六百五十一 志七郎、看板を見つけ珍しい髪型を見る事
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│撲震無刀流岳武士道場この先→二里│
│初心者歓迎手習いも、月謝後払い可│
│刀を買う銭が無いが鬼切りしたい者│
│その拳に命を賭ける漢の道場は此方│
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東の山を抜け四日程歩いた場所、もう少し南に行けば東街道へと辿り着くだろう間道にデカデカと掲げられた大看板。
其れは東街道沿いに建てられて居た『悪五郎被害者の会』の看板と瓜二つ……と言うか、恐らくは同じ看板屋が仕上げたであろう代物だった。
「相変わらず此の看板は目的地が解り易くて良いのぅ。火元全国津々浦々を旅して回って、知らん土地の方が少ないと自負しとる儂だが、此れほど解りやすい目印は他にゃ無いからの……いや、猪山南の看板やら裸の里前の看板も大概か」
その大看板を見上げながら、からからと笑い自身の悪名を広める類似品に言及する御祖父様。
此の看板はアレ等街道の看板より新しい物に見える……って事は、あの大看板を見た上で火取の伯父貴は此の看板を建てさせたんじゃぁ無かろうか?
まぁ当の御祖父様本人が『悪名もまた名声』とでも言わんばかりに、全く気にした様子も無い事から考えれば、然したる問題も無いのかも知れないが……。
「九郎よ、撲震無刀流は火元国だけで無く、世界中で学ばれている無手武術の代表の一角と呼んでも差し支えの無い技だ。自身で使える様に成る必要は無いが、何時相手取る事に成るかは解らぬ故、どの様な戦いをするのかは良く見ておくのだぞ」
「はい! お師匠様!」
一路、江戸を目指す筈の熊爪一家も何故か此処まで来た時点でも、別れる素振りも無く俺達と共に火取道場に着いて来るらしい。
「撲震無刀流の道場ではどんなちゃんこを出してるのかしらね? 地域や道場毎に色々な味のちゃんこが有る物だし……良い業はきっちり盗んで行かないとねー」
猪山出身じゃぁ無くても猪山に嫁に入ると猪山の女に成ると言う事なのか、其れ共生来の気質なのか、お豊さんは火取道場で門下生に出されているであろう食事に興味津々で鼻歌まで歌ってる。
……ただ俺の予感が正しければ、恐らく火取道場ではお豊さんが満足する様な食事は出される事は無いだろう。
撲震無刀流……拳闘といえば、減量が付き物だと言う印象が強い。
特に日本の拳闘界隈では、民族的な問題なのか人種的な問題なのか、重い階級の選手は少なく、軽い階級でしか世界王者は出た事が無かった筈だ。
と言うか、階級制度の有る競技では大半の場合、体格に対して階級が下の方が有利に成る事が多い為、減量が推奨されている場合が多かった様に思う。
体格が大きければその分間合いは広くなり、それだけで相手の選択肢を一つ奪う事に成るのだ。
高校の頃の友人に柔道部に所属していた者が居たのだが、彼は180cmを越える身長ながら、大会の際には必ず絞り込んで本来の73kg以下級では無く、更に一つ下の66kg以下級に出場する様にしていた。
そんな彼曰く、その階級の者は背負い投げを持ち技にする者が多く、腕を突っ張る様にして組むと十中八九は背負いを仕掛けてくるので、其れを待ち構えて裏投げや後腰と言う返し技を狙って勝ち星を上げていたのだそうだ。
まぁ、そうした下階級が有利……と言う考え方は割と日本特有の物で、特に海外の拳闘家は本来の体重で試合をする者も多いとは聞いた覚えが有る。
そっちはそっちで最重量級王者こそが真の王者……と言う様な価値観が根底に有ると言う様な話も有るし、日本だって階級制の無い相撲なんかでは体重も立派な武器! だとちゃんこで肥える事が必須とされていた。
結局は減量と言うのは階級制が有るからこそ、その取り決めの中で最善を尽くす手段なのだろう。
そうなると鬼や妖怪との戦いを前提としているだろう此方の世界の撲震無刀流は、減量なんて気にせずガッツリちゃんこってる可能性は零では無いかも知れないな。
んでもあの看板を見るに『数打ち刀も買えない貧乏人の為の道場』ってな感じなんだよなぁ。
……果たしてそんな所で、門弟の為にてんこ盛りちゃんこなんて物を用意するのだろうか?
そんな疑問を抱きながら、嬉しそうに鼻歌を歌いながら歩いていくお豊さんの恰幅の良い後ろ姿に着いて行くのだった。
「オラ! 手ぇ抜いてんじゃねぇぞゴラぁ! その程度でヘバッてんじゃぁ戦場で鬼の糞に成るだけだぞ! 走れ! 走れ! 走れ! 一に体力! 二に根性! 三四が無くて五に拳だ! 気合入れろ! 根性見せろ! 女のアタイに体力負けしてんじゃねぇぞ!」
何処にでも有る普通の農村と言った風景の中を暫し歩いて居ると、俺達が向かう先から若い女性の物と思われる、そんな怒声が聞こえて来た。
その言葉の内容が物凄く前時代的な物に思えるのは、俺が体育会系出身の癖に根性論や精神論の類を好ましいと思わなかった性質の人間だからだろう。
とは言え、その言葉は必ずしも間違いとは言い切れないだろう、戦場で体力が尽きれば其れは死を意味するし、根性が生死や勝敗を分ける場面と言うのは存在する。
苦しい時に歯を食いしばって耐えて勝つには、早々に諦める様な根性無しは絶対に大成する事は無い。
努力が必ずしも実るとは限らない、だが成功者は必ず努力をしているし、その努力を続ける根性を持ち合わせて居るのだ。
「おうおう、お勇の奴ぁ今日も元気にやっとるようだの。つか、此の時間にあの娘が若い連中を扱いとるちゅー事ぁ勇重の奴ぁ、まーたどっかをふらふらしとる訳か。彼奴はどうしてこう一所にじっとしとる事が出来んのか……」
その声の主を知るらしい御祖父様がそんな台詞を口にするが、その内容には強く『お前が言うな』と言いたく成ったのは多分俺だけでは無いだろう。
父上に跡目を譲った後の御祖父様以上に一所に留まらない者等、火元国中を探しても恐らくは居ないのでは無かろうか?
なんせ『ティンと来た』とか言う訳の解らない理由で、今日北の果ての竜頭島に赴いたかと思えば、その翌日には京の都の御祖母様の所に顔を出す……なんて時間も距離も関係無く火元国中津々浦々に何時出没しても奇怪しくない者なのだ。
前に読んだ瓦版に拠れば、悪五郎の姿を見たら何らかの動乱が起こる前触れなので、兎に角何が起きても良い様に備えるか、さっさと逃げろ……と疫病神の一種では無いかと言う噂すら有るらしい。
「何だ? 皆急に黙り込んで……。まぁ良い、勇重の馬鹿が居らずとも、お勇と三十五が居れば相応の対応をしてくれる筈だし問題無かろ」
仮にも娘婿に対して、ちと扱いが酷過ぎ無いか? いや、此れは多分同類故の気安さなのか?
「あれ? 爺ちゃん? 久し振りー。今日はどしたの? 随分と大所帯でさ」
と、何時の間にやら大分近くまでやって来ていた様で、九郎と同じ位の子供から元服したばかりの十四、五歳の少年達を竹刀片手に追い掛ける様にして走って居た二十歳に成るか成らないか位の女性がそう声を掛けてきた。
身の丈大凡五尺程と小柄な割に、引っ込む所は引っ込み出る所は出る、少々古い言葉かも知れないが、トランジスタグラマーと言う言葉がしっくり来る彼女。
特に目を引くのは、礼子姉上に優るとも劣らぬ大きな持ち物……と、短くバッサリと切りそろえられた髪の毛だろう。
此方の世界に生まれ変わってから、彼女程に髪の短い女性を見た覚えが無い。
一般的に火元国の女性は、十四、五歳には大人の女性として島田髷等の女髷と呼ばれる、所謂『日本髪』と呼ばれる様な髪型にする為、余程の理由が無ければ髪を短く切ると言う事は無いのだと聞いた覚えが有る。
活動的で男性的な所の有る桂家の歌江ですら、腰まで伸ばした長い髪を総髪に結っているのだ。
にも拘らず、目の前のお勇と呼ばれた彼女は、前世の世界の女性達の様に、横は耳に掛からない位の、項や額もはっきり見える程に綺麗に切りそろえられて居た。
顔立ちも美形では有るが、愛らしいと言うよりは、格好良いと形容される様な感じで、歌劇団の男役がよく似合いそうにも見える。
「一番下の孫を連れて江戸へと帰る途中、ちと近くを通り掛かったんでな。お前さん所へも顔を出して置こうと思っただけだ。志七郎、この娘がお前の従姉で勇重の娘で勇だ。ほれお前も挨拶せい」
御祖父様にそう促され、俺は改めて自ら名を名乗る為に口を開くのだった。




