六百四十二 志七郎、出稽古を付け将来を案じる事
大上段から振り下ろされた想像以上に重い一撃を、木刀の刃先をあわせる様にして丁寧に右横へと捌き、得物が地を打ったのに合わせて踏み込んで、がら空きに成った頭へと木刀を振り下ろす。
当然打ち抜く様な事はせず、触れるか触れないかの位置への寸止めだ。
「参りました……。流石は二つ名を持って呼ばれる御方、凄いです御前様!」
今朝は普段より少し早起きして、四煌戌をかっ飛ばし、鈴木道場の朝稽古にお邪魔している。
其処で稽古用の刃引きの鉞を振っていたお連と、軽く手合わせをしてみたのだが……やだ、此の子俺より腕力有る。
当然氣を纏えば対抗出来る範疇の話では有るが、未だ氣に目覚めぬ幼女を相手にソレをするのは流石に卑怯……と思い、氣を使わずに相対した訳だが、一歩間違えば完全に力負けする所だった。
先日見た徹雄従叔父上がやった程に上手く出来る訳では無いが、相手も王牙従伯父上程の上手という訳でも無いので、何とか似たような捌きを決める事が出来た。
にしても……鍬や鉞が適正武器と言う時点で、腕力型なのは容易に想像が付いた筈だ、ソレを見誤る辺り、言い方は悪いが彼女の愛らしいと言い切っても良い見た目に騙された、と言う事だろう。
とは言えその腕力の強さも、未だ幼い子供の身体である今の俺より勝ると言うだけで、超常の世界に足を踏み入れていると言う程では無い。
ただ……このまま順当に成長していけば、恐らく大人に成ったとしても純粋な腕力だけならば、俺よりも強く育つ可能性は決して低くは無いだろう。
前世での積み重ねで維持出来ている剣腕に胡座をかく事無く、精進していかないと逆に俺の方が彼女の夫に相応しい男では無い……なんて事にも為りかねない。
此方の世界でも前世の日本でも、円満な家庭ってのは、夫婦が対等と言うか家庭内では一寸妻が強い位の方が良くその上で要所要所で女房が夫を立てる事が出来ている家庭なのだと思う。
そう成る為には、俺は尊敬される夫に成らなければいけないのだな。
例え純粋な腕力勝負……腕相撲なんかで負ける事が有ったとしても、剣を含めた武芸まで行った所では絶対負けては成らないだろう。
「得物の性質的に大振りが多く成るのは仕方ないのかも知れないが、それでも不用意に仕掛け過ぎだな。一発大きいのを狙うんじゃぁ無くて、ソレを叩き込むまでには小技を組み立てる必要が有るんだ。まぁ、その辺は普段稽古を付けてくれる人が教えてくれるだろ」
と、そんな内心の考えは丸っと呑み込んで、余裕を装いそれらしい助言を口にする。
「……もう一本お願いします」
洗脳じみた盲信教育を止め、伸び伸びと彼女らしく育てて欲しい、そう言ったのは俺自身なんだ。
「良し、来い!」
お互い成長し再び見えた時に『こんなのが私の夫なのか』等と落胆させぬ様に、心身共により強く成長せねば……そう心に誓うのだった
「はい、御前様もたーんと召し上がり下さいまし!」
稽古が終われば、次は当然朝飯だ。
今朝の朝食は鈴木道場のお連や鈴木道場の弟子達と皆揃ってちゃんこ鍋である。
盛られた野菜の断面を見るに、此れは包丁を使わずに、引き千切り握り潰すと言う、『本式』のちゃんこ鍋だろう。
そしてソレを取り分ける手際を見るに、給仕は女の仕事……と言う様な感じで既にお連もある程度出来る様に仕込みが始まっている訳か。
稽古の後、俺を含めた男連中は井戸の水を頭から被って汗を流したが、幾ら幼いとは言え女の身である彼女が人前でソレをする訳にも行かず、汗を拭いて来ると一旦引っ込んで居たが、流石にちゃんこ鍋を仕立てる程の時間は無かった。
と言う事は此の鍋を作ったのは少なくともお連では無いのは間違いないだろう。
……と言うか、流石に未就学児童が豪快に本式ちゃんこ鍋を作る姿は想像出来ないし、したくも無い。
そんな事を考えながら、まずは汁を一啜り……うん、鶏ガラと昆布で出汁を取り味付けは単純な塩か……。
いや、待てよ? 此処猪山では他所から輸入しなければ手に入らない塩は、割と貴重品だって話だし、此れは客人が居るからこそ出されている、普段よりも豪華な飯なのかも知れない。
先ずはこの葉物野菜から……うん、ちゃんこ鍋なんだから白菜と勝手に思い込んで、よくよく見ては居なかったが食ってみれば此れは玉菜だな。
肉は当然鶏……と思ったが違う、此れは豚でも牛でも無いな……何だろう? この独特の風味は一度でも食った事が有れば多分忘れる事は無いだろう。
成吉思汗は前世に何度か食った事が有るが、アレとも違う感じだし……うーむ。
「なぁお連、此れ何の肉か解るか? 美味いとは思うんだが、一寸食べた事が無い物だ」
聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥……そう判断し俺は同じ鍋を突いて居る彼女に問い掛ける。
「御前様にも知らない事は有るんですね、此れは鹿のお肉です。なので此れは紅葉鍋なのですよ」
成程、鹿か!? うん、そりゃ食べた事無い。いや前世の世界でも家畜肉では無い狩猟肉を売りにしている飲食店なんかは有った筈だが、残念ながら俺はそうした店に行った事が無い。
正確に言えば『日本の狩猟肉』を食べた事が無いだけで、捜査研修で海外に出た時に鴨や野兎を食った事は有った。
けれどもどう言う巡り合わせか、日本の狩猟肉としては割と一般的である筈の猪や鹿は食った事無いんだよな。
食った事が無いと言えば、狩猟肉では無く家畜肉だが、馬も俺は食った事が無い。
馬刺しは一度は食ってみたいと思っては居たのだが、どう言う巡り合わせか食う機会が無かったんだよな。
……兎角、肉が鹿だと言う事を念頭に置いてもう一度汁を啜ってみるが、口に広がるのは濃い鶏ガラの風味と微かな昆布の味わいだけで、鹿肉独特の臭みを感じさせる事は全く無い。
それだけ強い出汁にも拘らず、鹿肉の旨味も風味も全く負けて居らず、かと言って出汁の味がしない訳でも無い、一寸塩気が濃い気がするのは、運動した後に食べる前提で作られているからか、それとも俺と言う客人が居る故に塩を多目に入れているのか?
「志七郎様、美味いでしょう此れ。手羽先のガラを三日三晩煮込んで出汁取って、其処に鹿鬼の中でも一番味が濃い腿肉っすからね。しかもソレを調理したのが此処のちゃんこ番で猪山一の包丁侍だったお人ですからね、不味い筈が無い」
味に集中し黙り込んでいた俺に、そう言ったのは隣の鍋を突いていた、江戸でも見た覚えの有る顔だった。
「あ、志七郎様、俺の事覚えて無い? いやー界渡りの土産も貰ったんで安心してたんスけどねぇ。園田英一っス。多分次回の参勤にゃぁ同行すると思うんで、お見知り置きを」
……即座に名前が出てこない辺り、俺は家臣との交流が足りてないんだろうな。
「園田は目立たんからのぅ。ま、儂が江戸に上がった頃にゃぁ志七郎様は未だ乳飲み子だった故、儂の事も覚えては居らんでしょうが……儂はこのちゃんこの腕を買われ上様からもお声掛りを頂いた事が有るのが自慢でしてね。若い頃の話ですがのぅ」
と、そう言いながら俺とお連が突いていた鍋に野菜と肉の追加を打ち込む、恰幅の良い御老人。
話の流れとその行動から察するに、代替わりして隠居した元家臣で、包丁侍と言うからには江戸屋敷や此処の城で、料理番を勤めていた者なのだろう。
んで、江戸の屋敷では睦姉上が料理の大半を拵える様に成ったからこそ、その役目を終えたと判断し隠居した……とかそんな感じなのでは無かろうか?
って、何で俺達の鍋に具材が追加されてるんだ? 俺まだ全然食って無いぞ?
そう思って、鍋の中身を一度見てからお連を見ると……食べないんですか? と言わんばかりにムグムグと咀嚼しながら小首を傾げる彼女の姿。
……生まれは猪山じゃ無いにせよ、彼女も十分に猪山の女と成りつつ有ると、そう言う事なのだろう。
そんな事を考えながら、俺は食べ負けない様に気を引き締めて、鍋の具材が煮えるのを待つのだった。




