六百六十一 志七郎、猛稽古を積み狩りに精を出す事
岳武士道場に滞在し始めて早十日……朝飯前には宮太郎を中心とした住み込みの門弟達を相手に逮捕術の技術を研鑽し、昼間は火取の伯父貴や熊爪の従叔父上達と一緒に四煌戌や風太の餌を狩りに行く。
そして日暮れ前に帰って来たら夕食までの間、竿彦を含めた通いの弟子達を相手に、今度は木刀を手にして氣を纏った彼等に氣を使わず、素の身体能力と技術だけで対処すると言う割と厳しい稽古をする。
氣と言う超常の能力は、身体能力を強化し常人では為せぬ事も出来る様に成る物だが、其れだけで全てが出来る万能の能力と言う訳では無い。
元来武術と言う物は、優れた身体能力を持つ者の横暴に対して、力弱き者が対抗する為に生み出された物なのだ、つまり幾ら氣で身体能力を強化したとしても、其れに対処出来るだけの技術を持つ者には打ち倒されると言う事である。
幾ら莫大な氣を纏い超強化された身体能力が有ろうとも、其れを活かすだけの技術を持たねば『宝の持ち腐れ』でしか無い。
そして氣を纏った状態での訓練では、『氣を纏った状態での技術』は身に付くかも知れないが、何らかの術で氣を封じられたならば、その時点で詰む技術にしかならないのだ。
故に氣を纏わずに鍛錬を積み、氣を纏った者を相手に修練を詰むのである。
そうした厳しい稽古を重ね、腹と背中がくっつきそうな錯覚を覚える程に腹が減った状態で晩飯を頂き、軽く食後の茶を飲んだ後……もう一稽古するのだ。
夜の稽古は、御祖父様が居る時ならば爆氣功に慣れる為にその状態での全力組み手。
なんかティンと来たとか言って、何処かにふらっと居なく成る日も有るので、そう言う時は体力が切れるまで只管に立ち木打ちだ。
んで、動くのが辛く成って来たらサクッと風呂に入ってから、母屋の客間で夢も見ない程に泥の様な眠りに付く……。
そんな前世での警察学校よりも数段キツく、裸の里での鍛錬が天国だったんだと思える程に、此処での稽古の日々は濃密で苦しい物だった。
前世の常識から言えば、その後の成長に支障を来す可能性を考えて、子供にそんな無茶な稽古を強いる事は虐待だと言われるだろう。
例え其れが子供自身が自主的にやっている稽古だとしても、度が過ぎれば其れを止め無ければ、やはり虐待だと言われるかも知れない。
しかしこの身は只人の子供では無く『戦闘民族猪山人』の子だ、回復し成長するのに必要な栄養さえきっちり摂取し一晩寝れば、筋肉痛ナニソレ美味しいの? と言わんばかりに翌朝は元気一杯に回復しているのである。
とは言え、俺の得物が木刀で相手は拳闘手袋を填めていても、回復しきれない様な怪我を貰う事が無い訳では無いが、其れは即死する様な物では無いし、俺が作れる程度の霊薬でも十分に回復する程度の物だ、騒ぐ程の事では無い。
うん、俺も立派な猪山人なんだなぁ……そう実感するのは毎食毎食前世の同じ歳頃には絶対食い切れないだろう量の食事が、あっさりと腹の中に消えていく事でだ。
向こうの世界の拳闘とは違い階級制度なんて物は無く、減量を考えず身体を作る為にたっぷり食う事が推奨されている撲震無刀流の弟子達は、当然鱈腹食うのだが……成長期の宮太郎と、俺の食う量が然程変わらないといえば、どれだけ異常か伝わるだろうか?
ちなみにお勇さんや三十五伯母上は俺に輪を掛けて食うのだが、二人とお豊さんが並んで飯を食う様は、完全に前世の日本で偶にテレビで見た『大食い選手権』の世界にしか見えない。
しかも恰幅の良いお豊さんよりも、出る所は出て引っ込む所はきっちり引っ込んでいるお勇さんや三十五伯母上の方が圧倒的に食う辺り、やはり猪山の血を引く者は常人の三倍以上食うのが普通だと言う事なのだろう。
そんな訳で、食事量では伯父貴が一番少ないのだが、その代わりと言う訳か、彼は兎に角酒を呑む。
下手をしなくても仁一郎兄上と飲み比べをしても負け無いのではないか、と思える程に毎晩夕食と一緒に徳利を傾けているのだ。
時には俺が晩飯後の稽古を終え、風呂から上がって来ても尚、乾き物を摘みに呑み続けている事すら有る。
にも拘らず、翌朝の稽古や鬼切りに障る様な二日酔いをしている様子は見た事が無い。
もしかしたら伯父貴も、御祖父様や仁一郎兄上の様に、酒を氣に変換する錬火業を修めているのかも知れないな。
「にしても、本当にお前のワン公はなんつーか……ずりぃよなー。家の風太とは索敵範囲が違い過ぎだぜ。普通は戦場に入ってこんな直ぐに得物を捕捉する事なんか出来ねぇんだぜ?」
そんな日々を過ごし、今日も騎獣達の餌を狩りに近場の戦場へ伯父貴と連れ立って出掛けて来たのだが……大貉を一匹仕留めた時点で、彼はボヤく様にそう言った。
『逸れ一郎』と呼ばれる鎌鼬の一種である風太はその名の通り、風の属性をある程度操る能力が有り、その尻尾で巻き起こす風は対象の脚を払い、四つ脚までならば殆ど確実にすっ転ばせる事が出来る……のだが、其れ以外に風を操る能力は無いらしい。
対して家の四煌戌は、風の属性を宿す翡翠が一々指示をするまでも無く、微かに風を操って周辺の僅かな匂いすらも感じ取り、一番美味そうな獲物へと案内してくれる。
結果として今日も戦場に入ってから四半刻で一匹目の大貉と遭遇し、其れをサクッと仕留めた訳だが……伯父貴曰く、普通は此奴一匹捕捉するのに一刻で済めば御の字なのだと言う。
なお大貉は肉の味が大変良く、毛皮も割と高値で取引され、内臓や骨も霊薬の材料として需要が有る、一匹仕留めれば五両は堅い……この戦場で最も儲かる獲物だそうだ。
伯父貴単独ならば、此奴一匹仕留めたならサクッと売り払って、もうちっと安い肉を買って其れを風太の食餌に回すと言う。
けれども俺は其れをしない、四煌戌は俺が敢えて狙いを絞る様な指示を出さない限り、自分達が食うべき食材を優先する様に仕込んで有るので、此れは彼等が食べるべき食材と言う事なのだ。
「ばう! わおん! わふわふ(次! 見つけた! 風太の分)」
仕留めた大貉を近くの川で血抜きをし、四煌戌の鞍に括り付けていると、翡翠がそんな声を上げた。
敢えて『風太の分』と言い切るのには、多分何か意味が有るのだろう。
「どうやら次の獲物を見つけた見たいだ、なんか風太に食わせたい物だって言ってる」
翡翠の鳴き声を聞き耳頭巾で理解出来た俺は、其れをそのまま伯父貴に伝える。
「お? 風太に食わせる……って、此奴は割と何でも好き嫌いなく食うぜ? 流石に残飯ばっかり食わせる様な真似すっと身体に良くねぇってのは、義父殿に聞いてっから肉を中心に其れなりの物は食わせてんだけどな?」
ああうん……成程、特定の病気を嗅ぎ分ける訓練を受けた犬なんて者が、向こうの世界には居ると聞いた覚えが有るし、四煌戌の中でも特に敏感な嗅覚を持つ翡翠の事だ、恐らくは風太の身体に起こりつつ有る異常を嗅ぎ分けたのだろう。
そして其れは恐らく、食餌に拠る属性の偏りなのでは無いだろうか?
四煌戌が未だ幼い仔犬だった頃、その辺を知らなかった俺は、危うく此の子達を衰弱死させかけた事が有った。
きっと四属性の均衡をきっちりと考えて食餌を用意しなければ成らない四煌戌よりは、風の属性に偏った風太の方が厳密な食餌管理の必要は無いのだろう。
けれどもそれとて長年の積み重ねで、じわじわと偏りが重なって行けば、何時かは限界を越える……そうなる前に翡翠が同じ風属性の騎獣の誼助けてやりたいと考えても何ら不思議は無い。
「取り敢えず仕留めてから考えりゃ良い話じゃぁ無いか? 未だ日は高いしもう一寸狩って行こうよ」
聞き耳頭巾で四煌戌や風太から話を聞く事も出来るが、其れに時間を掛けるのは帰ってからで良いだろう。
そう判断し、俺は伯父貴の風太に相乗りさせて貰いながら、大貉を鞍に載せた四煌戌に次の獲物への道案内をさせるのだった。




