六百三十三 志七郎、その身を案じ価値観の相違に苦しむ事
……俺は未就学児童相手に劣情を抱く様な破綻者では無い、この胸に宿ったのは多分、きっと、恐らくは保護欲とか、兎に角そう言う物だ。
今の幼い段階ですら愛らしい以外の形容詞を見いだせない整った顔立ちは、長じれば瞳義姉上に礼子姉上や千代女義姉上達……今現在でも江戸を代表する三美人とまで謳われている彼女等を越える美貌の持ち主と成る可能性を感じさせるには十分である。
其れに加えて、彼女を娶れば富田藩骨川家を併呑する大義名分と成ると言うので有れば、幾つもの武家が……いや武士だけではない、成り上がりを望む野心家の鬼切り者達もが、彼女の身柄を求めて争うだろう。
そんな彼女を許嫁等と言うのは、目に見えた地雷その物と言っても過言ではない。
彼女を奪う為に俺を討つ、と言う輩が出てくるのは想像に難く無い話だ。
だが同時に、其れを受け入れないと言う選択肢も俺の中には無い。
猪山の外に出る事無く、一生をひっそりと過ごすので有れば、其処まで酷い事にはならないだろうが、其れは今現在酷い事に成っている富田藩の領民達が、更なる地獄へ落ちていくのを見捨てるのと同義だ。
武士として……男として……警察官として……無辜の民の剣と成り盾と成るのは当然の事、その為に俺が彼女の人生を背負う覚悟を決めるだけで良いので有れば、其れをするのに否は無い。
まぁ……三美人云々は、完全に猪河家が懇意にしている瓦版屋が広めた呼称で、実際には吉原の『太夫』と呼ばれる最上級の遊女とかの方が美人なんだろうとは思うけど、それでも上から数えた方が早いだろう美人の卵と婚約と言うのは役得の範疇と言って良いだろう。
其れに伴う苦労も、御祖父様が多くを背負ってくれると言うので有れば、後は俺が彼女を決して不幸な目には遭わせない様にすれば良いのだ。
「猪山藩主、猪河四十郎が七子、猪河志七郎。貴女の許嫁として将来の夫に成る男だ」
色々と覚悟を決め、胸の奥に湧きかけた苦い物も甘い物も全て呑み込んで、俺は彼女にそう言葉を掛ける。
「はい……御隠居様からも、母様からも、お栗小母様や一朗の小父様からもそう聞いて居ます。御前様は当代随一の英傑足る器、その背を守る事が出来る勇ましき女に成れ……と」
……えーっと? 此れは流石は猪山で養育されている、と言うべきなのだろうか? 其れ共武家の姫には最低限度の勇ましさが必要だと言う事なのだろうか?
……うん、鬼や妖怪との戦いが日常の直ぐ隣に有るこの世界では、箱入り娘やら深窓の令嬢なんて者は足手纏でしか無い、とかそー言う価値観なのかも知れない。
「連は鍬術の才が有ると、神様にも言われて居りますの、長じれば伏虎兄様よりも上の腕前を得る事が出来るだろうと……」
いや……此れは完全に『猪山の女』に染まって居るんだな。
「でも、連としては鉞の方が手に馴染むんですよねぇ……御前様? 連は鍬術の修練と鉞術の鍛錬、何方を選べば良いと思われますか?」
……光源氏計画? ゑ? 其れってこう言う方向の物だっけ?
確か前世の中学生位の頃に本吉が遊んでた珍しく全年齢対象ゲームに、娘を育てて王子様を射止めよう! と言う様な物が有り、その中では剣術やら魔法やらの戦闘方法を鍛えると言う要素も有った筈だ。
本吉がパソコンで遊んでいるのを、小説を読みながら後ろで横目に見ていただけだが、娘を武者修行の旅に出したり、武道大会に出場させたり……と、王子を射止めるにはちと方向性が違うんじゃぁ無いか? と思った記憶が有る。
「別に今の段階で一本に絞る必要は無いだろう。武芸十八般全てに秀でてこそ誠の武士……なんて言葉も有る、気になる物、出来そうな事は一通り試して見れば良い。俺自身も剣だけじゃぁ無く銃や無手の武芸を修めて居るしな」
ちなみに武芸十八般とは、一般的に『剣術』『居合術』『弓術』『馬術』『泳術』『薙刀術』『槍術』『小具足』『棒術』『杖術』『柔術』『鎖鎌』『分銅鎖』『手裏剣』『含針』『十手術』『捕手術』等々で、その流派や集団に依って差が有ったりする。
前世の世界では『料理』や『読み書き』『算術』なんかは武芸十八般には数えないのが普通だが、此方の世界では其れ等も立派に武士が学ぶべき芸の一つとされている。
『書』や『絵画』に『楽器』等の芸事は武芸には含まない物の、武士の嗜みとして覚えておくべき事とはされているので、そちらの方にもある程度の労力を払って修練して置くのも無駄にはならない筈だ。
「んー、わかりました。母様からも御前様の言う事はちゃんと聞いて、御前様好みの良い女子に成りなさいと言われていますから、御前様が武芸十八般全てに秀でた娘が良いと言うならば、そうなる様に頑張ります!」
おっと!? 俺とは違い彼女は普通の子供なんだ、言われた事をそのまま丸呑みしてしまうのは仕方が無いのか。
一つの武器では無く、多様性を持った方が良い……と言う様な意味合いで言った言葉だったのだが、このままでは努力に押し潰される様な事に成りかねない、
「いや本当に全てに秀でる事が出来るのは、一部の天才だけだ。お連はお連に合った物を身に付ければ良い。一朗翁や此処の師範代の万助ならば、その辺の相談にも乗ってくれるだろう。それに武芸だけじゃぁ無く他の芸事も嗜んだ方が良いらしいぞ」
故に前言を翻す言葉を口にせざるを得なかった。
「難しいですが……でも、頑張ります。御前様に良い嫁御と思ってもらえる様に……」
……宇佐美姫と信三郎兄上の様に生まれた時からの許嫁とか、そう言う物が当たり前に有るのが武家や公家の社会、そんな中でそうと言い聞かされて育つと言うのは、半ば洗脳染みて居て俺個人としては好ましいとは思えない。
けれども御家の為、夫の為に尽くすのがこの火元国の女児達の当たり前なのだ。
「やりたいと思った事、出来そうと思った事、そんな物が有ったなら隠したり押し殺したりせずに、自由にやってみれば良い。世の中頑張っても出来ない……なんて事は殆ど無いんだし、出来なかったとしても頑張った経験は必ず身に成るからな」
それでも俺の中に息衝く前世の価値観が、将来有る子供の未来を駄目にする事を正しいとは言わず、少しでも彼女の未来が明るい物になって欲しいと言葉を選び口に出す。
「自由に……ですか? 連は御前様に相応しい女に成る為に色々な事を学び、御前様が好む様な女に成れ……と母様に言われてるのです。連がやりたい事を自由した方が、御前様の好みの女に成れますか?」
夜想曲の名を冠したネット小説サイトで読んだ未成年お断り小説では、女性が男に対して『貴方の色に染めてください』なんて言葉を口にする事が有るが、幼子が実際に口にすると為るとなんと悍ましい事か……。
いや……此れも前世日本の価値観に毒され過ぎた考え方で、此の火元国には似つかわしくない物なのかも知れないが、ソレでも俺の中に今でも息衝く倫理観が、其れを悍ましい……と感じさせるのだ。
「俺好みの女に成る必要は無い、君は君らしく成れば良い。自由で良いんだ……許嫁として最後には結ばれるんだとしても、俺に合わせて君が変わる必要なんか無い、お互いにすり合わせて行けば良いんだから」
未就学児童相手に何を言ってるんだろう……とは思うが、隠す事無く此れは俺の本心だ。
一方的な欲望の捌け口なんて物は二次元の中に有ればソレで十分だ。
例えソレが立場故に押し付けられた関係だとしても、本当の信頼関係を作るのであれば、一方が妥協し続けるのでは無く、双方が少しずつ譲り合って行かなければ成ら無い物なのだと思う。
「君も俺も未だまだ子供なんだ、一人前に成るには未だまだ時間が有る。少しずつでも良いから一歩一歩確実に前へと進んで行けば良いんだ。疲れて休むのは構わない、立ち止まったって良い、何時かは大人に成るにせよ、その時には君は君らしく成れば良いんだ」
噛んで言い含める様な、そんな口調に成ってしまうが、ソレは俺の中に大人としての俺が未だ消える事無く息衝いている証拠だろう。
前世の価値観と今の価値観……既にこの手は血で汚れていると言うのに、捨てきれぬソレを後生大事にしている自分を可笑しく思え、思わず吹き出しそうに成るが、ソレを噛み殺し、彼女が彼女で有り続ける事が出来る様に只々祈るのだった。




