六百六十 志七郎、寝取られを感じ振られ男を思い出す事
「おーし、おしおし、お前等良い子だなぁ……此処か? 此処が良いのんか?」
並の牛よりも大きな四煌戌の首の下や腹を、お勇さんがそんな言葉を掛けながら、毛皮の根本まで指を突っ込んで引っ掻く様に撫で回す。
「わふん」
「くぉん」
「ふぁふ」
普段から多少抜けた感じの表情をしている翡翠は兎も角、勇壮な表情浮かべる事の多い紅牙も、優しいと言う事は優れていると言う事だと言わんばかりの穏やかな表情の御鏡さえもが、蕩けた様な表情で臍天で寝転がり、そんな声を上げていた。
四煌戌がそんな緩んだ表情をしているの、今迄一度たりとも見た事が無いぞ?
何ていうか……こう、恋人を寝取られた男ってこう言う気分なんだろうか?
「んー! 親父の風太んも可愛いけど、でっかいわんこも可愛いねぇ! いやーアタイも騎獣が欲しく成っちまうよ! んでも、此奴等身体に見合っただけ食うからねぇ……」
千切れそうな勢いで尻尾を振る四煌戌達の腹を撫でながら、お勇さんが心底羨ましそうにそんな言葉を口にする。
風太と言うのは伯父貴の騎獣の名で、種族は確か鎌鼬の一匹目つまりは『はぐれ一郎』と言う奴だ。
「お勇さんの腕が有れば、騎獣一頭の食い扶持位は稼ぐのそんなに難しい事じゃぁ無いんじゃないですかね? 俺も江戸に居る間は四煌戌の食餌分、自分で狩りに行きますしね」
人を乗せて走る事の出来る大鼬なのだから、その身を維持するのに必要と成る食餌は粗方『肉』だ、そう言う意味では四煌戌と食性は変わらない。
大きな違いが有るとすれば、家のは三つ首一つ一つがその身に合うだけの量を食うので、単純計算でも風太の三倍食うと言う事に成る。
この旅の道中の様に銭で食餌代を賄うならば、確かに其の額面は決して安く済んでいる訳では無い、けれども自分で狩って食わせるならば、彼女の腕前を考えれば決して難しいと言う程では無いだろう。
「んー、確かにアタイの拳なら一頭飼う餌を凹り倒す位は出来るけどサ。流石に毎日ってな訳にゃぁ行か無ぇからねぇ……。アタイ等女にゃどうしたって月に何日かは、まともに働く事も出来ない日が有るだよねぇ」
ああ……うん、女性特有の生理現象については、部長職に就いた際に受けた性的嫌がらせ対策研修で、色々と習った覚えが有る。
病気でこそ無いが、その『重さ』は人其々で大きな差が有り、然程影響無く日常と変わらぬ生活を送る事が出来る者も居れば、内臓を締め上げる様な腹痛を伴い寝床から起き上がる事すら出来ぬ者も居ると言う。
しかも同じ人物でも、其の時々の体調に寄って重さが変わる事も有る為、知識的には兎も角実感という点では、女性が金的を食らった時の痛みと言う苦しみが理解出来ない様に、男に其の辛さはやはり理解出来ないだろう物である。
更には同じ女性同士でも、比較的『軽い』者が圧倒的に『重い』者の感覚も理解出来ない事が多い……という話だった筈だ。
兎角、病気では無いが『まともに働けない』状態で有る可能性は零では無いので、女性の部下がソレを理由に休暇を申し出て来た場合には、絶対に承認する様に……と研修では言われた物だった。
確かにソレを鑑みると、日々必要な肉を狩り続ける生活と言うのは、幾ら腕の立つ女性でも少々厳しいと考えるのは当然の事なのかも知れない。
とは言え、四煌戌の様に『索敵能力』と『積載能力』に優れた妖怪ならば、一度の鬼切りで三日四日分の食餌を得る事も不可能では無いのでは無かろうか?
実際、俺だって四煌戌の食餌は一日も欠かさず毎日狩りに行く……と言う訳では無い。
が、それも考えてみれば『冷却』や『氷結』の魔法が使えるからこそ、大量の肉を腐らせずに済むと言うだけで、普通に常温放置では一日で駄目に成ってしまうか……。
かと言って草食系の騎獣の方が食餌代は安上がりかと言えば、そんな美味い話は無く草食騎獣の代表格と言って良いだろう馬も、其処らに生えてる草を勝手に食わせて於けば良いと言う物では無く、栄養の均衡を考えた飼料が必要で銭で贖うと決してお安くは無い。
特にどんな戦場に乗り入れても問題無い様な軍馬とも成れば、食う量も質も並の馬とは比べ物に成らない程に跳ね上がるので、維持に掛かる経費という点で考えると、自力で肉を狩ってくれば良い肉食系よりも高く付く可能性すら有るのだ。
肉食系でも草食系でも銭さえ有れば、飼う事自体は決して不可能では無いが、そうした様々な要素を鑑みて、娘にソレを買い与えると言う選択肢は、伯父貴の中にも彼女の中にも無いのだろう。
「ぴっぴかちゅん! ちゅちゅんがちゅん!!」
臍天の儘、翡翠だけで無く御鏡に紅牙までもが気持ち良さそうな寝息を立て始めた頃、俺の頭の上に居たヒヨコが唐突にそんな鳴き声を上げて、俺の頭を蹴飛ばして飛び降りた。
未だ飛ぶ事は出来ぬ身成れど、一所懸命に翼を動かして居るのは、多少でも落下の衝撃を減らそうとしたのだろう、短い脚を折り曲げ綺麗に着地すると、お勇さんの元へと駆けて行く。
「ぴっ、ぴっぴかちゅん! ちゅちゅんちゅん! ぴよぴよちゅん!」
そして撫でれ! と言わんばかりに己の頭を差し出しながら、そんな鳴き声をお勇さんに向けて投げかけた。
「ん? お前も撫でて欲しいのか? 良いよ、良いよ……ほれほれ、この辺か? この辺が気持ち良いのんか? うりうり……あはは、ちみっちゃい子も可愛いねぇ! うん其れに頭も良いんだね、アタイの事を気遣ってくれたんだろ?」
現実的に考えて、彼女が騎獣を得る事は難しい……そんな雰囲気を読んだのだろう、ヒヨコは此の場に漂う気不味い空気を消し飛ばす為に、態々彼女の元に撫でられに行ったらしい。
考えて見たら、四煌戌が本当に子犬だった頃は兎も角、ある程度成長してからは、躾けの為に褒める事はしていても、お勇さんの様に純粋に可愛がる……と言う様な事はしてこなかったかも知れない。
ヒヨコも生まれた時からある程度、人の言う事を理解している所為か、単純に甘やかす様な可愛がり方はして居ない。
そんな事を考えていると、ふと前世に聞いた『彼女は出来るけど直ぐ振られる男』の話を思い出した。
見目が良く会話も上手い彼は、軟派をすれば直ぐに女性と仲良くなり、然程苦労する事も無く多くの女性と懇ろな関係に成る事が出来たが、然程長続きする事無く、直ぐに別れ話を彼女の方から切り出される……そんな男の話である。
彼は確かに様々な話題を持ち、人を引き付ける話術も持っていたが……所謂『釣った魚に餌を与えない』質だったのだ。
様々な話題を持つと言う事は、常に様々な事に興味を持ち、情報収集に余念が無いと言う事であり、余暇と呼べる時間の大半を国際電子通信網の閲覧に費やして居たらしい。
彼女として付き合う様に成るまでは兎も角、一度『自分の女』と認識すると其れに対して気を払う事をしなくなり、二人で居る時も携帯電話を片時も離さず、其れは逢引中でも変わらない……そんな男だったと言う話だ。
……前世の俺の性格と、四煌戌やヒヨコ達に対する今までの対応を考えると、多分前世の俺に彼女が出来たとしても、その娘よりもネット小説を読む事を優先し、同じ様な結果に成ったのでは無かろうか?
ヒヨコがお連やお勇さんにはぴよぴよと甘えた声を出すのも当然の事だろう……俺は彼女に対して甘えを許す様な表情を向けた記憶が無い。
四煌戌は家臣であると言う認識が彼等の中にも有るし、俺を主君として認めているが故に、甘える様な事をさせずとも問題は無かったのかも知れないが、ヒヨコは間違いなく未だ雛なのだ、甘えて当然……むしろ其れをさせ無かった俺に問題が有る。
もっと愛され、甘えられる様な主になろう……お勇さんに喉の下を撫でられ、気持ち良さそうに船を漕ぎ始めたヒヨコを見て、俺はそう決意を固めるのだった。




