六百二十四 志七郎、最強を知り石高詐欺を知る事
鬼熊デカい、鬼熊コワい、鬼熊ヤバい……。
前世に、高校の修学旅行で北海道へ行った時、現地の動物園で羆を見た事が有るが、アレよりも二周りは大きくその体長は十三尺程も有り、その体重は推定だが二百六十六貫は下らないだろう。
つい先日、鬼熊よりも巨大な炎羅大王とやりあったばかりだと言うのに、真逆それよりも小さな野生動物如きに此処までビビる事に成るとは思わなかった……。
何方も此方に殺気を向けてくる存在、と言う点では変わらない筈なのだが、殺気の質が違うと言うのか何というか。
もしかしたら前世に北海道で起こったと言う熊害の『三毛別羆事件』をモデルにした『熊嵐』と言う映画を見た事が有るので、ソレ故により身近な物として、その姿に恐怖を覚えたのかも知れない……。
にしても義二郎兄上は、元服直前と言う話だったので、十三、四歳でアレを単独で仕留めたと言うのだから、その勇気に敬服を覚えると言うか、寧ろ何で倒せたんだと疑問を抱くべきか。
まぁ、今俺がこうして呑気にそんな事を思っていられるのも、四煌戌達がきっちり索敵し、此方が先手を取った上で、御祖父様が瞬殺してくれたからなんだがな。
流石に未だ今の俺には荷が勝ち過ぎると言う事で、御祖父様が自重する事無く、自身の使える最大奥義を見せてやる……と行って打ちのめしたのだ。
爆氣功すらも越える莫大な氣を一瞬全身から放ったかと思えば、片足を上げた姿勢で滑る様に駆け出し、接敵したと思ったら先程をも越える膨大な氣を放ち……その巨大過ぎる氣に中てられ何をしたのかが見えなかった。
俺の視界が回復して見えたのは、何事も無かった彼の様な綺麗な姿のまま沈黙する鬼熊と、俺達に背を向けたまま静かに氣を鎮めて行く御祖父様の姿……。
「悪郎流……最終奥義、魂砕き」
直後、口から盛大に血を吐きぐらりと身体を揺らすと、地響きを立ててその巨体が崩れ落ちる。
悪郎流と言うのは、四錬業の奥伝全てを修めた唯一の人物である御祖父様が、自分自身で確立した氣の奥伝の技、その総称らしい。
魂砕きはその中でも最高難易度の技で、素材となる部位への被害を最小限に抑えつつ、殺傷能力は最大限に……と言う矛盾としか言い様が無い事を追求した結果生まれた物だと言う。
その術理は、四錬業を併用する事で発生させた人の扱える限界近い氣で全身を強化し、超高速の世界の中で数十発の拳を寸止めで打ち込み、相手の体内の素材に向かぬ部位に氣を浸透させて爆発させる……と言う物だそうだ。
圧倒的な氣の量と、繊細な氣の運用、そして其れ等を併用した状態でも正確な打突が出来る身体操作能力、その全てが揃わなければ出来ない大技で、決まれば耐久力に優れた鬼熊すらも一瞬で仕留める事が出来るのは、たった今実践されたばかりである。
ちなみに義二郎兄上が鬼熊を討伐した際には、昼夜を通して戦い続け丸々二日掛かったと言うのだから、御祖父様がどれ程トンデモ無い人物なのかがよく分かると言う物だ。
まぁ、倒された鬼熊の死体を見聞する限り、その分厚い毛皮は俺の愛刀である刃牙逸刀(小太刀)では、大した痛痒を与える事も出来る様には思えない。
しかも厄介な事に、鬼熊は化けたり妖術を使ったりする事は出来ないが、妖氣はしっかり纏っている為、ソレを相殺するだけの氣を込めた攻撃で無ければ、毛の一本すら斬る事は出来ないと言う。
お花さん曰く、世界を見渡しても上から数えた方が早い達人の一人である御祖父様は兎も角として、此れを元服前に単独撃破した義二郎兄上も大概と言えば大概なのか……。
とは言え、当時の義二郎兄上の差料がどれ程の物だったのかは解らないが、丸々二日戦い続けてやっと倒したと言うのだから、一撃で致命的な被害を与える事が出来る程では無く、チクチクちまちま削って削って……と言う様な戦いだったのは間違いないだろう。
しかし……この化け物が中堅程度の強さに過ぎないって、猪山って本当にとんでもない土地だな。
推定二百六十六貫の鬼熊の死体をひょいっと音がしそうな程に軽々しく担ぎ上げる御祖父様の姿を見て、俺は思わず遠い目をしてそんな事を思うのだった。
「ほれ見ろ志七郎、此処からならば本領が見渡せるぞ! と言っても、もう直ぐ日が落ちるから、きちっと見るのは明日の朝に成ってからだろうがな」
鬼熊の巨体を担いだまま、稜線の上へと立った御祖父様が振り返る事無く、そんな言葉を口にする。
少し後ろを歩いて居た俺も、その言葉を聞いては流石に駆け出すしか無い。
そして開けた視界の先には、鏡の様な静かな水面を湛えた大きな湖と、其れを囲む様に広がった想像していたよりもずっと大きな人里の姿だった。
山奥に有る一万石少々の小藩と言う言葉だけで、小さな小さな山村を想像して居たが、普通の藩は藩都とでも言うべき領主の居城と、その郊外に農村が散らばっていると言う形が多い。
けれども考えて見れば『狭い盆地の中に有る一万石の藩』なのだ、藩都とその他なんて区別は無く、人口の全てが同じ盆地の中に住んで居ても何ら不思議は無い。
とは言え、人口一万人が暮らす場所としては、少々……いや大分……可也? 平地に有る田畑の面積が多すぎる気がする。
農地の占める面積が大きいから農村と言って間違いでは無いんだろうが、中心部に有る大きな湖を含めて盆地自体の大きさは、前世の感覚からして『村』では無く、大き目の『町』乃至は小さ目の『市』と言って良い程では無かろうか?
うん……小藩とは一体何だったのだろうか? この規模の広さが有るのに一万石? 絶対嘘だろ。
「完全に嘘では無いぞ、一石とは大人の男児が一年に食う飯を作る事が出来る田畑の広さだ。概ね猪山の者達は外の者達の三倍以上は食わねば飢える者達だからの、其れに見合うだけの土地が有っても不思議は無い」
俺の表情すら見ずにそう言う御祖父様、多分元服の儀を受ける為に国許を訪れた兄上達が皆、今の俺と同じ様な疑問を抱き父上や御祖父様に問うたのだろう。
もしかしたら兄上達だけで無く、歴代の猪山藩主の子等が伝統的に問う事なのかも知れない。
兎角、御祖父様の言葉で判明したのは、猪山藩は土地換算で言えば概ね三倍の三万石の土地を抱えて居るが、領民達が三倍食う為、賄える人口としては大体一万人前後……と言う事なのだろう。
想像以上の広さに付いては何とか飲み込めたが……次に不安に成るのはこの地形だが、あの中心に有る湖って火山活動の絡みで出来た、所謂カルデラ湖って奴なんじゃぁ無いだろうか?
いや……下手をするとあの湖は火口湖で、周辺に広がる盆地がカルデラ……と言う可能性も有る。
既に朧気に成りかけた前世の高校時代に受けた授業の記憶が間違って居なければ、火山が噴火した際、中の溶岩が抜けて空洞に成った場所が崩れ落ちて窪地に成った部分がカルデラと言う物だった筈だ。
確か九州の阿蘇山の周りの土地がカルデラ地形で、其処には普通に人が住み電車も通っていた筈だし、活動中の火山ですらソレなのだから、長い事活動していない火山ならば同様に人が住んでいても奇怪しくは無いな。
「あの湖は、我が猪山の氏神足る天蓬大明神が、天より降り立った際に着地に失敗して大穴を打ち開けた跡だと伝わっておる。なんでも兄弟神との喧嘩でぶん投げられてこの世界へと落ちて来たんだとか……」
その話が本当なら隕石……いや隕神湖? とでも言うのだろうか? まぁソレでもいきなり噴火で吹っ飛んで猪山藩滅亡、なんて事は無さそうだな。




