き方を指導してくれるのだが……皿の上に盛られた鯣は本体が一切無く下足だけなのがちと気になるな。
「ん? 食うか?」
俺の視線が下足の方を向いていたのに気が付いたらしい先生は、そう言いながら下足を一本引千切り、俺に向けて差し出した。
「はい、頂きます」
鯣は嫌いじゃ無いので、素直に其れを受け取り口へと運ぶ。
「ん? ああ、此れは下足だけで買ってんですよ。鯣一枚丸まんまってのは割と高くてね。んでも下足だけを纏めた奴なら、ちくと安く買えるんだ。烏賊燻やら裂き烏賊やらを胴体で作って、その余りの下足を干した奴が出回ってるんだそうで」
余り物とは言っても、物自体が悪い物と言う訳では無い様で普通に美味い。
「後は……もう一寸で良いから字の練習もしないとね。字の美しさに惚れるなんて事も有るっちゃぁ有るらしいですからね。君の字は整っては居るけれども味が無い。ただ崩せば良いって物でも無いですし、崩し方も作法が有るので簡単じゃ無いですがね」
そう苦言を呈されたのは、読み易い綺麗な楷書のお習字では無く、崩しながらも美しさを追求した『書道』としての文字の書き方を覚えろと言う言葉だった。
「兎角、今の段階で出す文ならば未だ拙い文字でも問題無いでしょうが、歳頃に成って歌を送る様な時期までにはもっと美しい字を書ける様に成らんといかんでしょうね。書の時間にも忠実に顔出しなさいな、ちゃんと見てあげるから」
言いながら徳利を傾け、お猪口に酒を注ごうとするが、中からは一滴垂れただけだ。
其れを見て軽く徳利を振り、中から音がしないのを確かめた上で、口を上に向けて其処に逆さにした徳利を向ける……が、当然其処に酒が残っている訳も無く、最期の一滴が舌の上に落ちる。
「っち! もう無くなっちまったか……お代わりはっと、ありゃ? 此れが最期か? しゃぁねぇ買いに行くかぁ。ツー訳で、私ゃそろそろ出掛けるからよ。まぁ今言った事に注意しながら書いて見りゃ良いんじゃないですかね? 持ってきたら添削してあげますよ」
文机の横に置かれた瓶に付いた蛇口を捻り、徳利にお代わりを注ごうとするが、どうやらそちらの中も売り切れらしく、彼は忌々しげに舌打ちを一つして、そう言いながら立ち上がり、脇目も振らず教官室の出口へと歩を向けた。
「はい、有難うございました」
去り行くその背に俺は頭を下げて、そうお礼の言葉を放つのだった。




