六百四十九 『無題』
「御用だ!」
「「御用だ、御用だ!」」
「「「「御用だ! 御用だ!」」」」
御用提灯を十重二十重と掲げた捕り方達が、江戸の大路を駆け抜けていく。
彼等が追い駆けているのは、大路に軒を連ねる商家の屋根の上をひらりひらりと跳び駆けている一人の小柄な――恐らくは身の丈五尺にも届かぬだろう、本当に小さな人影だ。
そんな幼い者が何故、無数の厳つい捕り方達に追い駆けられて居る家と言えば、その者が両肩に担いだ物を見れば一目瞭然だろう。
其処に有ったのは所謂『千両箱』だ、無論其れは本来その者の持ち物と言う訳では無い、経った今しがた悪辣な商いをすると言う事で有名な、金貸しの蔵から盗み出した物である。
千両箱と言うのは木箱の中に小判が文字通り千両入った箱なのだが、その重さは木箱を補強する金属と中身込で大凡六貫目と半分、其れを二つも担いでいながら建物と建物の間を飛び回る事が出来るのは彼奴が尋常の者では無いと言う証左だろう。
「待てい! 山猫! 今宵こそはその身を捕えて見せようぞ!」
とは言え、捕り方達とて同心達の家人である岡っ引や、更にその下に居る下っ引共を除けば、立派な武士……氣を纏えぬ者がその役目を担う事等有り得ない。
全身から氣を立ち昇らせた同心の一人が、壁を柱を足場に屋根の上へと蹴登り、山猫と呼ばれた盗人の前へと立ち塞がる。
「へっ! 待てと言われて待つ馬鹿が何処に居るってんだ! 十両以上の盗みは一律で最低でも死罪、くたばると解ってて足を止める奴ぁただの阿呆じゃねぇか!」
顔を覆う手拭い越しに発せられたその声は、未だ声変わりを迎えぬ子供の物としか思えぬ、甲高い物だった。
「死罪と解って何故、盗みを繰り返す!? お主の盗みは『盗みの三ヶ条』を侵さぬ物為れば、こうして幾度も盗みを繰り返す様な真似をせねば、追われる事も無かっただろうに」
続いて屋根の上に上がってきた侍が、後ろを遮りながらそう問い掛ける。
盗みの三ヶ条とは『人を殺めぬ事、女を手込めにせぬ事、盗まれて難儀をする者へは手を出さぬ事』という義賊の掟で、此れを侵さぬの盗人一人相手に多くの人員を投入し一々捜査する程、町奉行にも火盗改――火付盗賊改方にも人手の余裕は無い。
此の江戸では『十両以上の盗みは即死罪』とはされている物の、実際に其れが適用される件は稀だ。
それだけの大金を持ち合わせているのは大店か、郊外と市街地を隔てる壁に成っている大名屋敷かの何れかであり、前者は当然警戒し多くの用心棒を雇い入れて蔵を守るし、後者はそもそも武士と言う超人の集団……踏み込むのは余程の馬鹿か達人かの何方かである。
その何方だとしても、盗人に入られたと世間に知られた時点で恥で有り、まんまと逃げ果せられたと為れば更なる恥、其れを一々御公儀に訴え出る様な事をして、恥の上塗りをする位ならば泣き寝入りした方がナンボもマシと言えるのだ。
例外と言えるのは最早恥も外聞も関係無い状態……即ち盗みの三ヶ条を侵した『急ぎ働き』や『畜生働き』等と呼ばれる様な手荒な手口で盗みを働く兇賊と呼ばれる様な者に襲われた場合には、火盗改の精鋭達が動き出すのである。
しかし山猫と呼ばれた此の盗人は、短期間に何度も『幾つもの商家』に盗みへと入って居り、そうした見世から上がる『冥加金』を多少なりとも当てにしている幕府としても流石に動かざるを得なかったのだ。
ちなみに今の所、山猫の犯行と目される盗みで奪われた銭は少なくとも百万両を越えると言われており、届け出が出ていない分を加えれば、更に大きな額面に成るだろうとすら言われている程である。
「てやんでぇ! 下衆な手口で銭を溜め込む薄汚え悪商共から盗んで何が悪いってんだ! 今日の見世なんざぁ此処五年で一体何人の娘を吉原に出荷したか解ってんのか!? 親の借財の形に売られた娘の怨嗟が聞こえねぇ御公儀じゃぁ話にゃ成んねぇよ!」
言いながら山猫は二つの千両箱の内一つを、前に立ち塞がった同心へと氣を込めた腕で投げつける。
幾ら氣を纏い武芸を修めた同心といえども六貫半も有る木箱をまともに食らえば唯では済まない、そう判断し咄嗟に身を躱すが、その隙を突いて山猫は同心が動いたのとは反対側を突破して行く。
「ちっ!? 逃がすな! 追え、追えー!」
後ろを取った同心が屋根の上を駆けながら、下に居る岡っ引きや下っ引きにそう号令を掛ける。
「駄目です! この先は腐れ街っす! あっし等が踏み込みゃぁ、町の連中と大揉め事に成っちまいやす!」
江戸市街地の南東部の腐れ街と呼ばれる一角は、碌に仕事も出来ない様な怪我を負った者や、脛に傷を持つ者達が行き着く貧民街の類だ。
そんな所に岡っ引きや下っ引きが大挙して押し込めば、前者は兎も角後者の者達が、自分達を捕らえる為に来たと勘違いして、襲いかかって来ても不思議は無い。
こうして今夜も山猫は無事逃げ果せたのだった。
「で、そうして盗まれた小判が、江戸中の孤児院に投げ込まれてるってな話ですぜ?」
猪山藩下屋敷に屯する中間者の頭、松吾郎が語る此処最近江戸を騒がせる盗人の話。
其れは我が祖父の政が下々の者達を救って居ない、と言わんばかりの物に聞こえ少々腹が立つ。
然れども、考えて見れば江戸の孤児達と言うのは一体どんな生活をしているのだろうか?
郊外の農村では、何らかの理由――多くの場合鬼や妖怪の害だ――で親が命を落としたとしても、その家に割り当てられている田畑を村の者達が協力して耕し、子供達が一人前に成るまで支える……と言うのが当たり前なのだと教えられた。
だが江戸市街に住む鬼切り者や口入れ仕事で日銭を稼ぐ様な者達の子が、親を失った場合の話は聞いた覚えが無い。
一応、孤児を集め養育する孤児院と呼ばれる施設を、我が祖先である家安公が江戸の各地に作ったと言うのは知っているが、その財源や子供達の詳細な生活状況までは考えた事すら無かった。
「此れはいかんな。次代の将軍と成る者が、下々の子供達の生活を気にすらした事が無いと言うのは頂けぬ。なぁ松吾郎、此処の中間に孤児院出身の者は居らんのか? ちくと話を聞いて置きたい」
余がそう問い掛けると、松吾郎は若い衆――とは言っても信三郎の兄者と同い歳位の、恐らくは元服済みの者だ――を一人呼んで来てくれた。
「孤児院にゃぁ当たり外れが有るんでさぁ。幸いあっしが居た所からは、随分昔に上様の大奥に入った者居たそうで、その縁から信用出来る者が責任者を勤めてたんで、下手な親の子よりは良い暮らしさせてもらえやした。けれど聞いた話じゃぁ酷い所はねぇ……」
孤児院は基本的に幕府の管理下に有る施設で、その面倒を見る幕臣の担当者が何人か居るらしい。
そして毎年毎年、各孤児院に其々一定の予算が幕府から出ているのだが、其れは孤児の人数や施設の大きさとは全く無関係に一律で、事故や病気なんかの為の治療費を取り置く事も難しい場所も有ると言う。
そうした場合、孤児の中から見目の良い娘が吉原や岡場所に売られる様な事も当たり前に行われているそうで、御祖父様の側室に入ったと言う方も、普通ならばそうして売り払われる筈だったのだそうだ。
其れがなんやかんや有って、御祖父様の側室に入ったと言うのだから、世の中不思議な物である。
中には経費をギリギリまで削減し、売れそうな娘は片っ端から売り払い、そうして得た差額を懐にしまい込む事で、私腹を肥やす様な外道が孤児院の管理者に成った件も有ったらしいが、詐欺同様に十両以上やらかしていれば問答無用で死罪とされるのだそうだ。
「実際、あっしの居た所じゃぁ無ぇですが、知り合いの居た孤児院の管理者がその手の悪事に手を染めてた事がバレて、御家を取り潰されたってな事も有ったそうですぜ」
……山猫と呼ばれる盗人、若しかしたらそうした孤児院の出なのか? いや、そうとは限らないか? 若しかしたら悪辣な商家に騙されて一家離散した家の者と言う事も考えられるか?
「……中々面白い話では無いか。兄者が戻る前に余が手ずから捕えれば、余も二つ名を得る事が出来るやも知れぬな。お忠、お蕾、其方等の力も貸して貰うぞ!」
兄者は余よりも幼き頃に大鬼を討って二つ名を得たのだ、余は火盗改すらも撒く盗人を捕えて名を上げてくれようぞ!
「はっ!」
「はい!」
二人の切れの良い返事を聞きながら、余は闘志を滾らせるのだった。




