六百七十二 志七郎、刑罰を見て江戸州に入る事
角材が肉を打つ鈍い音が決して広いとは言えない刑場に響き渡る。
胡座をかき諸肌脱いで腕組をして座りこんだ従叔父上の背中を、仕置人が太く重い角材で殴打しているのだ。
白い玉砂利を敷き詰めた刑場は、竹を編んだ塀で覆われては居るが、その網目は割と緩く関所を越える順番を待つ行列からも、見ようと思えば幾らでも見れる、目隠しの効果は殆ど無い。
人の不幸は蜜の味……なんて言葉が有る様に、処罰処刑と言う物は古来より一般民衆にとっては大きな娯楽の一つだ。
罪も無い無辜の者がそうされるならば、誰しもが眉を潜めるだろう。
けれども相手がそうされるだけの理由を持った悪人の場合、人々は其処に愉悦を見出し熱狂する。
人は自分が正義側だと判断した時、途轍もなく残酷に成れる生き物なのだ。
そして同時に刑罰を人の目に付く様に行う事で一罰百戒とする意味も込められて居る。
惨たらしい罰を与えられる者を目にすれば『自分はああは成りたく無い』と考えるのが普通の反応だ。
故に刑場は邪魔が入らない為の塀は有るが、其れに目隠しとしての性能を敢えて与えて居ないのである。
しかし問題は……自前の毛皮を晒した従叔父上の身体は頑丈過ぎて、人を殺さぬ様に叩く事に慣れた筈の仕置人が普段の叩き方では、何ら痛痒を感じぬと言い出し、手加減がどんどん減っていく事では無かろうか?
「どうした! 腰が入って無いぞ! その程度の叩きでは俺には堪えぬぞ!」
つい先程等二十回を超えた所なのだが、従叔父上は未だ元気満々にそんな声を張り上げている。
「畜生! 手前ぇ! これ以上だと本気で手加減抜きに成んぞ! お前ぇが言い出したんだかんな! くたばっても知らねぇぞ!」
仕置人は基本的に武士階級の役人では無く、奉行職に付く者が個人的に雇った町人階級の者で有る事が多い。
角材を手にしたその男も、褌一丁身に纏い全身の朱い龍の入れ墨を晒して居る事から、恐らくは前科持ちの八九三者なのでは無かろうか?
町奉行やその下の同心達の組下に居る十手持ち……所謂御用聞きや岡っ引きと呼ばれる者達も、前科の有る者達が司法取引の様な形で奉行に協力する様に成った者が多いと聞いた覚えが有る。
元々が八九三者で有るが故に、他人に暴力を振るう事に慣れており、犯罪者を捕らえる際に躊躇無く其れを振り翳す事が出来るから……とか、犯罪組織の内部に通じた者の協力が捜査に必要不可欠だから……とか、様々な理由で彼等が雇われるのだそうだ。
今従叔父上を打って居る男も恐らくは、そうした理由でこの関所奉行に雇われていると見るべきだろう。
町人階級の八九三者……と言う事は、当然と言うべきか所詮は只人、氣を纏う事の出来ぬ者では、氣功使いに痛手を与える事は出来ない。
とは言え、従叔父上は別段氣で防御力を高める様な事はしておらず、純粋に肉体の頑強さだけで重い角材での殴打を受けて尚も、腰が入って無い等と仕置人を叱咤しているのだ。
「無論! この熊爪 徹雄、一度吐いた唾を呑む様な意気地無しでは無い!」
先程奉行に言ったのと全く同じ言葉を口にした従叔父上は、其れからも殴打され続けるも、一度も揺るぐ事すら無く、百叩きの刑を無事終えるのだった。
「江戸っても言うほどすげー街って訳じゃぁ無いんだなー」
無事処罰を終え、荷物検めを含めた全ての手続きを済ませた俺達は、昼過ぎを回った頃に関所を通る事が出来た、そして其れから少し進んだ辺りで、九郎がそんな言葉を口にした。
山間に築かれた白虎の関を抜けたその先は、辺り一面田畑の広がる田園地帯だ。
「確かに江戸州には入ったが此処等は飽く迄も郊外だ、九郎が想像している花の大江戸は江戸城を中心とした市街地部分に入れば見れるぞ。まぁ大名屋敷は市街地と郊外の狭間に有るから街を見に行けるのは後日に成るだろうけどな」
此処等は確かに江戸州内では有るが、此処を江戸と言い切るのはちと乱暴だろう、そう判断した俺は九郎にそんな言葉を投げ掛ける。
「富田とて藩都は江戸と変わらぬ……とまで言えば言い過ぎだが、其れでも火元国中を見渡せば上から数えた方が早い大都市だが、お前の育った村は道中見た数多の地と然程変わらぬ光景だったであろう? まぁ大江戸は百万の民が住む世界有数の大都市だがな」
従叔父上は上様が世界樹の神々に謁見する為に、火元国を出た際に護衛の一人として随行した事が有るそうで、外つ国の事に割と明るいと言う。
その言葉に拠れば、外つ国では人口十万人を越える程度でも十分な大都市と言えるそうで、比較的近い所では東方大陸北部に有る鳳凰武侠連合王国の王都が十四万人程だそうだ。
なお世界の中心である世界樹諸島には、大都市と呼べる程の街は無く、幾つもの島々に其々万に届かない程度の者達が、神々と共に暮らしているらしい。
……とは言え、神々の大半は殆ど休む事無く、この世界が正常に運営される為の仕事をしており、島々に住む者達の殆どはそうした神々の身の回りの世話をする為の人員なのだと言う。
確か以前お花さんに聞いた話では、森人と呼ばれる者達の大半は、その世界樹諸島で神々に奉仕する為に、その長い寿命を費やすのだと聞いた覚えが有る。
同時にその外に居るのは、彼女同様に冒険心に溢れた異端者だけなのだとも言っていたな。
「瓦版は要らんかねー、新鮮取れたて最新情報の瓦版は要らんかね―」
と、そんな事を話ながら歩いて居ると、市街地の方から関所に向かって、そんな売り声を上げながら歩いてくる瓦版売りの商人と思しき男がやって来た。
編笠を被った着流し姿のその男は、商品である瓦版が入っているだろう木箱を背負い、然程熱心では無い声出しをしながら俺達とすれ違う。
「おう兄ちゃん、どんなネタが入ってんだい?」
そのすれ違い様に従叔父上が編笠の男に、そんな言葉を囁く様な声で問いかける。
「へぇ、今日のネタはお孫様の悪奉行退治の件、とある藩の姫が稚児を屋敷に囲い込んだ件、とある藩の御子息が四人の妾を無事孕ませた件なんかが入ってますよ、後は読んでのお楽しみってな感じですわ、一部八文いかがです?」
すると彼は見出しだけをさらっと答え、即座に買うか買わないかの判断を求めて来た。
「ふむ……一部貰おうか。此れから江戸に入るならその辺は押さえて置いた方が良い話と言う事だろう?」
従叔父上は一瞬の迷いも無く、そう言うと腰に下げた銭差から四文銭を二枚外し彼へと投げ渡す。
「へぇ、確かに、毎度あり。んじゃまちょっくら待ってくださいよ」
受け取った銭を袂にしまうと、彼は一度背中の箱を下ろし、中から前世の世界の新聞一面程の大きさの一枚紙を取り出し、従叔父上へと差し出した。
向こうの世界の新聞の分量から考えれば、裏表二面だけで殆ど変わらない値段を取るこの瓦版は割高にも思えるが、そもそも紙自体の値段が此方と向こうでは比べ物に成らないので、比べる事自体が間違っているのだろう。
「へぇ……お!? こりゃ随分と面白い事に成ってるじゃぁ無ぇか! おい、お豊お前ぇも読んで見れや、ちと笑える事に成ってんぞ」
瓦版売りが過ぎ去り、子供達の足に合わせて歩きながら瓦版を読んでいた従叔父上が、笑いながらそんな言葉と共に其れをお豊さんに、お豊さんから桂殿に、桂殿から俺へと、回し読みして行く。
……武光は俺が居ない間に随分と御活躍のご様子で、既に『暴れん坊お孫様』なんて二つ名で呼ばれてるらしい。
そんな話を始めとして其処に書かれていたのは、俺達猪山藩の者ならば誰の話なのかが一瞬で解る、そんな話ばかりなのだった。




