六百七十 志七郎、初めてを経験し最大級を感じる事
飯を食い終わったら、何時の間にか何処へやら消え去って行った商人軍団の皆さん。
どうやら運び屋と解体屋の他に買取屋と呼ばれる人達も混ざっていたらしく、俺達が必要とする分以外の素材は全て銭に変わっていた。
そんな訳で今此の場に残っているのは、俺達一行と子供達だけである。
飯を済ませた俺達は明日の朝一で関所に向かう事にして、今夜は此処で一夜を明かす事にした。
此の旅に出てから毎日きっちり宿場の旅籠に泊まるのが当たり前に成っていたが、銭に余裕の無い町人のが旅をするならば、良くて木賃宿と呼ばれる安宿か、下手をすれば野宿するのが普通である。
幕府から旅費が出るこの旅は道中で遭遇した騒動の数々を例外とすれば、難易度的には超簡単と言った所だろうか。
此の子達が此処で暮らして……いや、生き延びて居た事に比べてたら、本当に恵まれた環境で生きて来た事に間違いは無い筈だ。
前世でも、学生時代の林間学校の様な物を除けば、俺に野宿の経験は殆ど無い。
いや何回かは有るが、其れはそう言う趣味を持つ先輩に付き合っただけで、その際には天幕や寝袋その他数多の便利な道具が有る状態だったので、何も無い地面に寝っ転がる様な経験は、前世から今生通して一度も無いと断言出来る。
と成れば四煌戌の腹枕でふかふか温々の眠りに付くのがより良い選択と言えるだろう。
けれども俺はそんな気持ちに蓋をして、快適わんこ枕を子供達に貸し出す事にした。
布団も無い洞窟の中で日数を数える事も難しい程の間、生き延びて来た彼等ならば、ある程度慣れては居るのだろうとは思ったが、其れでも決して快適な生活が出来ていた訳では無く、皆一様に其の顔には疲れが浮かんでいたからだ。
相手が一人二人ならば俺も一緒に眠れる位、四煌戌の身体は大きく成っているが、流石に十人近い子供達が群がる様な状態に成っていると、其処に更に俺を押し込むのは流石に狭苦しいだろうと言うのも有る。
「にしても、随分と気持ちよさそうに寝てるなぁ。よっぽど疲れてたんだろうなぁ」
そんな従叔父上の言葉通り、伏せの姿勢で眠りに付いた四煌戌の左右で、その身体に凭れ掛かる様にして眠る姿勢に入った途端、彼等はあっさりと夢の世界へと旅立ったのだ。
うん……疲れてたと言うのも間違いないだろうが、四煌戌達の身体は程よく暖かで、小忠実に櫛で梳って上げている甲斐有って、其の毛皮はふわふわもふもふで抱き付くだけでも落ち着ける、極上の状態に仕上がっている。
前世に割とお高いお値段払って買った、幾つかの高級寝具の類よりも、彼等の腹に埋もれて眠る方が、余程寝心地が良いのだ。
故に過酷な環境に晒され続けた彼等が、一瞬で堕ちたのも何ら不思議は無い。
「ちゃんと眠れてる見たいね、辛い思いをした子は悪い夢を見て、ある程度育った子でも夜泣きする事が有るんだけれども……余程良い夢を見てるのかしら? 皆良い顔で眠ってるわね」
お豊さんの言う通り、四煌戌を安眠枕にした子供達は、穏やかな寝顔で健やかそうな寝息を立てている。
ちなみにわ太郎だけは、四煌戌の腹枕では無く胡座を掻いて座ったゴリさんの懐に抱かれ、更にその懐には小狐を抱いて眠る様だ。
「さて俺達もそろそろ寝るとしよう、子供達だけで長らく野宿出来て居たんだ、此処等は鬼や妖怪が殆ど出ない場所なんだろうが、念の為『嫌鬼香』を焚いて置こう。此奴を焚いて置けば見張りを立てる必要も無くなるしな」
そんな事を言いながら桂殿は、自身の振り分け荷物から小さな香炉を取り出し、其処に入れた抹香に火を灯すと、甘い花の様な香りが辺りを包み込む。
其れは梅桃桜に藤の花等を主に他幾つかの鬼や妖怪が嫌う香りを混ぜ込んだお香で、其れを焚く事で一時的に鬼や妖怪が近づくのを防ぐ効果の有る術具である。
とは言え、防げるのは飽く迄も鬼や妖怪の類だけで、追剥や野盗等の悪意有る人間には効果は無い。
まぁ其れでも、此処に居る大人達は皆達人と呼ぶに相応しい域に居る者達だし、俺だって眠って居ても相手が余程優れた隠形の使い手でも無ければ、誰かが近づく気配を察して飛び起きる事が出来る程度の鍛錬は積んでいる。
其の辺の自信は皆同じの様で、其々思い思いに横になり眠る体制に入っていた。
なお九郎は従叔父上とお豊さんの間で、丸で実の子の様に守られて眠っている。
「ぴっ、ぴよちゅちゅん、ぴっぴかぴ!(し、仕方ないわね、私が一緒に寝てあげるわ!)」
周りに習って俺も横になろうとした時、普段四煌戌の腹に埋もれて寝ているヒヨコが、今日は其の場所を子供達に譲った事もあり、何処で眠るのか迷った挙げ句仕方がないと言いつつも、俺の懐に飛び込んで来たのだった。
「んだから、俺達ゃ女衒でも無けりゃ人買いでも無ぇっつーの! 此奴等は俺の弟子! 此れでも宮仕えの身なんでな、弟子連れて修行に出るって報告を殿にする為に江戸へ上がって来たんだってーの!」
もふもふのヒヨコを抱いて眠った翌朝、四煌戌の腹が余程気持ちよかったのか、子供達の顔に色濃く出ていた疲労の痕は大分薄れていた。
「ってもなぁ、お前さん諸に混じり者じゃねぇか……其処まで人外の容貌を持った奴を重用するお大名なんざぁ早々居ねぇだろ? んで、其れがこんな薄汚ぇ子供を沢山連れてりゃ、疑うなって方が無理な話だろ?」
此れならば安心して江戸へ連れて行ける、そう判断し朝一で白虎の関へとやって来たのだが……其処で此の一行の代表者だと目された従叔父上が、子供達を攫ってきた悪党だと役人達に思われたらしく、厳しく詰問を受ける事に成ってしまった。
「いや、手形を照会すりゃ俺が何処の誰かだなんて直ぐ解る事だろよ! ほれ、俺の手形だ! さっさと確認してくれよ! 俺はなんにも後ろ暗い事なんざぁしてねぇんだからよ! あと、混ざり者って思いっきり蔑称だかんな! 下手しなくても決闘沙汰だぞ!」
ずいっと鬼切手形を突き出しながら、怒鳴り散らしつつも、実際其処までキレている訳では無い様子で、役人に忠告の言葉を添える従叔父上。
人の容貌を持たない獣相の彼は、多分猪山藩士として父上と共に江戸へと上がった際にも、他藩の者から割と似たような扱いを受けた事が有るのだろう。
其の度に一々決闘し、相手を斬り殺す様な真似をしていては、猪山藩の外交に差し障りが出る、故に我慢を強いられるのは日常茶飯事だった筈だ。
「はいはいよ……と? お!? ああ!? 猪山藩所属の熊爪 徹雄って!? アンタあの『祟り斬り』の熊徹か!? 失礼致しました!」
そんな従叔父上の手形を受け取り、その表層に表示されている内容を見た瞬間、役人の背筋がピンと伸び、それから腰が直角に曲がる程に頭を下げた。
従叔父上の二つ名らしい『祟り斬り』と言うのがどんな意味を持つのか、詳しく聞いて見たい気もするが、今俺が口を挟むべきでは無いだろう。
「おう、解ってくれりゃ良いんだよ。知ってると思うが家の藩にゃぁ所謂混ざり者は山程居るんだ。つーか藩主である猪河家自体が混ざり者の家系だかんな? 下手な相手に下手な事抜かすと、マジでお前さん腹切る羽目になんぞ? 気ぃつけろよ?」
桂殿よりは年嵩だが、それでも未だ若手と呼んで差し支え無いだろう、その役人に従叔父上は諭す様な声で重ねて忠告の言葉を口にする。
「はい、申し訳有りません。で、子供達は御弟子さんってな話でしたが、彼等の手形も検めさせてもらえますかね?」
改めて謝罪の言葉を口にしたその役人は、それでも仕事を忘れず子供達の立場や身分を確認する為に、彼等にも手形を出す様に要求した。
その瞬間、熊の様な剛毛に覆われた従兄弟叔父上の後頭部に、大きな汗の文様が浮かび上がった姿を俺は幻視する。
「いや、此奴等見ての通り未だ小さくてな、手形を持って無ぇんだわ。ほら、此処の関所にも登録用の水晶有るだろ? 面倒かも知れ無ぇが其れで手形新規で作ってやってくれや」
……手形の登録の際には、その者が犯した罪なんかが丸見えに成るとか聞いた覚えが有るが、大丈夫なのだろうか? 焦りを隠す事無く役人に手形制作を依頼する従叔父上の後頭部を見つめ、俺は今生で生きて来た中で最大級の不安を感じるのだった。




