六十五 「無題」
朧月の淡い光に照らされた白砂の庭を眺めながら手にした盃を呷る。
焼けるような強い酒精が喉を流れ落ちていく感覚は、普段ならば心地よいと感じられるだろうが、今宵ばかりはそれすらもが苛立たしい。
肴はあたりめに炒り豆、棒たらと乾き物が並んでいるが、それらに手をのばす事無く、徳利から盃へと乱暴に酒を流し込むと、再び一気に呑み干す。
「随分と荒れた呑み方してるじゃねぇか、そんなんじゃ折角の酒が泣くってもんだぜ」
障子を開ける僅かな音すら建てること無く、そんな声が背から聞こえてきた。
「一朗か……、すまんの隠居の身である其方を呼び付けて」
振り返ることなくそう声をかけ、まだ十分に中身が入った徳利を手に取る。
「なぁに、かまやしねぇよ。師範代が出来る奴なんでな」
一朗はそう言いながらワシの横へと腰を下ろし、伏せてあった盃を手に取った。
酒を注いでやると、一度目を閉じ盃を掲げ黙礼しそれから口を付ける。
「……随分と強ぇ酒だな、こりゃ富田の酒かい」
一口、二口、よく味わうように口を付け、最後にはグイッと一気に呑み切りそれからそう問いかけてきた。
「……ああ、酒処富田自慢の焼酎じゃ。今年の酒は随分と良い出来じゃと、先日これを受け取った時にも良い面で言っておったわ」
空いた盃に再び酌をしつつ答えを返す。
「その様子だと筋右衛門が乱心して、自害したってなぁやっぱ嘘っぱちかい」
「当たり前じゃ! あの気骨ある男が早々乱心などするものか!」
そう叫ぶように声を上げ、苛立ち紛れに膳に盃を叩き付ける様にして置いた。
富田藩主、骨川筋右衛門、彼はその名の通り気骨に溢れ筋の通った良い侍だった、一朗との嫁取り絡みで色々と下らぬ噂が世間に流布しようと、それを鼻で笑い飛ばせる強い男だった。
落ち目だ何だと江戸では言われていたが、国元は彼の堅実で実直な内政手腕もあり、こうして良い酒を生み出す余裕があった。
美味い酒はその地が豊かでなければ作り出すことは出来ないと言われている。
良い米、良い水が良い酒と成る。
本当に落ち目ならば悠長に酒造りなど出来はしない、此処にこうして富田の良酒がある事こそが彼の家が決して衰えては居ないと言う左証なのだ。
だが武士は殊の外体面を気にするもので、一朗との嫁取りに負け零落れた、と噂される彼の家に嫁を出したいと思う大名が居なかった事もまた事実。
普通ならば上様なり何なりが取り持って嫁を取らせるのだが、一度それで失敗したという事で皆が二の足を踏んでしまい、そうしているうちに歳を経てしまった。
最後の手段というわけでは無いが、家臣の娘を嫁にするという手も有っただろうが、自らの立場権力で若い娘を嫁にすると言う事を、殊の外醜く男の武士のやるべき事ではない、と彼自身がそれを嫌ったのだという。
「正室こそ居らなんだが、国元には遊郭より身受けした娘を側室とし、その娘が昨年子を産んだらしい」
大名の妻は実家にもそれ相応の家格が求められ最低限武士階級出身、それでも将軍家から見て陪臣である家臣の娘を娶れば、その子は又者の子等と同じ大名同士でも馬鹿にされ舐められる要因ともなり得る。
それ故に大名は将軍家や大名家からの嫁取りを望み、譲っても御家人、旗本家と言った直臣の家から嫁を取るのだ。
無論中には、遊女や町人のといった武士階級以外の娘と懇ろに成る事もあるだろう、そういう場合にはその娘を側室とし、武士階級から別途正室を娶るのが通例である。
骨川家の様に正室不在、と言うのは過去例の無い事らしいが、幕府の定書では正室とその子が江戸屋敷に常駐すれば良いとされているので、決して筋を外した事では無い。
もっとも、江戸屋敷で養育されなければ藩主として幕府に認められる事は無いので、側室の子も初祝の頃には江戸へと連れて来るのが通例ではあるが。
「てこたぁ、その子が富田を継ぐ事に?」
「いや、そうは成らぬはずじゃ」
この一件が無ければ、当然そうなるはずだ。
だが公には、藩主が乱心し家臣を撫で斬りにした上、江戸を危機に晒したということに成る、そうなれば当然お家取り潰しとされるだろう。
もし取り潰しを免れても、江戸屋敷に連れて来られていない子は、公式には大名の子とは認められていない、故に断絶と扱われる事は避けようが無い。
断絶した家を後々縁者を立てて再建する事も出来なくは無い、当然幕府や家臣がそれを認めれば、では有るが。
……そう考えると今回の一件、猪山や幕府ではなく富田を乗っ取る為の策謀と言う可能性も有ろうか?
いや富田の今後は上様の胸三寸で決まるのだ、余りにもやり方が乱暴過ぎる。
「よぉ、そんな顰めっ面しても、决めんのは上様だろ。オメェが思い悩んでもしょうがあるめぇ」
と、そんな事を言いながら、徳利を差し出してきた。どうやら考え込んでいる内に知らず知らず盃の中身を飲み干していたらしい。
「それに、俺を呼びつけたなぁ、そんな話の為じゃあるめぇ」
酌をしながら言われた言葉で、ワシは本題を思い出した。
「ああ、そうじゃったな。其方を呼んだのは他でもない、志七郎をどう見た?」
一朗には志七郎が過去世の記憶を持つ事は未だ話しては居ない、だが感の良いこの男の事言われずとも気付いて居ることはあるだろう。
「ああ、ありゃ駄目だ。俺が教えるこたぁ何もねぇよ」
何のことも無い、と言わんばかりに手をひらひらと振りながらそんな事を言い放った。
「なん……じゃと? お主ほどの者をして、そう言わしめるほど才に欠けると?」
「いや逆だ逆。馬鹿息子は瞬歩と氣翔撃しか教えてねぇって話だったが、あのボウズ昨日の戦じゃ発氣掌もどきに疾脚もどきを使ってやがった。ありゃ自分で考えたんだろうよ」
発氣掌は打撃が触れる直前に氣を弾けさせ、更に氣を纏った打撃を叩き込む技法で、手慣れた物ならばその一撃で数発撃ちこむのと同じだけの威力を出すことが出来る。
疾脚は蹴り足から氣を放つ反動で着地する事無く連続で蹴りを叩き込む技法だ。
氣の運用に関して基礎の基礎を習っただけだというのに、その応用と言える技を拙いながらも戦いの中で考えだし使っていたのだ、その才能を疑う余地は無いと言うのが一朗の弁だった。
「それによ。あのボウズ五つのガキだってのに体の捌きにゃ軸が立っていやがる、ありゃ過去世持ちだとしても飛び切りだぜ?」
過去世の記憶を持っている事はやはり悟って居たようだが、志七郎はそれだけではないらしい。
一朗はこれまでにも何人か過去世持ちを見た事があるそうだが、その者達は知識として……すなわち頭では覚えている物の、それに身体が付いてくる事は殆ど無いのだと言う。
特に武芸は身体で覚える物であるため、頭で覚えていようともその通りに身体を動かす等と言う事は到底出来る物では無い。
だが、志七郎は幼い身ながらも熟練と呼ぶに相応しい体捌きを見せていた。
「前の世じゃ余程不器用者だったんだろうよ。頭や身体だけじゃなく、魂に刻まれる程稽古を繰り返したんじゃなけりゃ説明が付かねぇ。ありゃ師匠冥利に尽きるってもんだぜ」
既に一廉の武芸者と呼ぶに相応しい技術技量は持っているだろうあの子に、更に何かを教えても今ある物を崩すだけで決して志七郎の為には成らない、と一朗は言う。
「氣の使い方は拙いが、それだってテメェでどうにか工夫させる方がアレの為にゃ成るだろうよ。それよか術の方の師匠を探してやれよ。まぁお前さんがそれをしてねぇってこたぁ、その系統も解ってねぇんだろうけどよ」
こと武芸に関しては一朗を超える者はこの火元国には存在しない、世界でみても恐らくは武神様やそれに連なる神仙以外にこの男を上回る者は居ないだろう。
その一朗がこう言うのだ、武芸に関しては本人の努力に任せれば良いのだろう。
「大社様がお戻りになられたら、一度神託を受けに行くとしよう。で、其方はどうするつもりじゃ? ただ国元で大人しくしておるタマではあるまい?」
「俺ぁ骨川の子とやらを見てくらぁ。上様の手も伸びてるだろうがな」
一瞬、若い頃と何一つ変わらぬその笑顔を羨ましく思ったが、連れ添う者と共に歳を取る事が出来ない彼の苦しみに思い至る。
「上様にはワシから言っておく、骨川の妻子に苦難あるようならば……頼むぞ」
ワシがそう口にする時には、既に一朗は月夜に身を躍らせていた……相変わらずせっかちな男である。




