六百八十五 志七郎、文を書こうとし逃避する事
「……書けない。いや、何を書くべきなのか? 単純に近況報告とか、そう言うので良いのか? でもなぁ、此れ一応恋文の類だろう? 甘い言葉の一つでも捩じ込む努力はしないと駄目だよなぁ」
晩飯を済ませ風呂に入り部屋に戻った俺は、国許に居る許嫁のお連に向けた手紙の下書きを書く為に、ノートPCの前に座り込み腕を組んで考えこんでいた。
仕事向けの文章ならば、前世に数えるのも馬鹿らしい程に書いて来たが、恋文なんて物は一度足りとも書いた事は無い。
……前世の俺が子供だった頃には未だ国際電子通信網は全く普及して居なかったが、一家に一台電話が有るのは当たり前で、手紙や葉書での連絡と言うのは、連絡手段としては既に廃れ始めて居た様に思う。
特に恋文なんて物は、告白の為に相手を人目に着かない場所に呼び出す手段として用いられる事は有っても、心を通わせる手段として……と言うのは極めて希少な物だったのではなかろうか?
いや、其れでも確か携帯電話が普及する前、俺が小学生位の頃には雑誌なんかで文通相手を探し、会った事も無い男女が手紙を通じて心を通わせ、遠距離恋愛をする……と言うのが流行った事が有った筈だ。
実際、前世の友人が応援して居た楽団の曲に、そうした文通恋愛を歌った譚詩曲が有り、その影響も有って俺自身の好みと言う訳では無いが持ち歌にしていたりする。
目の前のPCにダウンロードしてある百科事典に依ると、その曲が最初に発表されたのは俺が五歳の時らしいので、やはり色恋に興味を持った頃には、口説く為の恋文と言う物自体が廃れて居た……と言って恐らく間違いないだろう。
と言う事は、俺の中に参考とするべき経験は無い……では、どうすれば良いのか? 答えは簡単だ。
『愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ』と言う言葉が有るが、此れは『学の無い物は直接経験しないと物事を理解できないが、学が有れば書を読む事で其れを擬似的な経験とし、様々な事を理解出来る』と言う意味合いだと思っている。
そしてその言葉を知る俺は、この言葉の中で言われている『愚者』では無い、故に其れを何らかの書で学ぶと言う選択肢を取る事が出来る訳だ。
とは言え、この時間に母屋の書庫を漁ると言うのは現実的では無い、一般的な灯りの元である火を書庫に持ち込めば、最悪火事に成る危険性が有るし、向こうの世界から持ち込んだLEDランタンでは明る過ぎて周りに迷惑が掛かるだろう。
つまり今、俺が手に入れる事が出来るだろう『経験』は目の前に有るPCの中に有る物だけ……と言う事に成る訳だ。
いや、そう言えば京の都で会った紗蘭から受け取った猫の手型のUSBメモリーが有ったな。
PCの中身だけじゃぁ無く、この中に納められている物の中に参考と成る物が有るかもしれない。
そんな期待を込めてノートPCにUSBメモリーを差し込み読み込ませる……中には『novel』『game』『music』と三つのフォルダーが有った。
流石に深い所まで確認するには時間が掛かるので、それぞれのフォルダーを一階層だけ開いて中を覗いて見る。
……小説フォルダーは、何がどんだけ入ってるのかも分からん位、大量に様々な作品が詰め込まれてる見たいで、この中から的確に参考と成る作品を探すだけでも相当な時間が掛かるぞ?
せめて読んでたネット小説サイトの検索機能が使えれば、もう一寸絞り込む方法も有るんだろうが、ダウンロードした小説は一作品毎にフォルダーに纏められて、そのフォルダーには作品名は書かれて居るが、其れだけで内容は解らない。
いや、妙に長い作品名の作品が多くないか? フォルダー名の制限の絡みなのか、後半部分が見切れてるのが大半だが……うん、此処の発掘はまた今度にしておこう。
次に覗いて見るのは音楽フォルダー、音楽に疎い俺にも見覚えの有る音楽家の名前が並んで居る所を見る限り、多分それぞれのフォルダーを開けば、その音楽家のアルバム別に曲が入っているんじゃぁ無いだろうか?
試しに先程思い浮かべた楽団の名前が入ったフォルダーを開いて見れば、うんやっぱり見覚えの有るアルバム名……更に開けばやっぱり想像通り楽曲ファイルが納められている。
確か向こうの世界から持ち込んだノートPCの周辺機器の中にイヤホンが有った筈だ、この時間にスピーカーで音楽を垂れ流すのは近所迷惑だろうが、此れを使って聞く分には問題無いだろう。
丁度さっき思い浮かべたあの曲を見つけたので、久し振りに聞いてみよう。
……っと!? 横道に逸れていた! 取り敢えず、曲は聞いたままで次に行こう。
ゲームのフォルダーの中には更に『ヱロ』と『一般』の二つのフォルダーが入っていた、前者はまぁ開くまでもなく解る本来子供が遊んじゃ駄目な奴だな。
んで、後者の方も考えるまでも無く、性的な描写の無い普通なゲームが入っていると言う事だろう。
ゲームの中には殆ど小説と変わらない、と言うか並のネット小説よりも素晴らしいプロの物語が描かれている物も有るが、其れ等を読むのに掛かる時間を考えると、今は其れ等に手を出している余裕は無いな。
んー、今迄触れていなかった新しい作品の中から、欲しい情報を短時間で探すと言うのは流石に無理が有る。
なら出来るのは、以前読んだ事の有る『恋愛』ジャンルの作品を幾つか選んで読む事じゃぁ無いだろうか?
んでもなー、恋愛物は余り好んで読んでは居なかったんだよなぁ……。
幾つか好きだった作品は有るし、其れ等はノートPCの中に入ってるんだけれども、其れ等は一度読んだ事の有る作品だし、ぱっと思い浮かぶ参考に成りそうなシーンが出てこない時点で、俺の中で『経験』に昇華して居ないと言う事なんじゃぁ無いだろうか?
……うん、今夜急いで考えるのは止めよう。明日昼間の内に書庫で手紙の書き方を指南する様な書物を探すとか、志学館の教官や級友達に助けを求めても良いだろう。
では、今夜はどうするかって? 音楽を楽しみながら、未だ見ぬ名作を探すのに時間を使おう。
そう考えて、作品名を流し見て気になる物を探していく。
お?! 作品名を見てどんな作品なのか全く想像が付かないのが有るぞ? なんだよ、この同じ動物名を別文字で四つ並べただけの作品名。
目次ファイルを開いてあらすじを読んで見ると、既に書籍化されてる作品らしい。
よし、今夜は眠くなるまで此れ読んで見るか!
音楽の方も一曲を繰り返し再生するんじゃぁ無くて、アルバム単位での繰り返し再生にして、色々と聞きながら読むと言うのも悪く無いな。
その行為が逃避だと言う事は、前世の経験を鑑みなくても理解している。
国許で引き合わされた許嫁であるお連とは、小忠実に手紙を出す約束はしたが、俺には独力で手紙を書く能力すら無いと言う事も事実だろう。
だが……だがしかし『下手の考え休むに似たり』と言う言葉も有る、初回から自力で完璧な物を作れる人間なんて、一部の天才様を除けば居やしないのだ。
経験が無いからこそ書けないのだから、其れを無理矢理捻り出そうとした所で、そう簡単に出てくる物じゃぁ無い。
つか簡単に文章が捻り出せるなら、俺だって前世にネット小説を書いて居たさ。
俺が読み専だったのは、仕事で書く決まった文言を並べる様な物や、聴取した内容を解りやすく纏める……とかそう言う事は出来ても、想像の中で人物を動かし新たな世界を創造すると言う事が出来ないからだ。
「そう言えば、俺の文章は事務的過ぎて、加害者や被害者の感情とかそう言う物が伝わらない……って言われた事有ったなぁ」
文章力の無さは産まれ変わっても変わらんと言う事なのだろう、俺は一つ溜息を吐いてそう呟くと、PCの画面に映る文章に意識を向けるのだった。




