六百十四 志七郎、敵を考察し危険を予測する事
女性の美々殿が歩行で行くのに、男の俺が四煌戌に乗ったまま……と言うのは一寸違う気がしたので、降りて一緒に徒歩で中心部の砦へと足を向ける。
その間、風を操る翡翠には取り零しが居ないかの索敵を頼んだが、今の所ソレらしい反応は無い。
翡翠は面倒臭がりでは有るものの言われた事はちゃんとやる子なので、少なくとも今の所は彼の索敵範囲に鬼や妖怪が居ないのは間違いないだろう。
流石に大外の馬防柵や空堀の向こう側へ出ている部隊が居た場合には、其奴等が戻ってきて後ろを突かれると言う可能性は零では無いが、此処の規模から察するに居たとしても少数だろうし、取り敢えずは問題ない筈だ。
「家の屋敷を修繕する為に、漆喰の材料を取り寄せたんだけど、何時まで経っても届かないから、確認させたら輸送してた商隊が鬼の群れに襲われて奪われた……って話だったんだけど、多分此処で使われたんだろうねぇ」
そうしてやって来たのは、彼女の言葉通り漆喰で白く塗られた此処で唯一まともな建物と言える場所だった。
流石に瓦を用意する事は出来なかった様で屋根は藁葺きだが、建物の作り自体は決してチャチな物では無い。
更に厄介なのは、攻め手が入り込める場所を制限する為に、態々建物の周りをぐるりと空堀が囲んでいる事だろう。
しかも本来入り口と思しき所に掛かっている筈の木の橋は、重く大きな何かを叩き付けた事が一目で解る様な形で叩き壊されて居た。
「砦を作る様な大鬼や大妖は同族の部下を決して見捨て無いんだ。戦略的に考えて捨て駒にせざるを得ないとしても、犬死にだけはさせない、絶対に敵を討つ……。にも拘らずこうして引き篭もるって事は、さてどう言う事でしょう?」
その状況を見た美々殿は、右手に持った鉄扇を逆手し、ピッと人差し指を立てて、俺に向かってそんな問いを投げかける。
どう言う事か……って言われてもなぁ。
俺が相対した事の有る大鬼は、初陣の時に闘った真山緑鬼王と、小僧連にお花ちゃんを加えた面子で倒した亀光帝烈覇の二体。
彼等は何方も、彼女の言葉通り自分達の部下の命を蔑ろにはしなかった。
群れの首領として如何にして群れを残すのか、ソレが叶わなかったとしても雪辱を果たす為に己の命を賭す事を厭わぬ覚悟を持っていた。
だが彼女は今こう言った『同族の部下を見捨て無い』と……。
確かに緑鬼王も烈覇も麾下に居たのは、同族と呼べる者達だけだった。
けれども砦を築く段階に入った鬼の群れは自分達より弱い、他の鬼や妖怪を傘下に従える様に成る……と言う様な話を聞いた覚えが有る。
つまり彼女はこう言いたい訳だ。
あの建物の中には、赤鬼の群れを傘下に従える事が出来る程の強さを持つ鬼か妖怪の群れが居り、ソレを統率する大鬼が居ると……。
「赤鬼を雑魚扱い出来る様な連中が篭もってるって事か……しかも其奴等の親玉も」
俺が考えた結論を述べると、美々殿は普段通りの柔和な笑みを崩さずに
「ソレだけだと半分かな? 強さだけじゃぁ無くて、知恵も回る連中だって所まで考察出来れば満点だったよ」
と、そう応えた。
曰く、一般的な鬼の砦と言うのは、岩山や森の中に有る天然の要塞とでも言うべき地形の場所に、有っても丸太塀程度が精々で、此処の様に馬防柵や空堀は勿論、態々漆喰の建物を建てたりする事は無いのだそうだ。
「恐らく普請自体は使役下に置いた小鬼や赤鬼達でしょうけど……荒事なら兎も角、こんな大規模な工事を丁寧にやらせるのは、余程高い統率力を持つ種じゃなけりゃぁ無理でしょうね」
小鬼や赤鬼と言うのは、頭と成れる『大鬼』を除き基本的に馬鹿なのだ、大鬼の命令とて本人の判断を必要とする様な複雑な行動を取る事は出来やしない。
工事をするにせよ、連中には図面を見るなんて知恵は無く、統率者が逐一指示を出して行わなければ、こんな綺麗に整地する事は不可能なのだと言う。
「本来小鬼って言うのは、作るなんて事は考える事もせず、ただ他所から奪うだけの種族ですからね。赤鬼の方は自分達で使う金棒は自分達で作るらしいから、鍛冶の技術は持ってるんでしょうけど……所詮は粗悪な鋳物だし、高が知れてるけれどもね」
江戸州鬼録でも小鬼と言うのは一部の上位種を除き、採取や狩猟程度の事はするがそうして手に入れた物を加工する技術を持たず、彼らの身に付けた武器や防具はほぼ間違いなく略奪した物だと書かれていた。
ただ上位種や変異種も多い種族で、外つ国では高度な技術を持った『職人小鬼』と呼ばれる者を抱えた大きな群れを率いた『小鬼王』が一国を押し潰した……なんて話も残って居るらしい。
とは言え、そうした技術を持つ者も自分達で開発した物と言う訳では無く、山人の集落を襲い其処で捕らえた虜囚から技術を奪った結果だと言うのだから、根底として全て略奪が前提の種族なのだろう。
対して赤鬼は連中の手にした金棒全て、自分達の手で作っている物で、赤鬼が築いた砦には多くの場合、極めて原始的な物ながらも溶鉱炉が有るのだそうだ。
とは言え、美々殿の言う通り粗雑な作りの金棒は、それなりの得物を持った氣功使いが斬鉄を込めて打ち合えば、叩き斬れない事は無い……と言う程度の強度しか無い。
碌に不純物の分離もせず、鉱石をただ炉で溶かし、ソレを鋳型に流し込んで固めただけの雑な作りなのだと言う話だし、高度な技術で作られた鋼鉄の刃金に氣を込めるのだから、打ち負けたのだとしたら、ソレは担い手がヘボだと言う事だろう。
兎角、其れ等に比べ、目の前にある建物の造りを見れば、少なくとも此処を築いた者達が漆喰を使って左官仕事が出来る程度には、知恵も技術も持った種族だと言う事は一目瞭然と言える事実である。
ただまぁ……最初に見た時には割としっかりとした造りだったのに、吹っ飛んでは再建される度に徐々に安普請化が進み、今ではもう吹っ飛ぶ事が前提に成っている智香子姉上の離れの壁よりも雑に塗られている辺り、職人の仕事と言う程では無い。
恐らくは知識は有るが経験が全く無い者が、形だけ真似た手遊び程度の技術で塗られた物なのだろう。
うん……よくよく観察してみれば、確かに美々殿の言う通り、此処を築いた連中は知恵と知識を持つ様な存在なのは想像する事が出来た事だな。
そしてソレが解れば、もう一つ注意しなければ為らない事にも思い当たる。
「あの建物の中……絶対に罠の類が有りますよねぇ」
態々見つかり辛いだろう窪地を選び、其処に地形を変える程の大規模工事を行ってまで拠点――しかもソレは只の寝床と言うだけで無く、攻められる事を前提とした本当の意味での砦だ、中にも当然攻め手を押し止める工夫の一つや二つは有るだろう。
「罠って程の物じゃぁ無くても、部屋や通路が武者殺しに成ってるだけでも随分と戦い辛くは成るからねぇ……最低でもその程度は覚悟して置いてね」
俺のぼやきに美々殿がそう応じるが、武者殺しとは何だろう?
「武者殺しってなんでしょうか?」
聞くは一時の恥、知らぬは一生の恥……後から調べると言う選択肢も有るとは思うが、此処で聞かずに死んだならば、その機会は一生回って来ない。
「んー、口で説明するのは難しいんだけどね……部屋や通路の入り口を狭くして武器を振るい辛くする構造とでも言うのかな? 入り込まれたくない場所に続く通路は狭くして、どん詰りを曲がる様な構造にすれば、ソレだけ攻め辛く成るでしょう?」
言いながら軽く屈み込んだ美々殿は、言葉だけでは伝わらないと思ったのだろう、手にした鉄扇を使って地面に、簡単な図を描いてそう説明してくれる。
が、肩も胸元も露わなその格好でしゃがみ込むのは止めて欲しい、見えては行けない所までは流石に見えないが、それでも諸に見えている谷間に目が吸い寄せられるのを、理性を総動員しなければ止められないのだ。
それでもなんとか頑張ってその図を見れば、一人しか通れない様な細い通路を進ませ、その最奥に右へと曲がる様な形で部屋を繋げたならば、中で守る側は複数で一人を袋叩きに出来る……そんな構造に成っている事は何となく理解は出来た。
多分、その入口は長押も低めに成っていて、刀や槍を振り下ろす事も難しく成っているのではないだろうか?
「其処に押し入って首領を討たなきゃいけないってのは、割と厳しくないですか?」
俺は未だ子供で体格も小さいし、大人の男を想定した狭さならば然程問題には為らないかもしれないし、美々殿も俺より大人だとは言え女性らしい小柄さで、尚且手にしているのは双鉄扇と近間の得物なので、ソレだけならば何とか成るだろう。
しかし多対一を強制されると言う状況がそう簡単に変わる訳では無い。
「まともに攻めるなら、二人がかりでも危ないかもね、まともに攻めるなら……ね」
そう言ってニヤリと笑った美々殿の笑顔は、まるで悪巧みをしている御祖父様の物の様に見えたのだった。




