六百四十六 志七郎、新たな師を得て馬肉事情を知る事
「知らない天井だ……」
意識を取り戻した俺は、思わずそんな何処かで聞いた様な事を呟いた。
常識的に考えて、今見上げているのは猪牙道場母屋の一室と言った所だろう。
布団に寝かされていた上半身を起こし、軽く頭を振るが頭痛や目眩の様な物は感じられず、綺麗に意識だけを刈り取る様に手加減された一撃を貰ったんだと思い知らされた。
「お目覚めに為られましたか志七郎様。誠申し訳御座らぬ、息子と闘った時から想定していた以上の動きをされました故、此方も咄嗟につい身体が動いてしまいました。で、先程の手合わせの寸評ですが……」
どうやら俺が気を失っていたのは然程長い時間では無かった様で、従伯父上自身が此処へと運び込み、布団に寝かせた殆ど直後に目を覚ましたと言う事の様だ。
そしてそんな言葉から始まった彼の言葉を纏めると、先ず気を失う前に言われた通り、今の俺は視覚以外の感覚のみで戦う訓練が足りてないと言う事だ。
気配を探る為に氣を耳に集めて聴覚を強化したり、眼球に氣を集めて氣の視認をしたり……と言う様な事は出来るし、必要に応じてしているが、従伯父曰く氣を肌で感じ取る訓練を積めば、目で見えぬ程の動きを先んじて感じ取る事も可能なのだと言う。
と言うか、寧ろある程度以上の達人達や大鬼、大妖との戦いでは、意識加速を用いたとしても、目で見て判断してから行動している様では遅く、相手の氣の動きを感じ取ってソレに応じる事が出来て、やっと入り口に立ったと言えるのだそうだ。
次に指摘されたのは、間合いの広い大太刀の木刀だからと、不用意に間合いを詰めてしまったのが悪手だと言う事である。
「その判断自体が間違いとは申しませぬ。が、間合いを詰めた時点で安心してしまったのでしょうな、其処で動きが止まって居りました。間合いを詰めたならば畳み掛けねば意味が有りませぬ。故に儂に反撃の余地を与えてしまったのです」
間合いを詰めたならば即仕留める、ソレをしなかったのが敗因だと言う。
ちなみに俺が食らったのは、蜻蛉を切って飛び退るついでに繰り出した蹴りだそうで、その光景を端から見たならば、前世の中学時代に友人宅で少しだけ遊んだ格闘ゲームの米軍少佐が使う必殺蹴りを食らった感じだったのだろう。
いや、貯め時間が無い事を考えると、何方かと言えば高校の頃にやはり友人宅でやった妙に角張った姿の格闘ゲームの、金髪女性が繰り出す同名の技の方が近いかも知れない。
兎角、重量級の従伯父上が繰り出したソレが、顎を打ち抜いても軽い脳震盪で済んだ辺り、彼の無手体術の練度も大太刀の物と大差無い程に練られた物だと言う事がよく分かる。
そして同時に、俺自身の中に何処かで『木刀以外の攻撃は無い』と言う居着き――先入観と言い換えても良い物が有った事に思い至った。
木刀の間合いの内側深くに入ってしまえば、向こうに打てる手は無い……そうした思い込みが無ければ、下から飛んでくる蹴りを身を反らすで躱す事位は出来た筈なのだ。
読み切った……と言うか、選択肢を押し付けたと思ったら、全く明後日の方向の答えを返された気分だが、ソレこそ従伯父上に言われた通り力量差を覆す程の物では無い、小手先の小細工でしか無かったと言う事なのだろう。
「格上を相手にせざるを得ない時に、勝ち筋を作る為に策を弄する事は決して間違いでは有りませぬ。ただ、此度は詰めが甘かったと言う事に御座る。志七郎様は知恵を巡らせ、相手の動きを制限し詰みまで持って行く、そう言う性質為ればソレは悪手では有りませぬ」
慰める様な、噛んで言い含める様な、そんな口振りで言葉を続ける従伯父上、久々に表情を消すのを忘れていた為に、余程落ち込んだ様な顔を見せていたのだろう。
「中身は兎も角、肉体は未だ家の太郎彦よりも幼いのです。未熟で当然、此れからも驕らずに鍛錬を積まれれば宜しいのです。構えや太刀筋を見る限り、我が流派の剣と共通する部分も多く見受けられました故、国許に居る間は儂が稽古を見て差し上げましょうぞ」
ついさっき太郎彦に偉そうな口を叩いて置きながら、俺自身天狗に成っていた部分が有ったのかも知れない……。
「短い間に成るとは思いますが、宜しくお願い致します」
『雲耀の太刀』を体得している従伯父上に短い期間でも稽古を見て貰えたならば、俺自身が其処に至る道筋を付ける事にまた一歩近づく事が出来るだろう。
「うむ……では、明日の朝稽古から通って下され。恐らく志七郎様が目指すは『雲耀の一太刀』でしょう。儂が其処に至る一助と成りましょうぞ」
そう言う猪山でも……いや、火元国でも上から数えた方が早いだろう武人の、手解きを受けられる事に、俺は期待と喜びを抱かざるを得ないのだった。
「成程の……悪い話では無いの。はぐれ次郎の鎌だけで無く、もう少し猪山の産物を取り揃えて江戸へと持って帰ろうと思っとった所だからの。儂と嵐丸でソレを集めて置く故、その間お主は王山に剣を習い、お連との絆を深めて置くと良い」
城へと戻り、昼飯を食いながら午前中に有った事を御祖父様に報告すると、即座にそんな言葉が帰って来た。
なお今日の昼飯は、赤身肉の刺し身に、同種の肉を使ったと思わしきすき焼きの様な鍋、其れから雑穀混じりの飯……と、相変わらず前世の世界で食おうと思えば、良いお値段のしそうな物だった。
「御祖父様……此れ何の肉ですか? この刺し身は魚じゃぁ無いですよね?」
刺し身で食える肉と言えばパッと思い浮かぶのは馬の肉だが、前世の世界では競馬関係者や乗馬関係者の様に馬に深く携わる者は、ソレを食う事に強い抵抗を覚える為、一部の気にしない者を除いて殆ど食う事は無いと聞いた事が有る。
乗馬が割と一般的な娯楽である欧州のとある国では、ソレこそ国を上げて馬肉は禁忌食材として扱っている……なんて話も有った筈だ。
武士にとって馬は一般的な騎獣であり、ソレを扱うのは一般的な嗜みの一つである。
故に馬肉を食うのは武士の恥……と言う様な考え方が有っても不思議は無い。
「ん……ああ、食った事無かったかの? こりゃ馬刺しと桜鍋だ。まぁ猪山では普通の馬では無く馬鬼の肉だがの」
……うん、深く考え込んだ俺が馬鹿だったらしい。
聞けば猪山の四方を囲む外輪山では鳥肉=手羽先、馬肉=馬鬼、豚肉=豚鬼、鹿肉=鹿鬼、牛肉=牛鬼、等々……様々な食肉とされる鬼が一通り出現する為、其れ等を食う事を忌避する文化は無いそうだ。
それに合戦とも為れば、敵が乗っている馬諸共に倒した場合には、糧食の削減の為にもソレを食う事も有り得るので、多くの武士は馬を愛すると同時に、必要とあらば躊躇わず食う為に普段からソレを口にする者すら居ると言う。
「猪山藩は馬産地では無いからの、四十郎や仁一郎の馬は他所から買って居る故、只馬を食うなんて勿体無い事は基本やらぬが、馬鬼の肉ならば干し肉や味噌漬けに加工して他所に売る程手に入るでな」
馬鬼が出る場所は此処猪山以外にも当然有るのだが、猪山程多くが間断無く出現する場所と言うのは稀で、その加工品は、重要な現金収入源の一つだと言う。
ただ山奥に位置し刺し身で食える魚介類が手に入らぬ猪山では、馬鬼の肉は殆ど唯一刺し身で食える物では有るが、流石に生で食える鮮度のまま他所に売りに出す事は出来ないのだそうだ。
また桜鍋も未加工の新鮮な馬肉が必要という点では同じで、双方合わせて土地の味と言う事なんだろう。
そうした刺し身や桜鍋で食い切れな無い分が全て加工品として売られていく……と言う事か、そう納得した俺は、早速刺し身に箸を伸ばすのだった。




