六百二十一 志七郎、血に塗れ裸の里を離れる事
「鬼斬童子君は裸王轟衝破に付いては、もう十分な練度が有るけれど、裸漢光殺法と裸身丸の方は未だ未だ未完成ですからねぇ。流石に皆伝とは言えませんが……一つでも奥義を身に着けている以上、奥伝の免状は出さないとですねー」
急な旅立ちだからこその挨拶回りだったのだが、最後に向かった美々殿の所で、唐突にそんな言葉を投げかけられた。
武芸の免状は一般的に『初伝』『中伝』『奥伝』『皆伝』と言った具合に階位が有り、それぞれ一定の技を修めた事を師範や師範代が認めた時に、ソレを記した書状が与えられる。
そうした免状は、各藩の藩主等が出す感状と同様に、浪人者が新しい主君を得る為の猟官活動の際の箔付けとして使われる物だ。
かと言って、大名の子である俺に取って無意味な物と言う訳でも無く、流派免状持ちと言うだけでも、二つ名程ではないが他の武士に対してドスが効く様に成るらしい。
ちなみに裸身氣昂法では、外氣功を扱える様に成って初伝、爆氣功を纏って自由に行動出来て中伝、三奥義の何れか一つを使い熟せる様に成って奥伝、三奥義全てを自在に操れて皆伝……の免状が与えられるそうだ。
そもそも氣を纏う事の出来ない――魂の出力が低い只人が、外氣功を身に付け氣を纏う事を目指す……と言うのが裸身氣昂法の興りである、そう言う意味で此処を訪ねる者の多くが初伝を目指し、ソレが出来たならばほぼ卒業と言える所だろう。
中伝以降は氣功使いの為……つまりは武士の為の階位と言って間違い無い。
その中でたった二ヶ月一寸の修練で奥伝の免状を頂けたならば、ソレは十分早い習得と言って良いのでは無いだろうか?
「有り難く存じま……ぶっ!?」
免状そのものの文言は印刷……と言う訳では無いだろうが、書き溜めが有るらしく、美々殿はその場で俺の名前をさらりと書き込むと、卒業証書を手渡す校長先生の様に両手でソレを俺へと手渡した……全裸で。
身長差故に視線を下げずとも色々と目に入ってしまうその状況で、俺は鼻の奥から熱い物が込み上げるのを感じながら、意識を手放したのだった。
「ひっひっひっ……ソレで鼻血塗れで此方に担ぎ込まれたか、締まらん旅立ちに成ったのぅ」
翌朝全ての準備を終えて宿坊の掃除を済ませ、四煌戌の鞍に荷物を括り付けて居ると、御祖父様は腹を抱えて笑いながらそんな言葉を投げかけた。
「しかし幾ら前世も今生でも別の意味で魔法使いだとは言え、流石に女性の裸一つで気を失う様では、怖くて一人旅なんぞさせられぬな。街道沿いを旅するだけなら兎も角、ちと離れれば何処で女怪の類と出会うかも解らぬからの」
女怪と言うのは読んで字の如く女性の姿をした妖怪の事だ。
人を食らう妖怪の中には、餌である人間を騙し食らう為だけに、肌も露わな女性の姿をした妖怪と言うのが居るそうで、そうした類は単純にそうした姿を持っていると言うだけで実際には女性では無い者も居ると言う。
中には裸体の女性に似た疑似餌とでも言うべき器官を持ち、ソレに誘われて近づいて来た物をパクリと食う……そんな者も居るのだそうだ。
確かに今の俺はそうした者と出会った時に、誘い出されて不覚を取ると言う事は無いだろうが……出会い頭に裸体を見せつけられて気を失って居ては何方にせよ命は無い。
んー、土産物に手を出すのはちと気が引けるが、ぴんふ向けに買った向こうの世界の艶本で、そっち方面の免疫を付けるべきだろうか?
いや、でもなぁ……前世にそう言う物を見た事が無い訳じゃぁ無いんだぞ? 市販されてるアダルトビデオやエロ本は勿論、発禁処分に成った物や裏取引されている無修正なんかも、取り締まりを行う立場の関係で目にする機会は何度も有った。
特に裏ビデオの取引は暴力団の資金源としては割と一般的な物の一つだった時代もあり、押収品の確認作業には担当外だった者達まで集まって、上映会の様な様相を呈する事も間々有った物だ。
俺は自分が仕事で担当した時以外に、見に行く様な事はしなかったが、全く興味が無かったと言う訳では無い。
幾ら魔法使いとは言え、俺とて健康な男だったのだ、その手の欲求も有れば一人遊びの経験だって相応には有った。
その為に市販のエロ本を買う様な事も有れば、夜想曲の名を冠するネット小説サイトで露骨な文章を読む……なんて事をした事も有る。
芝右衛門や本吉達の様に自宅用のパソコンは持っていなかったので、そっち系のゲームには手を出しては居なかったが、携帯電話でそういう動画を検索した事だって有る。
此方に生まれ変わってからだって、暫くの間は母上や姉上達と一緒に風呂にも入って居たのだから、女性の身体を見た事が無いと言う訳では無い。
にも拘らず、美々殿のソレを目の当たりにしただけで、鼻血を噴いて気を失う……と言うのは一体どうした物だろう。
……やはり大人の心と子供の身体という状態では、其れ等の均衡が取れていないとか、そう言う事なのだろうか?
「かと言って、岡場所だの遊郭だのに連れて行くのも時期尚早よな……まぁ今暫くは江戸州から一人で早々出る様な事も無いだろうし、此度の様に出る時には誰か彼かを付けて置けばよいかの」
いや、今回思いっきり京の都まで一人旅だったんですが……御祖父様の事だ、裏で多分監視なり護衛なり付けてたんだろう。
多分、帰り道も似たような状況で進む筈だったんだろうが、帝からの賜り物であるヒヨコに万が一何か有れば、猪山藩自体に厄災が降り掛かり兼ねないと判断し、大叔父貴や御祖父様が直接監督する事にした……とかそういう事なんじゃ無かろうか?
まぁ二人が水先案内をしてくれなければ、修業の為とは言えこうして寄り道をしようなんて考える事も無かっただろうし、帰りの案内に付いては考え過ぎの類かもしれないが……。
「兄者、宿坊の掃除は終わりました。志七郎様の準備も整った様です」
俺が荷物纏め、其れ等を四煌戌の鞍へと括り付けている間に、宿坊の掃除をしてくれた大叔父貴が手拭いで手を拭きながら出て来て御祖父様に向かってそう言った。
「よし、んじゃ……次の目的地は猪山だ。志七郎とあの娘の顔合わせもそうだが、仁一郎が求めている結納の品も、家の山で捕れば良いだろうよ。猪山は海の物以外なら大概の物が手に入るからな、流石に質じゃぁ仁鳥山にゃぁ敵わんがの」
四方を戦場の山に囲まれた盆地に有ると言う猪山藩は、自然豊かな田舎で様々な霊薬の材料と成る植物は勿論、食肉と為り得る鬼や妖怪も豊富に捕れるのだそうだ。
聞けば猪山の民は他所の三倍物を食う健啖家が大半で、その旺盛な食欲を支えるのがそうした山の恵みなのだと言う。
しかしだからと言って何の苦労も無く、そうした食材が手に入る訳では無い、武勇に優れし猪山の……と謳われるのは、そうした環境で上から下まで誰も彼もが食う為に戦う事が当たり前の土地だからなのだそうだ。
それだけ食料が豊富な土地ならば、周辺からの侵略の一つや二つ有っても奇怪しくは無い、事実戦国と呼ばれた時代には幾度と無く侵攻を受けたのだが、流石は『戦闘民族猪山人』とまで言われるだけ有って、一度たりとも本領まで踏み込ませた事は無いらしい。
にしても、只人より多く飯を食う戦闘民族って、前世の世界の国民的漫画の宇宙人かよ……他所から嫁入りやら婿入りしてくる以外の地生えの者は、全員何らかの鬼や妖怪の血を引いていると言うのだから、只人じゃぁ無いと言えばソレまでか。
「んじゃ、そろそろ行くとすっか、急げば今日の内に麓の宿場にゃ着けるだろ。んで一日其処で休んで明後日からは山越えだ。儂一人なら一飛びだが、そのワン公とヒヨコも連れてくとなりゃ、それなりの苦労が有るかんな」
天然の要塞とも言える山越えは、俺だけを連れて行くならば御祖父様が担いで一飛び……なんて事も出来るそうだが、流石に並の牛より大きな四煌戌を担いで同じ事は出来ないらしく正攻法で登るしか無いそうだ。
参勤交代の時には、真冬の山越えを余儀なくされる訳だから、ソレに比べりゃ今の時期は未だマシなのだろう、俺は自身にそう言い聞かせ、紅牙の頭にヒヨコを乗せるのだった。




