六百六十四 志七郎、朝日の輝きを目の当たりにし政を考える事
あれから数日後、早朝稽古の前に四煌戌とヒヨコを連れて散歩から帰って来ると、四角い輪の上で差し込む朝日を反射し、眩しい程に輝く頭の男が汗を流して居た。
「おう坊主、帰ったか! 此方のハg……おっと、話してんだから一旦手ぇ止めろよ! だから無気に成るんじゃねぇよ! ハゲをハゲと呼んで何が悪いってんだ嗚呼!?」
あの輝きを俺は知っている……義二郎兄上の親友で、鬼切小僧連と呼ばれる俺達の仲間である歌の兄貴、桂ハg……髭丸殿だ。
「私はハゲでは無い! 剃っているだけだ!」
鬼切奉行所の同心である彼は、基本盆暮れ正月以外に休みは無く、危急の用事が無い限りは鬼切奉行所に詰めて職務に当たる立場の者である。
そんな彼が何故こんな江戸から離れた道場で、伯父貴を相手に的手袋打ちなんかしているのか?
的手袋なんて最早関係無く伯父貴を打ん殴ろうと拳闘手袋を振り回す桂殿だったが、其れを笑い混じりにひょいひょいと避け、受け止め、捌き、逆に交叉法を打ち返す。
良い音を響かせて顎を打ち抜かれた桂殿は、四角い輪の中で大の字を描きぶっ倒る。
「ったく、幾ら経験者っても、高々四段で俺っちに拳が届く訳ねぇだろ。一寸挑発されたからって理性すっ飛ばす癖直さにゃ、何時まで経ってもデカブツに敵わねぇぞ。頭の事言われっと直ぐ切れるのがお前の欠点だって稲明の奴にも散々言われてんじゃねぇのか?」
稲明と言うのは確か、現桂家当主で鬼切奉行を務めるお方の名前だった筈だ。
其れを呼び捨てると言うのは、伯父貴が道場主とは言え、主君を持たない浪人者と言う立場である事を考えると普通は問題に成る行為である。
にも拘らず、其れをあっさりすると言う事は、父上同様に桂様とも顔見知りで相応に交流が有ると言う事だろう。
「此奴が態々こんな所まで来たなぁ、鬼切奉行所から出る討伐報酬を持って来てくれたって訳だ。危険指定妖怪の討伐報酬は藩からじゃぁ無く、幕府から出るのが慣例だかんな」
成程……八岐孔雀の討伐報酬を態々江戸から運んで来てくれたと言う訳か。
ついでに言えば、その数日前に伯父貴が倒した岡抹香の分の討伐報酬も合わせて持って来てるのだろう。
「んで、此方来るのにちと早く着き過ぎたんで、一寸汗を流して行く様に誘ったんだがなー。未だに前に会った時に指摘した欠点が全く治って無ぇんじゃぁ指摘しない訳にも行かねぇわなー、年長者としてはよ」
大の字に伸びたまま、頭の上でヒヨコが飛び回っている桂殿を見下ろし、伯父貴は肩を竦めて心配そうな顔でそんな事を言うのだった。
「改めて、幕府からの討伐報酬とその明細を読み上げる。此れは上意である心して聞く様に!」
朝稽古を終え朝食を済ませると、桂殿は髷を結った鬘を被り、正装を纏って道場の上座に座り仰々しくそう言い放った。
此処からは桂髭丸殿個人の発言では無く、幕府麾下鬼切奉行所同心としての職務上の公的な発言だと切り替えたのだろう。
「はっ!」
「御意!」
その前に座る様に言われた俺と伯父貴も、その言葉に対して上位の者と相対する時の礼儀として正座したまま、両の拳を床に付けて頭を下げる……と言う所作をしつつ返事を返す。
「撲震無刀流岳武士道場主、火取勇重。特二級危険指定妖怪『岡抹香』を単独撃破せしめし事を彰し金千両と感状を、征異大将軍禿河 光輝の名の元に授ける物である」
手にした書状を読み上げた桂殿は、其れとは別の書簡を差し出し、前世には時代劇なんかでしか見た事の無い、千両と書かれた金属で補強された木箱を前へと押し出した。
「ははっ! 有り難く存じます!」
それに対して伯父貴は一旦額を床に押し当てる程に頭を下げた後、そう言ってから書簡を捧げ持つ様にして受け取った。
「次! 同じく撲震無刀流岳武士道場主、火取勇重。並びに猪山藩、猪河志七郎。特一級危険指定妖怪『八岐孔雀』をたった二人にて撃破せしめし事を彰し金二千四百両と感状を征異大将軍禿河 光輝の名の元に授ける物である」
「はっ!」
「有り難く!」
今度は二人揃って、額づきそれから其々に与えられる書簡を捧げ持つ様にして受け取る。
本来ならば、こうした幕府からの感状や褒美と言うのは個人に直接与えると主従関係の混乱を生み兼ねない為、先ずは一旦所属する藩の藩主に渡され、それから家長へと下げ渡され、其処からやっと個人に下りてくる物だ。
伯父貴は無所属の道場主では有るが、所在地の藩の領民である事には変わらない。
なので本当ならば、伯父貴への報奨金や感状は岳武士藩の藩主……つまりは伯父貴の師匠に一旦は渡されて、其処から下賜されるのが通例である。
俺の方も当然藩主で有り、家長である父上に下賜され、その何割かが俺に渡されると言うのは本来の流れだ。
にも拘らず、桂殿が態々遠征してまで其れ等褒美を持って来たのは何故か?
先ず俺の方は、猪山藩猪河家の『自分の小遣い自分で稼げ』という家訓が有り、身体を張って稼いだ銭も功績も例え家長だろうと取り上げるのは許さない、と言う家柄故に頭越し云々関係無く褒美はそのまま与えられるのが慣例なのである。
んで、伯父貴の方はと言えば……貰える物が有るとしても、呼び出されるのが面倒だと普通に無視を決め込む事が何度も有ったらしい。
だからと言って岳武士藩主の武村様としても上から受け取った物を突っ返したり、横領する訳にも行かず、二進も三進も行かないと言う……さらなる面倒がその度に起こったのだそうだ。
実際には面倒だから無視するのでは無く、岳武士藩の家臣達から向けられる妬み嫉みの類が厄介なのだそうだが、無視したら無視したで無礼だ何だともっと面倒事に成る気がするのだが……その辺を配慮した結果、桂殿が直接持って来る事になったらしい。
「八岐孔雀の報奨金の取り分は二人で話し合って貰うとして……。態々私がこうして罷り越したのは他でも無い……八岐孔雀の飾り羽を一本二本売って欲しいのだ」
……ついでに職権乱用と言うか、役得と言うか、兎角そ~言った物を行使する為に態々その仕事を取って本人がやって来たと言う訳だ。
前世の日本で似たような事を警察官がやれば、先ず間違いなく公私混同だと世間様に叩かれる事に成るのだが……此処は賂すら合法である火元国『私益を公益に優先するなかれ』の原則を守る限りは煩い事は言われない。
私益を公益に優先するなかれ……と言うのは、公益さえきっちり出すので有れば役得の類で私腹を肥やしても構わないと言う事で、やり過ぎて私益が公益を上回る様な事だけはするな……と言う戒めの言葉でも有る。
人間とて生き物である以上……と言うか、他の生き物よりも圧倒的に欲深い生き物で有り、そうした欲を切り捨て禁止した所で、極々一部の聖人君子か悟りを開いた仏様でも無ければ完全に欲を捨て去る事等無理だろう。
前世の日本では政に関わる人間に清廉潔白を求めすぎる様に思うが、それを売りにする人間は其れしか能が無い無能でしか無い……。
そう思うのは俺の偏見かも知れないが、有能な政治家ならば清濁併せ飲んだ上で、そうした私益をきっちり隠し通すと言うだけの事なのでは無いだろうか?
金や色に関わる醜聞を素っ破抜かれる者は、その度が過ぎた……つまりは私益が公益を上回ったが故に誰も庇い立てする事無く、その政治生命を絶たれるのだと思う。
もっと単純に言えば、一兆の国益を引っ張る事の出来る政治家が、その中から一億程度をお摘みした所で其れは役得の範疇で済ませて良い程度の事なのではなかろうか?
身綺麗で有る事だけを優先し、一銭の役得も摘む事も無いが一円の国益を産む事も無い……そんな者が政を担うのが果たして本当に良い事なのか。
勿論、最良なのは一切の役得を摘み食いする事無く、莫大な国益を齎す聖人君子の様な政治家が存在する事だろうが……そんな事は夢物語だろう。
そんな事を考えながら、俺は伯父貴と桂殿が飾り羽の値段交渉をするのを、只黙って横で聞いているのだった。




