六百十一 『無題』
「しかし良かったのかい? 孫相手にあんな嘘八百並べ立てて……」
万が一が有った場合、猪川家にも連座する可能性があるヒヨコは、今の所戦力外という事で厩舎に置いて行かせ、褌一丁に押っ取り刀で胸元には拳銃入れだけと言う格好で、大戌に乗って出立する志七郎を見送った所で、儂の背に古馴染みがそんな言葉を投げかける。
「別に丸っと全部大嘘ぶっこいたってんじゃぁ無ぇんだ、あの程度は方便の範疇よ。儂の見立てじゃぁ今の時点で爆氣功を使えてる筈だったんだがな。彼奴はやっぱり切羽詰まらねぇと本気に成れねぇ気質なんだろよ」
志七郎に言ったこの周辺に五つの鬼の砦が築かれたというのは、丸々全部嘘と言う訳では無い。
ただ、鬼の砦にも一から切りまで有るというだけだ。
ぶっちゃけた話、当代の師範代が向かった場所はそれなりに出来た砦と言えるのだが、残りの四つは放って置くと砦になるかもしれない程度の状態なのである。
故に他の四箇所に裸身氣昂法有段者の里人を数多投入する必要などなく、坂東家とその麾下の須端田家と屋良家から若手を数人程度投入するだけで十分に片がつく。
では何故志七郎を師範代が行っている砦へと向かわせたかと言えば、先程言った言葉の通り、あののんびり屋の孫に試練を与える為である。
修行の進捗については嵐丸達を通して逐一報告は貰っていたのだが、それで思ったのは志七郎は一度大人を経験している所為か、それとも当人の気質なのか、尻を叩かれないと成長しない癖が有ると言う事だ。
当代の師範代は、言って聞かせてやらせて見て、良い点や悪い点を言葉で指摘する……と言う指導法が主で、無茶な稽古や無理な試練といった物を課す事をしない。
決して間違えた指導法ではない、理論も何もなく只々根性論と経験則を振り翳すだけの愚かな指導者よりは万倍も良いと言えよう。
だが残念ながら志七郎には合わない……恐らくは前世の指導者が、口で説明するより身体で覚えろ、と言う質の指導をする者だったのだろう。
故に身体で覚える事をしていた剣技に関しては、想定以上に腕を上げていた様に思う。
しかし氣を扱う技術に関しては、当初の予定未満……報告通りと言えば報告通りの成果しか出ていなかった。
しかも集氣法や外氣功のような技術を身に着けると言う、大きな成長が見られたのは師範代が稽古を付けて居た時ではなく、屋良家の子弟が代稽古を付けた時なのだから、指導法が合わないというのは間違っては居るまい。
いや……恐らくは時間を掛けてゆっくりと指導して行く余裕が有るならば、その方法でも何時かは物になるだろう。
けれども志七郎に残された猶予は決して多くは無い、アレは神々より課された使命を持って生まれた子であると同時に、我が猪山藩とその友好藩の為、そしてとある地の民の為にさらなる苦行に塗れる事になる者なのだ。
故に、それらが始まるであろう元服の年頃までに四錬業を一通り身に付けさせねば為らない。
全てを極めろとまでは言わないが、それら全ての基礎を身に着ける事さえ出来れば、如何なる修羅場に叩き込まれ様とも、生きて帰る能力を身につける事になる筈だ。
故に四錬業の中で最も身に着けやすい錬風業で手間取っていては困る、儂の様に全ての業を身に着けたのは四十近くになって……と言うのでは遅い。
仁一郎の錬火業は、その身に宿した『酒転童子』と言う異能故に、幼い内から教えざるを得なかっただけで、アレは本来子供が学ぶべき物ではない。
錬風業で自然の氣の扱いを学び、錬水業で身体の内に氣を溜め込む事を学び、錬土業で無駄の無い氣の運用を学び、最後の錬火業で酒を体内で燃やす事で魂以外の物から氣を取り出す術を学ぶと言う順番が理想だろう。
しかし四錬業複数修行した者は過去幾人も居たが、四つ全てを完全に身に着けた者は儂より前には誰一人として居なかった。
素で氣を練る事の出来る武士や気功使いは、四錬業は氣の使えぬ者の為の技と嘲る者も多く、実際に身に着けた者は己の業こそ一番と他の業に目を向ける事は殆ど無い。
儂の様に外から来た者の中には、複数の業に興味を持ち身に着けようと考える者も居なかった訳では無いが、一つの業でも極意を掴む所まで修行すると成れば当然年単位の時間が必要になる。
稀に複数の業に手を出す者が居ても二つの業を身に着けた時点で大体は満足し、更に稀有な向上心の持ち主でも三つの業を学び身につけた頃には、最早老いに抗えない歳頃になるのが普通だった。
嫡男で無く身体も弱かった儂は、本来ならば猪山の跡取りと言う立場では無く、藩内で分家し家臣と成る予定だったのと、歳の近かった上様の義兄弟と言う立場を与えられていた故に、若い頃から家名にさえ傷を付けなければ割と好きに生きる事を許されて居た。
今でこそ『猪山の常識は世間の非常識』と理解して居るが、当時まだ若かった儂は猪山の基準で見て身体が弱いと言われていた事を気に病み、少しでも心身を鍛える術を探し……四錬業へと行き着いたのだ。
だが錬土業を最初に学び、次に錬水業、錬風業、錬火業の順に学び……結果として『氣の奥伝を極めた男』等と言う大それた名を得たが、残念ながらその順番は決して効率の良い物では無かった。
最初に学んだ錬土業は己の魂から汲み出す氣を身体から漏らさぬ様にする事で、より効率的に運用する為の技術で有り、身体の外に有る氣の素に対する感受性を落としてしまうと言う弊害が有ったのだ。
運悪く上の兄貴達が皆、戦場で命を落とし家督を継がざるを得なく成ったのは二十歳の頃……その頃には二つの業を身に着け、錬風業の修業も今の志七郎と同程度まで進んだ時だったと記憶している。
幸いだったのは、その時点で既に女房と一緒に成っていた為に、縁談云々の面倒事が少なかったと言う事だ。
当時の裸の里は、外からの修行者を積極的に受け入れる体制を作って居らず、里人も修行者も一緒に生活して居た。
此処に来た当初は当然喜んだし嬉しかった、儂も男だからの。
けれども……どんなに美味い物でも毎日腹一杯に、いやそれ以上に詰め込む様に食わされれば何時かは当然飽きが来る。
江戸や国元で暮らして居たならば、只人の一生分に相当するだろう女性の裸を見た儂は、普通の人間の女性に興味を持てなく成っていたのだ。
女房が虎の化生だったが故に、その後の子作りに問題は出なかったが、男児に恵まれぬ状況で側室を取れと言う声は常に有ったが、その頃には獣相を現にした女房以外じゃぁ勃たなく成っていたのだから仕方が無い。
男児を得る為の様々な手段を模索しつつ、江戸でも錬風業の修業を独自に続け、それを極めたと断言出来る様に成ったのが三十路の時。
未だ跡継ぎと成る男児に恵まれず、寄り強い氣と精力を求めて錬火業にも手を出した。
氣は人の持つ様々な能力を高める効果が有る、歳故に衰えが見え始めた精力を氣で更に高め、不死と言われる『鶏』を食って、ようやっと授かったのが四十郎だ。
その頃には獣相にも飽きが来て、完全に獣の姿の女房を相手にしていた……と言うのは完全に余談と言えるが、我ながら中々に業が深い。
兎角、そうして四錬業全てを身に付けた儂は、後は老いさらばえて消えるだけ、と思っていたにも関わらず、三十路を超えた頃から感じ始めて居た老いと言う物が何時しか不思議と感じなく成っていた事に気が付いた。
『氣の奥伝を極めれば老いからも開放される』そんな話が出回り始めたのは、儂が五十路を回った頃だったか?
事実、四錬業全てを完全に身に着けた、と断言出来る頃には儂の肉体は三十路そこそこの頃と大差無い位に若返っていたのだ。
当然それを知った多くの者が不老不死を目指し四錬業を求めて里へと来る様に成ったと言う話を聞いて、里人が難儀せぬ様に里を整える事を当時の坂東美々殿に提案し、援助もした。
志七郎の神々から与えられた使命とやらを完遂するのには、どれほどの時間が掛かるか解らない。
ならばあの子は、儂と同じく氣の奥伝を極め、只人より永き時を生きれる様にしてやれば良い。
不老長寿の先には親しい者達や我が子等が先に逝く……と言う運命が待ち受けては居るが、其処は一郎やお花のような森人やその血を引く者達と付き合う事で、多少也とも同じ思いを共有してくれる事だろう。
儂が覚えた時よりも効率よく修業をし続ければ、恐らくは元服の頃には四錬業全てを身につける事も可能な筈だ。
獅子は愛しき子を育てるのに千尋の谷へと突き落とし、より強き子を残すのだと言う。
志七郎は子では無く孫だが、愛しき子である事に代わりは無い、この試練で一皮剥けて来るが良い。
「さて、後は吉報を待つだけだの。果報は寝て待て……とは言うが、只寝てるだけと言うのも詰まらん。折角酒樽を持ってきたのだ、もう一杯やるか!」
自身の半生を思い返し、孫の行く末を案じつつ、儂は踵を返すと昔馴染の者達にそう声を掛けるのだった。




