六百五十六 志七郎、海鮮しゃぶしゃぶを食い夫婦を思う事
ぷりぷりの歯ごたえと蛋白な旨味の刺し身……其れを沸き立つ寸前に上手く調整された出汁の張られた鍋に潜らせれば、煮魚とも刺し身とも違う新たな食感が口の中で踊る。
そうして咀嚼を楽しんだら、麦と雑穀の混ざった飯を掻き込む……うん、美味い!
貝類は浅蜊の様な二枚貝の身らしき物も有れば、鮑か床臥か……その区別は一寸着かないが、それらしい物の身を薄切りにした刺し身でもしゃぶしゃぶでも食えそうな物も有る。
「浅蜊は生で食っても美味く無ぇから、出汁に軽く潜らせてから食えよー。って刺し身も碌に食えない地域の出身なら、浅蜊って言っても解んないか……此れな、此れは生でも食えなくは無いけど不味いから」
と、次に其れを食おうかと思っていた所で、お勇さんが刺し身を食べ付け無いと言っていた九郎に、そんな注意の言葉を口にした。
成程、この貝はやっぱり浅蜊で生食用じゃあ無くてしゃぶしゃぶ用と。
此方の鮑っぽい奴は刺し身でも行けるよな? 前世に寿司でも食った事有るし……コリコリとした歯ごたえと、程よい磯臭さが醤油の塩気と相まって飯を進ませる。
んで、其れを今度はしゃぶしゃぶで……うぉ!? ほんの少し熱を加えただけなのに、食感が面白い程に変わった! しかも味の方もギュッと旨味が濃縮した感じで、濃厚な磯の香りが鼻に抜けて……こりゃヤバい、飯があっという間に腹の中へと消えていく。
おっと、貝や魚も良いが野菜もちゃんと食べないとな、此れはなんだろう? 前世に食べた事の無い葉物野菜を出汁に潜らせて食べてみる……うわ! 苦! んで臭いもキツイ! でも、此れは此れで慣れれば美味いんじゃぁ無いか?
甘唐辛子や苦瓜なんかの苦味が強い野菜は、子供受けの良くない物だし、今の俺の幼い味覚だと厳しいのかも知れないが、前世の俺はそうした苦味の有る物は割と好みだった筈なのだ。
高良や揚鶏なんかを向こうの世界に行った時に食った際には、前世と同じ味に安心する事が出来た訳だし、今生の身体と前世の身体で味の好みが大きく違うと言う事は無い筈である。
と言うことは、この野菜も食べ慣れれば美味いと感じる筈なのだ!
そんな事を考えている間にも、二本三本と謎の葉物野菜をしゃぶしゃぶしては口の中に放り込む。
「うわ! 苦!? お師匠、此れ俺も食べなきゃ駄目?」
俺がひょいひょいと食ってる物だからと、特に警戒する様な事も無くその野菜を口にした九郎が、其れを自分の取皿に吐き出しながらそんな言葉を口にする。
「好き嫌いすんな! ほれ見ろ、お前より小さな志七郎様でも食っとるぞ。青物もきっちり食わねぇと身体が出来ねぇんだ、強く成りたけりゃ食える物はなんでも食う! ただし身体に異常が出る様なら其れを無理して食うんじゃぁ無ぇぞ」
即座に其れを叱り付ける従叔父上の言葉に、九郎は一瞬嫌そうな顔を浮かべた後、一旦吐き出したソレを改めて口に放り込み、殆ど咀嚼する事無く飲み下す。
「この苦味が美味い……って思う様に成るにゃぁ余程食い慣れるか、ある程度大人に成らにゃぁ無理だろうなぁ。苦い辛いは大人の味ってな」
そんな子供らしい姿に笑い声を上げながら、御祖父様がそんな言葉を口にし、大鮃の切り身と苦い葉野菜を一緒にしゃぶしゃぶして食らう。
おお、そう言うのも有るのか! 早速真似して魚と葉野菜を一緒にしゃぶしゃぶして口に入れれば……うん、苦味が緩和され強い匂いも旨味に変わった……気がする。
次は貝と一緒だとどうだ!? 浅蜊は軽く火を通すだけで甘みが増すが、ソレと葉野菜を一種に口に入れれば、苦味が甘みを引き立てて美味い!
んじゃ鮑っぽい貝の方だと……うん、葉野菜の強い匂いが磯臭さを緩和し、旨味だけが口に残る……成程、この葉野菜は他の食材を引き立てる為の物な訳か!
「九郎、野菜だけじゃぁ無くて、他の物と一緒にしゃぶしゃぶして食うと美味いぞ」
新たな発見をした子供そのものの台詞を俺が放つと、九郎は恐る恐ると言った感じで刺し身と葉野菜を鍋に入れ、意を決して口へと運ぶ。
「あ! 本当だ! 苦いけど、さっき程じゃぁ無い! うん、此れなら食えるし美味い!」
ぱっと顔を輝かせ次々に具材と飯を食い始めた九郎の姿を、俺を含めた大人達は微笑ましい物を見る目で見守るのだった。
「おーう! 今帰ぇったぞー!」
晩飯を食い終わり、男衆皆で風呂を借り、そろそろ寝床に入ろうか……と言った頃合いになって、母屋の玄関に響き渡る明らかに酒が入っていると思わしき大声。
その声の主は当然この道場の主である火取の伯父貴の物だ。
「あらまぁ、随分とご機嫌なご様子で……お酒を呑んで来れる位ですから、当然借金は耳揃え返して来たんですよね? じゃぁ、残った稼ぎは家計に入れますから出して頂戴な」
ソレを出迎えたのはその妻である三十五伯母上だが、伯父貴が出掛けていた理由が理由だけに、その対応はちと刺々しく聞こえる。
博打で借金拵えて、ソレを返す為に出稼ぎしに行ったのに、呑んで帰ってくればそう言う対応に成るのも仕方が無いかも知れないが……。
「おう、借りた銭ゃきっちり返して来たぜ! 思った以上の大物が狩れたんでな。素材も良い値を付けてくれた行商人が居たからな、確か……い五郎っつったかな? 余程太い売り筋持ってんだろうなぁ、相場の五割増しだぜ! そら呑むなって方が無理だろよ」
い五郎って……河中嶋で会ったあのい五郎だろうか? 確かあの人は、美味い物を探して火元国中をふらふらと放浪し、その先で売れそうな素材を買い付けては河中嶋で売り捌くってな生活をしているらしいし、何処に居ても不思議は無いんだろう。
高値を付けたのも、此処等じゃぁ安い素材でも向こうに持っていけば良い値が付くとか、誰かの依頼で探していた素材で確実に抑えたかったとか、何かそうした理由が有ったんじゃぁ無かろうか?
まぁ単純に腹が減って来たから、さっさと交渉を打ち切って買い付けを済ませて飯を食いに行きたかっただけかも知れないが……。
「あらまぁ! 残ったで大判が出てくるなんて、あんた一体どんな無茶な獲物を狩りに行ったのよ! 多少の借財なんか一寸頑張れば直ぐに返せるんだから、無茶だけはしないで頂戴ってアレほど言ったじゃないの!」
大判って事は最低でも二十五両!? ……いや鬼切りをしてりゃ両単位の収入は割と珍しい話じゃぁ無いが、俺達がソレだけの銭を稼げるのは、素材を余す所無く持ち帰れる四煌戌の存在が割と大きい。
単独でしかも一度の狩りで、ソレを大きく越える額面を叩き出すと言うのは、一体何を狩ればそんな金額に成ると言うのか……。
「いや、別に無茶なんかしてねぇぜ? 一寸普通よりどでけぇ岡抹香が出やがってな、打ちのめすのに丸一日掛かったぜ」
……岡抹香? 江戸州鬼録には載ってない化け物だが、一体どんな妖怪なのか?
「岡抹香って……此処等じゃぁ一番大きくて危ない化け物じゃないの! しかも其れの普通より大きい奴って、何処が無茶してないのよ! 無理無茶無謀は猪山の専売特許って訳じゃぁ無いけれど……其れにしたって危ない橋じゃぁないのさ!」
後から聞いた話だが、岡抹香と言うのは、抹香鯨に手足が生えた様な妖怪だそうで、その大きさも海に居る抹香鯨と大差無い物らしい。
「てやんでぇ! あんな『大男総身に知恵が回りかね』を地で行く様な化け物相手に、俺が不覚を取る様な事ぁ有る訳無ぇじゃねぇの! 其れにありゃ放っとくと周りの山の獲物を片っ端から食い尽くすかんな。見かけたら潰さねぇ訳にゃぁ行かねぇのよ」
其れにしたって単独撃破する必要は無いんじゃぁ無いだろうか? 普通に巻狩で倒す対象の様に思える。
「岡抹香を……其れも大物を仕留めて来た割には、一寸少ないんじゃぁ無いかしら? 本当に少し呑んできただけ?」
……実際に幾ら伯母上に渡したのかは知らないが『鯨一匹捕れば七浦潤う』と言う言葉が有る通り、鯨一匹分の肉や素材を売り払えば、間違いなく一財産には成るだろう。
「いやー、一寸昔の知り合いに誘われてなぁ。折角大きく稼いだんだし、其れを種銭に倍に増やして帰ろうとしたんだがよ……」
伯母上に突っ込まれて、尻すぼみに言葉を濁す伯父貴……。
「つまり……大半は博打に呑まれた訳ね……全くこの宿六はいっつもいっつも何やってるんだか……本当に仕方の無い人ねぇ」
なんだかんだ言って、良い夫婦なんだなぁ……とそんな事を思いながら、俺は夢の世界へと旅立って行くのだった。




