六百五十四 志七郎、驚きを受け兜の緒を締め直す事
「さーて、皆の衆! 未だ帰るにゃぁ早いよ! 折角他所から予期しない来客が有ったんだ! アタイと今噂の鬼切童子の特別観覧試合だ!」
宮太郎と竿彦の練習試合が終わり、二人の手当も一段落しそろそろ観衆も帰り支度を始めた頃、お勇さんがそんな言葉を放ちながら、俺に向けて木刀を投げ渡して来る。
其れを受け取った俺は、軽く溜息を一つ吐くと、足の裏から氣を放ち宙を蹴って、四角い輪の上へと降り立った。
「剣道三倍段って言葉はご存知ですよね? なのに俺に此れを渡すって事は、余程自信が有るって言う事で宜しいですか?」
前世の世界では、無手の者が剣を持つ者に優るには三倍の力量が必要だと言う意味で使われる事の多かった剣道三倍段と言う言葉だが、本来の意味では剣で槍や薙刀と言った長物を相手にするには、三倍の技量が必要だと言う意味だ。
「君が二つ名を持つだけの腕前を持つ事は親父からも聞いてるよ。んでもさ……剣道三倍段って要は間合いの差だろ? アタイとアンタのガタイの差なら、その木刀を足して丁度位だろうさ」
だが其れは得物の間合いが広い方が圧倒的に有利で有ると言う事で、無手と剣との間にも同じ事が言えるので、本来の意味とは違う前世の世界での使い方でも決して間違いとは言い切れない訳である。
確かに未だ子供の身体である俺と、行き遅れ一歩手前辺りの年代だろう彼女の間には確かに体格差は有るが、ソレでも無手と剣の差が完全に消えたとまでは言えないと思う。
「良いぞ志七郎やってやれ。勝敗は兵家の常、負ける事を恐れては為らん。其れに此処はどーせ身内だしの」
今一つ踏み出しきれない俺を御祖父様がそんな言葉でけしかける、江戸の屋敷での稽古では、礼子姉上や睦姉上と得物を交え立ち会う事も有るし、裸の里では美々殿や椎菜殿とも相対した事が有る。
とは言え、彼女等は無手では無く皆其々に様々な得物を手にしていた……いや椎菜殿のアレは武器と呼んで良い物では無かったか? ソレでも裸身氣昂法に依る莫大な氣と、鞭髪術と言う独自の武術は立派な武器と言えるだけの物だった。
其れを考えれば、彼女も撲震無刀流と言う立派な流派を学ぶ者、得物を持つ者を相手取る術の一つや二つは身に付けて居ても全く不思議は無い。
「そーそー、爺ちゃんの言う通り、子供の内から負けるの怖がっちゃぁ駄目さね。ま、だからって負けまくってると負け癖が着いちまって、実戦でサックリ死んじまうんだけどなー。ほれ、来い来い」
……とは言え、拳闘手袋を付けたまま、挑発する様な感じで手招きまでされては引く訳にも行かない。
俺は覚悟を決め、普段持っている物より長目の木刀を八相に構えるのだった。
始まりを告げる鐘が鳴り響き、其れと同時にお互いが自分の間合いを取る為に動き出し、結果先手を取ったのは俺では無くお勇さんだった。
届かない筈の間合いから繰り出された左の拳、其処から放たれた氣弾が俺の顔面を襲ったのだ。
とは言え、氣翔撃に対する対策は一郎翁や伏虎に叩き込まれているし、裸の里での修行で得た氣の運用を用いれば、其れを相殺する氣を顔から放つ事は不可能では無い。
しかし其れをする事で、確実に此方の一手は潰されると言う訳だ。
そうして無理やり作り出された隙に、彼女は一瞬で木刀の間合いの内側へと飛び込み、零距離での戦闘へと持ち込まれてしまった。
歯を食いしばり腹筋に力を入れ、更に氣を集中する事で胴体に貰う一発のきっちり耐えるが、むしろ称賛するべきは此の身長差でもしっかり腹に当てて来た彼女の技量だろう。
しかも厄介な事に彼女は身体を丸め低く入る様にして、自身の肩を木刀の柄尻に押し当て、木刀を振るう余地を無くしている。
顔の距離が色々とやばい事に成っており、心臓が早鐘を打つような勢いで動いているのが解るが、そんな事に気を取られて遅れを取った事を御祖父様に気取られれば、後から何を言われるか解った物じゃぁ無い!
そう思い、この状況を打破する為に頭を回す、一旦間合いを取るのが最善だが、彼女の踏み込みの速さを考えると、そう簡単に其れをさせてくれるとは思えない。
氣に依る意識加速に入っている故に、こうして考える余裕も多少は有るが、それとて長く考え込んでいれば一方的に凹られるだけに成ってしまう。
と、言うか木刀を渡されたので、其れを使う事を第一に考えてしまっていたが、其れは居付きだな、此処で見習うべきは猪牙の従伯父だ。
そう判断した俺は、ほんの少しだけ左の肘を引くと、其処に氣を込めて彼女の横っ面目掛けて叩き込む……が、彼女は其れを素早く身を起こし仰け反る事で躱す、けれども此れで木刀の抑えは一旦消えた。
目の前で上体反らしされると、今度は礼子姉上にも負けぬ大きな女性の象徴が強調され、ソレに目が吸い寄せられそうに成るが、男のチラ見は女のガン見……お豊さん辺りは気づくだろうし、何とか意識を切って木刀の柄を水月目掛けて振り下ろす。
けれども其れは飽く迄も囮、木刀が自由に成れば其れで攻撃を仕掛ける事等、彼女も当然想定しているだろう、ならば受け止められる事を前提に木刀を振り下ろし、そちらに気を引いて置いて……足を蹴る!
拳闘家の弱点は下半身への攻撃だ! と言うのは、確か友人の家に有った格闘漫画の皮を被った冗談漫画の類だったか?
映像すら見た事は無いが、有名な職業拳闘家と職業組討家の異種格闘技の一戦でも、組討家は徹底的に下半身への攻撃を狙ったのだ……と言っていたのはもう一人の友人だった様な気がする。
向こうの世界の拳闘家とは違い、他流試合どころか多種族との殺し合いだって日常茶飯事である撲震無刀流ならば、当然そうした下半身への攻撃対策だって有るだろうと想定したが故の囮作戦だ。
結果、木刀の方は彼女の拳闘手袋で受け止められたが、下段蹴りの方は強かに脹脛を打ち抜いた。
うん、やはり彼女は……撲震無刀流は下半身への攻撃を想定した訓練を積んでいる、蹴った脚の感触は銃や短刀を持って気が大きく成った三下の其れでは無く、きっちりと鍛え喧嘩慣れした武闘派の物だったのだ。
氣で強化された一撃とは言え、その一撃で彼女の脚を潰し切る事は出来ない事を一瞬で理解し、直ぐに軸足で床布を蹴り後方へと飛び退り、構えを正眼へと切り替える。
無手と剣の間合いの差を考えれば、普段通りに八相に構えたのが悪手だったのだ、得物を前に出し簡単に入り込まれない事を先ず第一としていれば、最初のきつい一発を貰う必要は無かった訳だ。
相手の一部に注視する事無く全体を満遍なく意識する所謂『観の目』を意識しつつ、蹴った場所を確認すれば、完全に無傷と言う事も無く其処には赤黒い痣が出来ている。
だが彼女は拍子を刻む様な足運びを辞めていない辺り、致命的な被害を与えるには至って居ないらしい。
「あは……やるじゃん。流石は鬼切童子なんて呼ばれるだけ有るよ、アタイに一発くれた男なんて親父以外じゃぁ本当に久し振り……もっと、もっと楽しもうゼ! アハハハ!」
……蹴りの被害で何かが吹っ飛んだのか、猫科の大型猛獣を思わせる笑みを浮かべたお勇さんは、そんな咆哮を上げながら『間合いナニソレ美味しいの』と言わんばかりに、届かぬ筈の左を連打し、氣の塊を打ち込んで来る。
その表情からは、何となく肉を頬張る御祖母様に親しい物を感じ、確かに従姉なのだと理解せざるを得ない。
其れを捌き、受け、躱している内に少しずつ、少しずつ彼女は間合いを詰めて来た。
当然俺も彼女を間合いの内に入れぬ様に入れぬ様に、木刀を薙ぎ払い、突き出し、振り下ろし、其処から氣翔斬を放ち牽制するが、腕で、肩で、肘で、拳で、その全てを叩き落とされる。
木刀で放っているとは言え氣翔斬は打撃では無く斬撃だ、何の対策も無く生身で食らえば普通にザックリ切り裂かれる事に成る、にも拘らず拳闘手袋に包まれた拳は兎も角、其れ以外の部分も無傷なのは、きっちり氣で防御しているのだろう。
流石は火取の伯父貴の娘……生半可な相手じゃぁ無い、改めてそう思い俺は気を引き締め直すのだった。




