六百四十七 志七郎、進歩を感じ怒声飲み込む事
猪牙道場に通う様に成って早一週間……流石に未だ雲耀の太刀と呼べるだけの技を身に着ける事は出来ては居ないが、其れでも確実に其処へと近づいて居る実感が有るのは、その境地へと至った者から直接指導を受ける事が出来ているのが大きいだろう。
通常、人間は身体を動かす時、何処かに意識を割けば、その他の部分が疎かに成る物だ。
武術……いや恐らく全ての運動競技は、練習に練習を重ねる事で意識していない部分を無意識下でも最適な行動を取る様にして行く物なのだと思う。
雲耀の太刀とは、踏み込みや腰の捻り振り下ろす腕の動き、そうした一つ一つの動作の連動の中から無駄を削り取って行き、一つの動作で一太刀を繰り出す境地である。
俺が此処で着けてもらっている稽古は割と単純な物で、唯只管に立ち木打ちをし、その中で疎かに成っている部分や、無駄な動きをしている部分等々……従伯父上が見て修正するべき箇所が指摘され、ソレを意識してまた立ち木打ちを続ける、と言うだけの物だ。
今までの俺は、記憶の中に有る前世の曾祖父さんの太刀筋を思い出しながら、ソレに近づける様に立ち木打ちを繰り返して来たが、今ひとつ進歩を感じられなかったのは、そうした修正箇所を客観的に確認する手段が無かったからだろう。
向こうの世界では、様々な競技の練習場で壁一面を巨大な鏡にして居る事が多いのは、自身の動きを客観的に見る事で、修正点を探し出しソレを改善する為に大きな力と成るからだ。
要は今まで俺は、闇雲に手探りでの稽古を続けてきた……と言う事で、其処に同じ系統の技を使う者が指導してくれれば、短期間でも劇的に効果が出ても奇怪しくは無い……と言う訳である。
「ちぇぇぇりゃぁぁぁあ嗚呼!!」
と、横に並んで同じ様に立ち木打ちをする太郎彦も、歳下の俺に対する対抗心からか、稽古に対する身の入り方が今まで以上らしい。
「ちぇすとぉぉぉお雄々!」
で、兄がそんな感じに気合を入れた稽古をしていれば、弟も当然の如く奮起する様で、次郎彦の方も身体が出来て居ない為りに、ぶっ倒れるまで立ち木打ちを続ける根性を見せていた。
そうして只管に立ち木打ちを続け、そろそろ集中力が切れてきたな……と、そう感じた頃だった。
「志七郎様、太郎彦様、次郎彦君。そろそろ朝食の支度が整いますから、汗を流して来て下さいな」
縁側から熊爪家のお晴が、姿を表しそう声を掛けて来たのだ。
彼女とその妹のお雨は、一昨日から此処猪牙道場に生活の場を移していた。
熊爪夫妻が弟子の九郎を連れて江戸へと上がる準備を粗々終え、後は出発するだけと言う状態に成った事で、熊爪の屋敷は既に生活出来る状態では無く成っているからだ。
「今日のちゃんこは私が作ったんです、熊爪家の味付けで。太郎彦様の……いえ、皆さんのお口に合えば嬉しいです」
イチャついてるってのとはちと違うが、それでも端から見て思い合っている事が解るそんな姿を、俺は大人の余裕で微笑ましく見守るのだった。
「おし、志七郎。此処で手に入れるべき品は一通り揃った。明日には発つ故、出立の挨拶が必要な者には今日の内に済ませておけよ」
午前中一杯を稽古に使い、昼飯を食いに城へと帰ると、御祖父様は開口一番そんな言葉を言い放った。
『はぐれ次郎の鎌』と言う目玉商品を手に入れるのに、最短でも一ヶ月、最長半年は此処に留まる予定だったと聞いた記憶が有ったが、ソレが運良く最速で手に入った以上は、長居は無用と言う事なのだろう。
個人的にはもう暫く従伯父上に稽古を見て貰いたいとも思うのだが、大名の子は基本的に江戸に居住しなければ為らないと言う取り決めが有るので、戻らざるを得ないのだ。
今回俺が長期間江戸を離れるのを許されたのは、非公式では有るが帝への拝謁を賜ると言う『公的』な理由が有ったからで、ソレを終えた以上は長々と他所で修行し続けるのは本来は法度に触れる行為なのである。
とは言え、関所を通らずに危険な山道や森林を踏破する形での『関所破り』で江戸州を出る事は、バレてもお咎めを受ける様な事は無い辺り、割と緩い法度だったりはするのだが……。
実際、義二郎兄上は関所破りの常連で、江戸の猪山藩邸に有る素材蔵には、江戸州内には出現しない鬼や妖怪の素材が以前は山程積まれて居り、ソレを見れば届け出無く外へと頻繁に行っていたのは一目瞭然だった。
まぁ其れ等も義二郎兄上が豹堂家に婿入りし、北方大陸へと旅立つ際に向こうでの活動資金とする為に全部持っていったらしいので、蔵の中身は半減どころの騒ぎじゃぁ無い程に減っているが……。
兎角、幾ら緩い法だとしても、ソレを真っ向から無視し続けるのは、俺の信条的にも猪河家の名誉の為にも慎まねば為らない事だろう。
……けれども考えて見れば、御祖父様の想定よりは随分と早く帰れる訳だし、其処まで神経質に成る必要も無いんじゃぁ無かろうか?
「……猪山を出たからと言って、真っ直ぐに江戸を目指す訳では無いからの。折角だしもう一人の従姉とも会わせてやらんとな。京への道中で帰りに寄る約束をしたのだろう?」
具の沢山入った味噌汁――と言うか豚汁の豚の代わりに鹿肉が入った、鹿汁? とでも呼べそうな物を啜りながら御祖父様は続けてそう言った。
ちなみに今日の昼飯は、その鹿汁と鹿肉のカツ丼だ。
海から遠い山奥で尚且食肉が名産の土地だからか、此処に来てからは朝昼晩三食肉三昧だなぁ。
一応、領地の中心に有る湖や其処から西へと流れる川には、淡水魚の類は沢山住んでおり、川釣りを嗜み釣り上げた魚を食べる文化も有るには有るらしいが、何方かと言えばガッツリとした肉の方が好まれるらしい。
其れでも野菜や雑穀混じりの米の飯も十分摂れる様、配慮が感じられる献立に成っているのは、流石と言って良いのかも知れない。
うん……癖の無い豚肉と違って、鹿肉特有の風味が慣れない者には辛いかも知れないが、幸い前世に北海道へ行った際、蝦夷鹿の焼き肉や腸詰めを何度か食べ、美味しく頂ける様に慣れているので無問題だ。
「もう一人の従姉で約束と言うと……火取の伯父貴の所へ行くと言う事ですか?」
卵とじの鹿カツを下の雑穀米と一緒に頬張り、十分に咀嚼を楽しんだ後、纏めて呑み下してから、そう問い返す。
「おうよ。お前さん、江戸でもこの旅でも剣の稽古は熱心にやってる様だが、ソレだけじゃぁ片手落ちだぜ? 確か無手の心得も有るんだったよな? 今の段階で留めるんじゃぁ無くもう一寸そっちの方も鍛えねぇとな」
俺の無手術は殴る蹴るでは無く、犯罪者を可能な限り傷付けずに取り押さえる為の逮捕術なので、鬼や妖怪が主な相手であるこの世界ではあまり出番が無い。
故にそちらの稽古には重きを置いて居なかったのだが、万が一武器を全て失う様な状況に陥った場合の事を考えるならば、確かに此方の世界でも使える格闘術を学んで置くのも悪い選択では無いだろう。
火取の伯父貴が道場主を務める撲震無刀流は、火元国だけで無く、世界規模で学ばれている流派らしいので、人よりも圧倒的に体格の大きな鬼や、人の形すらしていない妖怪を相手取る事も想定された技が有る筈だ。
そう判断した俺は、その言葉を鹿汁を啜りながら首肯する。
「午後からは、此方でお世話に成った人達に挨拶回りをして来ます」
口の中の物を嚥下し、改めて返事をしたのだが……
「有象無象への挨拶なんぞどうでも良いわ、お前が一番時間を使わねば為らんのはお連ちゃんだろうよ。全く……そんな事も分からんから前世のお主は三十路童貞のままおっちんだんじゃぁ無ぇのか?」
返って来たのはそんな言葉である。
うるせぇよ! と声を大にして言いたかったが、多分割と外れて居ない事実なのでは? とも思わなくも無いので、俺はただ黙って鹿カツ丼を頬張るのだった。




