六百五十五 志七郎、勝敗を思い夕餉の膳に付く事
頭から冷たい水をぶっ掛けられ、すっ飛んでいた意識が覚醒する。
いやー、負けた負けた……悔しく無いといえば嘘に成るが、師範代は別に居るにしても、道場主の留守を預かる事が出来るだけの娘を相手に、接戦を演じる事が出来たのだから、今の俺の歳を考えれば上等の部類だろう。
なんせ勝負の行方を決したのは純粋な体力不足……つまりはもっと成長し身体が出来てくれば解決出来る問題であり、逆に言えば今の段階では仕様が無い原因故の物だったのだから。
とは言え、最初から着物を脱いで輪に上がり、爆氣功を纏っていればまた勝負は違ったとは思うが、アレは奥の手であり頼り切りにするべき物では無い。
爆氣功は確かに強い、氣の総量を跳ね上げる事で、其れに比例し身体能力も反応速度も全てが大きく上昇する。
だが同時に其れは、身体能力で押し切る事が出来ると言う事であり『身体能力で劣る者が強者を打倒する為に編み出された』と言う武術の本質に反する物だ。
生死を賭した戦いで使うのを躊躇うのは悪手だろうが、勝ち負けで失う物の無い練習試合の類では使う事無く、普段使いの能力と技を磨く事を意識するべきだろう。
実際、今の戦いでは剣士と戦い慣れた無手の者を相手にした場合、他の武器を相手にする以上に『間合い』の取り合いに成る事が理解出来た気がする。
「あの歳で姐御相手に一歩も引かない勝負が出来るなんてスゲェな……」
「うん、僕ももっと練習しないと。家の村じゃぁ良い得物なんか維持出来ないし、強くならないと村も船も守れない……」
俺とお勇さんの闘いは、公開練習試合をしていた二人の目にも感銘を与えるだけの物と映った様で、少し離れた所でそんな言葉を口にしているのが耳に入った。
「つっ……かれたぁ……。こりゃもう一寸大きく成ってたら勝てなかったねぇ。いやー流石は猪河本家の子……楽しかったぁ!」
腕も肩も脚も肘も胴体も、きっちり守りを固めていた顔面以外の全身を青痣だらけにしたお勇さんが、満面の笑みを浮かべそんな言葉を口走る。
顔を守っていたのは、女としてどうこうと言う事では無く、此方の得物が真剣だった場合、其処に一撃を食らえば、例え氣で防御したとしても致命傷と成るからだろう。
事実、彼女の身体に着いた痣は全て氣翔斬を己の氣で軽減した物か、俺の肘や蹴りと言った打撃に依る物だけで、木刀自体を直接当てる事は一太刀すら無かったのだ。
尤も俺の方も完全な形での一撃は最初の胴体への一発と勝負を決めた顔面への一発の二発だけで、受けた被害の量で言えば彼女の方が圧倒的に上だろう。
彼女は致命的な被害だけは受け無い様に防御しつつ、継戦能力を維持し、我慢比べを仕掛け、結果として俺の体力を削りきり、集中力が途切れた所で、木刀を下から柄を打ち抜き跳ね上げて、がら空きに成った顔面への一発で意識を断ち切られたのだ。
身体が大人と子供である以上、身体能力では彼女が上、共に氣を纏う事が出来る以上、その差は埋まる事は無く、得物が有った事と技量と戦闘経験で僅かに俺が上回っていたからこその膠着。
恐らく今の俺に彼女と同等の体力が有ったならば未だ勝負は付く事無く、千日手とかそんな風に言われる様な状況に陥って居ただろう。
「お嬢相手に彼処まで食い下がるたぁ、流石は師匠の甥っ子だな」
「んだな、流石は二つ名で呼ばれる小僧っ子だぁなぁ」
「宮太郎もあの歳頃の頃にゃぁ稽古を始めてたっけか?」
「おう、師範代が初めて道場に連れてきたのがあん位だった筈だ」
「そら、俺等も歳取る訳だわなぁ……あんなちまい子供が今じゃいっちょ前の男なんだからよ」
宮太郎と竿彦の試合は勿論、俺達の闘いも見物していた此処の門下らしい男達……年の頃は元服前の若者から父上位の壮年の者まで様々だが、誰しもが興味本位では無く武人の目で其れを語り合っていた。
「つかさ……こう続けて良い試合魅せられちゃぁ、身体動かしたくて仕様が無ぇ」
「おう、んじゃ一本やってくか? 相手に成んぜ?」
……猪山藩の住人は他所だと『戦闘民族猪山人』なんて揶揄されていると聞いた事が有るが、此処の連中だって然程変わらないんじゃぁ無いだろうか? そんな事を思いながら俺は髪から滴り落ちる水を手拭いで拭き取るのだった。
「はーい、おまたせー。たぁーんと食べるのよぉー」
未だ道場では熱冷めやらぬ男達が身体を動かしている中、母屋へと案内された俺達には一足先に晩飯が振る舞われる事に成った。
其れを用意してくれたのは、お勇さんの母親であり俺の伯母に当たる人物、三十五伯母上だった。
少年的で活動的なお勇さんの母で、御祖父様の娘、そして火取の伯父貴を尻に敷く人物……つまりは猪山の女だと言うから、言っては失礼かも知れないがお豊さんの様な『肝っ玉母さん』を絵に描いた様な人かと思ったのだが……。
現れたのは意外や意外、手弱女と言う言葉がこれ以上無い程にしっくりと来る、そんな見目麗しい御婦人だった。
とは言え御祖母様の娘で、安倍の屋敷で会った三十伯母上の妹だと言われれば、全く違和感を感じない辺り、猪河家の血と言うのは本当に何が有っても奇怪しく無いんだと思う事が出来る。
そしてよく見なければ気が付かないだろう特徴として挙げられるのは、彼女の瞳が只人の様な円形では無く、縦長の……猫科動物の様な形をしている事だろう。
猫又や御祖母様でも人の姿に変化している時は、普通の丸い瞳をしているのだが、三十五伯母上はその辺を自由に変化させる事は出来ない様だ。
で、出された料理なのだが……見事な船盛りの刺し身に大量の生野菜、具の入って居ない醤油系の汁だけの鍋、其れから味噌汁と飯だった。
「おう、こりゃ随分と張り込んでくれたのぅ三十五よ。魚は刺し身の儘でもしゃぶしゃぶにしても良し……と言う趣向か」
この具の入って無い鍋はどう食べるのだろう? そんな疑問は御祖父様が即座に打ち砕いてくれる。
「猪山の人を持て成すなら、海の物が最良でしょう? 今日は丁度竿彦君の御父君が良い形の大鮃が上がったからって持ってきて下すったのよ。貝類はこの辺なら一山幾らで手に入る物だし、御父様には悪いけどお足はそんなに掛かってないわ」
袂で口元を隠しくすくすと笑いながら、その献立の裏を話してくれる三十五伯母上。
大鮃は漢字で書けば鮃と言う字を使う癖に、実際には巨大な鰈の仲間の中で三尺を越える物の事らしい。
今日出された『形の良い大鮃』と称される物とも成ると十三尺も有るそうで、其れ一匹で此処の道場で食事を摂る者全員の腹を満たすのに十分な量の刺し身が取れる程なのだそうだ。
しかも其れだけとんでも無い大きさだと言うのに、妖怪の類では無く普通の魚だと言うのだから驚きである。
つか、其れだけ大きくて食える魚なら、其れ也所の話じゃぁ無い値が付くんじゃ無いだろうか? 其れ共巨大過ぎて市場に乗らない特殊な魚なのだろうか?
いや江戸で信三郎兄上が釣り上げた雷帝魚ですら、切り身にされて市場に出るのだから、売り所が全く無いと言う事は無いだろう。
「江戸でなら人も多くて切り身でも売りゃ捌けんだろうけど、此処等じゃぁ大鮃程の大物を痛む前に売り払うのは難しいんだよ。藩都の大店かお城か……後は家みたいな道場の類位じゃぁ無ぇかな? 何方にせよ上がっても銭にゃぁ成らん魚らしいぜ」
早速しゃぶしゃぶと刺し身を鍋に潜らせていたお勇さんが、そう言いながら綺麗に茹で上がった其れを飯の上に乗せて口へと運ぶ。
「刺し身なんて俺初めて食う……本当に食って良いんだよね師匠?」
口減らしが必要な程の寒村の出の九郎は、用意された飯の豪華さに食うのを躊躇って居る様だ。
「ええ、たんとお食べなさいな。海が近い此処等じゃぁお刺身は然してお高い物って訳じゃぁ有りませんからね。其れに貴方は熊爪様の御弟子さんなんでしょう? なら立派に身内なんだからお腹一杯お食べなさいな。食べなきゃ碌に稽古も出来ないですからね」
そんな彼に微笑みながら食事を促す伯母上の笑顔は、今までの優しそうな御婦人の物では無く、戦いを前にした武士の目をしていた……うん、この人やっぱり猪山の女だわ。




