六百三十六 『無題』
「なに? 智香子が離れに男を連れ込んでるだと?」
二人きりの寝室に女房が持ち込んだのは、また頭が痛く成りそうな話だった。
「男……と言うよりは未だ男の子と言うべき歳頃の子ですわね。今の段階で間違いが起こる様な事は無いとは思いますけれども……」
その男と言うのは、初陣を済ませたばかりの当年十に成ったばかりの小僧だと言う。
智香子の離れ小屋は、建てた当初こそ相応に銭を払ってしっかりとした造りにしたものの、ドッカンパッカンと景気よく吹っ飛ぶ度に直す銭が勿体無い……と、今では爆発する事が前提で可也安普請に成っている。
そんな所に何故、その小僧が出入りする様に成ったのか?
鬼切り者として生計を立てていた父が帰らぬ人となり、其れでも子を育てようと無理を押して働き詰めだった母が病に倒れた、それを治す事が出来る薬を手に入れようと、小僧が戦場で無茶をして死にかけた……。
端的に行ってしまえば、此の江戸では有り触れていると言えば言い過ぎかも知れないが、其れでも探せば幾らでも見つかる、そんな不幸が原因だった。
錬玉術の素材を求めて偶々偶然、その戦場に居た智香子は気紛れか、其れ共下々への施しの積りか、兎角手持ちの霊薬でその小僧を助け、更には決して安い物では無い素材を使って、その母親の病を治す霊薬まで作ってやったのだと言う。
其処で『有難うごぜぇました』で済めば、其れこそ良く有る『武士の情け』に絡む美談で終わったのだろうが、その小僧には『恩を受けて其れを返さねぇなんざぁ江戸っ子の名が廃る!』と言える気概が有った。
とは言え、氣も纏えぬ町人の小僧っ子を一人で智香子が欲する様な素材の収集に行かせるのは、死んで来いと言ってるに等しい。
折角救った命をそんな形で散らせる程に馬鹿な話は無く、智香子はその小僧を弟子兼小間使の丁稚として扱う事にしたのだそうだ。
基本的に丁稚と言うのは衣食住の面倒を見る代わりに、賃銀は其れこそ子供の小遣い銭程度しか出ない。
当然智香子も小僧の待遇は丁稚相応の扱いにしているのだそうだが、そもそも錬玉術は金の生る木と言っても良い程儲かる技術、其れを教える対価を母子共に救われた恩で、前払いされたと考えるならば、文句が出る事も無いだろう。
智香子の様に神の加護で基礎的な技術を生まれ持って居らずとも、志七郎の奴はアレの下である程度霊薬を作る事が出来る様に成っているらしいし、多少下積みが長く成るとしても小僧が折れ無ければ一端の錬玉術師に成る事は出来ると思われる。
……考えてみれば、此れは悪い話では無いかも知れん。
智香子の縁談が尽く上手く行かないのは、優れた錬玉術師を抱え込む利に対して、暴走暴発の危が大き過ぎて、生半な覚悟では御家取り潰しの恐怖の方が勝るからだ。
ならば婿を取って錬玉術で猪山藩に貢献させる為に猪河家の分家を建てる……と言う手も考えたが、その話で寄ってくるのは銭に目が眩んだ馬鹿か、中から此方を食い荒らそうとしているのが見え見えの愚か者の何方かばかり……。
稀に見所の有る者が居たとしても、婚姻が成った暁には智香子には錬玉術を捨て家庭を守る事を求める……と言う智香子が絶対受け入れる事の無い言葉を口にし、結局は破談に至るのだ。
『女房が自分よりも稼ぐのは男の矜持が許さぬ』等と言う、尻の穴の小さな愚か者を相手に無理に縁談を進める事は、智香子が行き遅れの誹りを受けようと、藩主としても父親としても認められなかった。
しかし相手が町人階級の小僧っ子だとしても、弟子として一端の術者にまで成長してくれたならば、例え氣を纏う事が出来ぬ者でも、家中の何処かに一旦養子にした上で、智香子の為に作った分家に婿入りさせるのは悪手では無い。
猪山藩としても使える錬玉術師が増える訳だし、其処まで行かずとも助手として補助が出来ると言うだけでも、懐妊から出産後暫くの間も危急の際にどうしても必要と成った霊薬を作る事位は出来るやもしれぬ。
「良き師は弟子を育て、良き弟子は師を育てると言う、智香子がより成長するのに弟子を取るのは決して悪い事では有るまい。余程の事が無ければ見守ってやればよかろう」
放って置いてそう言う関係に成れば良し、そう成らずとも小僧が色を知る歳頃に成ったならば、京の都から『鶏』を取り寄せ食わせれば過ちは起こるだろう。
そうなれば、後は娘の親として責任を取らせるだけの事。
この手の謀は親父程上手いとは思わぬが、此れでも長らく藩主として政争の世界を泳いで生きて来たのだ、小僧一人嵌める事位は出来ぬ事では無い。
「其れはそうなのですけれど、問題は智香子がそう言う趣味故に今まで縁談を全て壊して来た……そんな噂が立ちかねないかなぁと」
ああ、うん……世の中には色々な趣味性嗜好の者が居る、尋常な男女の其れ以外にも衆道を愛好する男は決して珍しい物では無い。
割と有名な所で錬武館の小山内館長は未だ客を取る歳に至らぬ禿を偏愛し、其れ等を侍らせて酒を呑む事を好むと言うし、志学館の諸田館長も比較的若い陰間を好む衆道家だった筈だ。
其れの女版と言うかなんと言うべきか……幼い男子にしか興味を持てぬ女性と言うのも、噂には聞いた事が有る。
他にも跡継ぎを生んだ後、夫は衆道にのめり込み、身体を持て余した女房が陰間茶屋に通い詰める……なんて話も有るらしいし、確かに人聞きの良い話では無い。
「その辺は虚実交えて何時もの瓦版屋に美談仕立てで書き立てて貰えばよかろう。やった事自体は嘘では無いのだし、今の時点で手を出したとか出されたとかそう言う話でも無いのだからの」
万が一その小僧が食い逃げ等ぶちかましたならば、その時は三族皆殺しにしてやるが……問題は智香子の方が無理矢理手篭めにした結果、その小僧が駄目に成った場合だろう。
『姉さん女房は金の草鞋を履いて探せ』なんて言葉も有るが、アレは一つ二つの範疇までの話で、六つも上の女児に押し倒されて力尽くで童貞を奪われたとあれば、其れが原因で女を嫌い衆道に逃げる事は十分に考えられる。
武家の面子の事を言うならば、その場合でも娘を傷物にされたとブチ切れて族滅せねばイカンのだが……男児としては、其れは其れで突くのは忍びないと思わざるを得ない。
「のぅ、お清……間違っても智香子の方から無理矢理致す様な事は無い様に釘を刺して置いた方が良いと思うか? こうなるならば下手に武光から遠ざけず、そっちで手を打つ様にして置いた方が良かったかのぅ?」
女好きを煮詰めた様な禿河の血筋ならば、押し倒された位で心の傷に成る様な事は無く、そのまま下半身で逆襲する事に成るだろう事は解りきって居る訳だし、下手な相手よりは未だ良かったかも知れない。
「何を馬鹿な事を言ってるんですか……実際に智香子がそう言う手合と言う訳では無いんですから、今の段階でそんな事を気にする必要は無いでしょう。其れにあの娘は粗忽では有るけれども、相手の気持ちを無視する様な馬鹿な躾はしてませんよ」
子育てに関してワシは殆ど手を出して居ない、故に躾云々は妻の言葉を信じるしか無いのだが、あの自重を知らぬ爆発娘が起こした騒動の数々を思い出すと、今ひとつ信じきれない……。
夫婦として末永くとまで贅沢は言わぬ、智香子と我が猪山にとって此れが良い縁と成って欲しい……と氏神足る天蓬大明神だけで無く、名を知る数多の神々全てに祈りを捧げざるを得ないのだった。
と四十郎が神に祈ってる頃……智香子の離れでは、
「御師匠様、眠るなら眠るでちゃんと寝間着に着替えて下さい! そのまま寝るとかそんな不精は……って!? 着替えるなら俺が出てってからにして下さい!」
「んー、着替えて寝るの……脱いだのは桂太郎君、明日洗濯して置いて欲しいのー」
「ちょ! 服の洗濯は良いですけど! 下履きは自分で洗うか、母屋の女中さんに頼んで下さい!」
なんて会話が成されていたのだった。




