六百五十二 志七郎、欲望を考え人の会話を聞いて居ない事
「いやー、爺ちゃんも、志七郎君達も運が良いな―。今日は家の道場の注目株同士の練習試合が有んだよ。片方は子供の頃から家に通ってる師範代の息子で、もう片方は親父が拾ってきた期待の新人。多分面白く成るぜ」
漢らしい髪型と口ぶりに相反する様に女だと言う事を主張する大きな胸部装甲、其れを覆うのは瞳義姉上が身に纏うのと同じ様な太腿の半ばまでしか丈の無い、しかも拳を振るう事を優先する為か肩から先の袖も無い……そんな着物? と言いたく成るような物だ。
露出度という点で言えば、当然裸の里に関わる者達には全然及ばないのだが、何というか……グッと来る物を感じるのは何故だろう。
「ほほぅ……師範代の息子が強いのは当然として、そっちの新人ってのは未経験なのだろう? ソレで勝負に成るだけの物を持っておると言うことか?」
そういや瞳義姉上と初めて会った時にも似たような感覚を覚えた気がするし……もしかしてこの身体は彼女等の様な『活動的なお姉さん』が好みだと言う事なのか?
「九郎もそうですが、未だ花開かぬ才を持つ者と言うのは、在野にも割と居る物です。その者が如何なる才を持つかは解りませぬが、俺に拳の勝負で勝った事も有る勇重の奴が見込んだとあらば、其れは間違いなく一廉の男と成る資質が有るのでしょう」
いや……前世の俺に寄って来る女性は後ろに紐が着いた『女臭い女性』ばかりだったし、その頃の精神的外傷から、そう言う要素が薄い活動的な女性に惹かれる様に成っているのかも知れない。
「若い子の戦う姿は、何時見ても良い物よね。それが角力では無く拳闘だとしても、若さがぶつかり合う瞬間っていうのは何よりも輝かしい物……九郎も一歩でも早くその域まで至る様に精進するのよ」
その上で健康的な露出に惹かれるのは男の性と言う奴だろう、裸の里は逆におっぴろげ過ぎて惹かれるよりも前に引いて居たと言うだけの事だ……きっと。
「お、押忍!」
同じく活発系の歌に惹かれる物を感じないのは、俺から見て彼女が未だまだ子供故に、保護欲の対象で有って、そうした欲求の対象外と言う事なのだろう。
「うむ、お勇がそう言う程の者だと言うならば、少しは楽しませて貰える事を期待するかの……んで、勇重の奴はその勝負の準備で道場に残っとるという訳か?」
うん、この位の健全で健康的なお色気を放つ成人に見える相手ならば、中の人の年齢的にも惹かれた所で問題は無い! 子供に対して劣情を抱かず、妙齢の女性が好みな俺は……つまり前世の友人の同類では無い!! Q.E.D.と言う奴だ!!!
「お父ちゃんはまーた博打で借金拵えて、お母ちゃんに尻蹴飛ばされて、ソレ返すのに鬼を打ん殴りに行ってんだよ。本当になんで懲りないんだかねー。賭場なんか行くよりも戦場での殴り合いの方がよっぽど興奮すんじゃんね?」
と、自分の中で結論を出した丁度その時、お勇さんが己の掌に拳を打ち付けながら、そんな物騒な言葉を口にする。
彼女は博打の勝ち負けで得る事が出来る興奮よりも、命を掛けた戦いの中で得られる物の方が良い……と感じるらしい。
「勝てると解ってる勝負じゃぁ熱く成れないんじゃぁ無いですか? 勝ち負けが解らないからこそ、感じる興奮ってのも有ると思いますよ? 伯父貴の腕じゃぁ勝ち負けに成る相手なんてソレこそ二つ名持ちの大鬼やら大妖怪位じゃぁ無いですか」
俺自身は余り電子遊戯の類はやらなかったが、それでも順当に勝てる相手を刈り取る『無双』を楽しいと感じる芝右衛門の様な者も居れば、本吉の様にギリギリ勝てるかどうかの高難易度に挑むのを楽しいと感じる者も居るという事は知っている。
恐らくは伯父貴は前者を楽しいとは感じない方の人なのだと考えれば何ら不思議は無い。
俺だって弱い者虐めに成る様な鬼切りは、四煌戌の餌を得る為に行う事も多いが、楽しいとは思わないし、ソレで興奮を得る様な事も無い。
とは言え、俺は博打の類で激しい興奮を覚え其れにのめり込む様な事も無く、だからと言って色事で身持ちを崩したり、酒に溺れたりする様な事も無かったなぁ……。
『呑む打つ買う』……即ち酒を呑む、博打を打つ、女を買う……一つ目は付き合い程度に行う事も有ったが、二つ目三つ目は日本では基本違法行為であり、其れを取り締まる側だったので、やっぱり楽しいとは思わなかった。
一応合法の範疇に有る公営や遊戯の類を試した事も有るが、其れもやはり嵌り混む程の興奮を覚える事は無かったし、風俗営業の類に関しては……先入観が有るんだろう、そう言う場所で働く女性に興味が湧かなかったんだ。
……まぁ市販されてる雑誌や、携帯電話で検索して出てくる様な写真や映像は勿論、猥褻物として押収された物を確認、保管する部署でお溢れに預かり、己を慰める様な真似をした事が無い訳では無い。
んでも、結局は実写よりも文章に戻ってくるんだよなぁ俺は……夜想曲の名を冠するネット小説サイトには散々お世話に成りました。
「成程な! 確かにお父ちゃんと良い勝負が出来る様な奴は殆ど居ないわ。其れにアタイも弱い者虐めでしか無い戦いにも成らない相手を殴っても興奮したりはしないしな。流石は鬼切童子なんて二つ名持ちだよ、子供の癖にアタイより物事解ってんじゃん!」
……と余所事と言うか色事に気を取られていた俺の言葉は彼女に響いた様で、納得の笑みを浮かべると、一行を先導していたのに一番後ろに居る俺の場所まで態々戻って来て、乱暴に俺の短い髪の毛を掻き混ぜる様に撫でた。
その手付きは、彼女が間違いなく火取の伯父貴の娘だと感じさせるには十分な物に思えたのだった。
言われなければ剣道か何かの道場だとしか思えない和風の立派な建物に、違和感しか感じさせない四角く白い密林が鎮座坐す撲震無刀流岳武士道場。
……うん、木造建築の拳闘道場と言うと、友人の家で読んだ古い拳闘漫画に出てきた橋の下のオンボロ道場を思い浮かべたが、此処は其れ也の剣道道場をそのまま居抜きで買い取り四角い輪を建てた様にしか見えない。
と、言うか建物の構造自体は、鈴木道場や猪牙道場と殆ど変わらない辺り、道場を建てる典型例そのままの造りなのかも知れないな。
他に目立った違いが有るとすれば、道場の中に幾つも砂袋がぶら下がっている所や、壁一面を覆う大きな鏡が有ると言う点だろう。
後は……多いな人! お勇さんが連れていた若い衆だけでも十人近く居るのに、道場の中には更にその五倍以上の人が犇めき合っている。
この密度では碌に稽古なんか出来ないだろうと思うのだが、どうやら中の人達は稽古をする為に集まっている訳では無さそうだ。
「うわぁ……思ったよりも集まってんなぁ。まぁ宮太郎とタメ張れる新人ってだけでも、普段は顔出さない連中が集まるにゃぁ十分な話題だわなー。んーこんなに集まるなら、観戦料取る様にすんだった」
リングの上には精悍な顔立ちのよく鍛えられた十五、六位の青年と、戦うと言う言葉が似合わ無さそうな温和な顔立ちの此方も無駄な脂肪が殆ど見られない身体付きの同年代位の少年が、身体を温める為の運動をしている。
つまりは此れから彼等が戦うのを見物する為に此れだけの人が集まっている……とそう言う事なのだろう。
「悪いな爺ちゃん、お父ちゃんが居ないからアタイが竿彦……新人の介添人に着いてやらないと行けないんだわ。まぁ見て詰まんない試合にゃぁ成らないだろうから期待しててよ。
オラ! お前等もきっちり見取り稽古すんだぞ!」
どうやら試合開始はもう間も無くの様で、お勇さんは御祖父様と俺達にそう言って軽く頭を下げると、走らされていた若い衆を相手に一声怒鳴り着けてから、道場の中へと駆けて行くのだった。




