六百九 志七郎、痛い目に合い世界の果てを思う事
「内氣にばかり頼って居ては魂枯れを起こしますわよ! それそれそれ! 右! 左! 右斜め四十五度!」
丸で歌舞伎で『毛振り』と呼ばれる舞の様に激しく髪を振り回す度に、氣翔撃の様な衝撃波が襲いかって来る。
しかしソレは俺に直撃させ、怪我をさせるつもりは無いらしく、今の俺でも氣合いを入れれば何とかギリギリ避けられ、時に躱しそこねても滅茶苦茶痛いだけで、皮膚が裂けたりする様な事は無い……痣に成るのは間違いないだろうが。
「内氣を抑え、身体の回りに有る氣の素を身体の表面から心の臓へと引き込む事を想像して下さいまし、皮膚での呼吸と言われてもソレは自身で操作出来る様な物では有りません、飽く迄も氣の素を心の臓で吸引するんですわ」
集氣法を使って身体能力を全力強化している状態ですら、既に二、三発掠る程度では有るが貰っているのだ、内氣を抑えろと言われても、一寸でも氣を緩めたら被弾は免れない。
「今、此の辺りは私が放った氣の残滓が充満している状態ですわ。それもまた氣の素として取り込む事が出来るのです。それそれそれ! 只適当に避けるのではなく、外氣を肌から取り込みソレを己の氣に変えるのですわ」
彼女の言う通り、確かにこの空間には氣の素が可也濃い……と言うか濃ゆい状態なのは間違いない。
当初は貧しいと遠回しに指摘した様な形に成った事に対して、鬱憤を晴らす為の八つ当たり混じりの攻撃なのだと思っていたのだが、彼女は彼女なりに俺が外氣功を使える様に成る為の環境作りをしてくれていたのだろう……多分。
集氣法は氣の素を意識的に多く肺から取り込む事で心臓の奥……即ち魂から汲み出す氣の量を増やす技法だ、故に長く使って居ると普通に氣を纏っているのとは違い、魂枯れを起こす事は此処暫くの修行の中で経験している事実だ。
対して外氣功は氣の素を全身から大量に取り込む事で、魂から氣を引き出すのではなく、氣の素を圧縮し氣に変換する技術だと聞いている、ソレが出来たならば確かに氣を使うだけならば、魂枯れとは無縁と成るだろう。
また氣を発現する事の出来ない低出力な魂しか持たない者でも、氣が使える様に成るというのも理解出来る。
それにしても放った氣と言う物は、そのまま消えて無くなる物だとばかり思っていたのだが、実際には暫くの間は濃い氣の素として辺りに漂う物らしい。
ソレが此処まで濃ゆい状態で集氣法を使って居れば、段々と氣の出力が上がっていくのを感じる。
うん、このまま集氣法を使い続けて行けば、強化され過ぎた身体能力で肉体操作を誤って事故るか、魂枯れを起こすかの二択だろう。
集氣法を使いつつ氣の総量を調整する事が出来ない訳では無いが、ソレをするのは間違いなく今日の修行の趣旨とは合わない行為だ。
其処まで考えた俺は、更に二、三発貰う事を覚悟し歯を食いしばり足を止めて、氣を纏う為の呼吸を辞める。
その行動を察してだろう、椎菜殿が放つ氣翔撃は俺の身体に直撃する事無く、足元の土を弾けさせるに留まっていた。
身体の回りに漂う濃い氣の素を、肌で吸い込むのではなく、身体の奥深く……心臓へと直接取り込む姿を想像し、先日内家殿が見せてくれた外氣功を纏う姿を思い描く。
するとどうだろう……身体の表面が微かに、微かにだが温かい物に包まれている、そんな感覚を覚えた。
此の温かさは只氣に包まれているから……という訳では無いだろう、恐らくは椎菜殿が放った氣だからこそ感じられる気遣いの証。
ほんの少しでも外氣を纏う事が出来たならば、後はソレを使ってどんどん回りの氣の素を引き込んでいけば良い。
温かさが熱さに変わり全身を隈無く覆うこの感覚は、間違いなく氣を纏っている時のソレと然程変わらぬ物に感じられた。
この状態で、一歩踏み切ってみる……たった一歩が思った以上の距離に成る。
「ほら、出来たじゃぁ無いですか。美々姉様はお優しいですからね。こうした追い込む修練はお得意じゃぁ無いんですわ。けれど貴方が外氣を纏う事が出来たのは、私が散々氣を放った御蔭、次は場所を変えて普通の場所でソレを出来る様にしませんと」
フンスっと自慢げに鼻を鳴らし無い胸を張った椎菜殿の言葉に従い、俺は鍛錬を深める為に一旦場所を移動する事にしたのだった。
「さて、此処は見晴らしが良いでしょう? この里で私が一番好きな場所ですの。此処は常に強く温かい風が吹いていますから、氣が滞る事も無いんですの。故に此処は氣の素が濃くも無ければ薄くもない、外氣功の鍛錬を行うには最適な場所ですのよ」
そう言った彼女が案内してくれた場所は、少し離れた場所に海が見える崖の上で、下に広がる浜辺は真っ白な砂が広がり、前世の世界ならば海水浴場として整備されているだろう場所が見える
此処に来るまで彼女は、常に身体を斜に構え前を行くでも後ろに付くでも無く、真横に近い位置を歩いて此処まで来た。
ソレも扇子の隙間から見えては成らない場所が見えるのを避ける為の立ち振舞いの一つなのだろう。
俺も途中で気が付いて身体を斜めにしたが、最初の暫くは普通に前を向いて歩いて居たので、真横に居た彼女の位置からは見えて居たかも知れない……。
と、言うかさっきまでの場所では、俺は彼女の身体から放たれた氣を取り込んで居たんだな。
そんな二つの思いが脳裏を過ぎり、俺は顔が熱く成るのを自覚していた。
しかし彼女はそんな事には気も止めず、青い海を眺めている。
「この向こうをずっと行けば、その先には地獄しか無いんですよねぇ。世界の端、一度は見てみたい物ですわねぇ。まぁ見える距離まで船で近づけば落ちるしか無いし、外つ国で使われていると言う空を駆ける船でも無いと見れないんでしょうけれども……」
その視線の先は海と空の境界線……平たい四角盆の形をしたこの世界、その東の果に有るのがこの火元国である。
此処から見える海は東の海では無く南側では有るが、火元国の南には島は有れども大陸と呼べる様な大きな陸地は無い。
遥か南に浮かぶ岐洲大島を超えた先は海水が滝の様に世界の果てへと落ちていくだけで、其処に落ちた者は猫と烏を除いて、生きて帰る事は無いと言う話だ。
誰が見たのか……とも思えるその話も、俺は向こうの世界から戻る旅路で、この世界の外から見た姿を目にしている。
ソレは間違いなく四角い板状の大地に世界樹が生え、大地の下にはその根っこが広がり、大地の端からは夥しい量の水が落ちて行く……そんな姿だった。
とは言え猫や烏は帰って来る事が有ると言うのだから、落ちたら即死という訳では無く、何処か別の世界へと落ちていくとかそんな感じなのでは無いだろうか?
界渡りを経験した身だからこそ、そんな風に思えるが、滝壺も見えぬ様な場所に落ちればそりゃ行き着く先は地獄……と考えるのは普通だろう。
しかし外つ国には空を飛ぶ船なんてのまで有るのか……そりゃ飛んでれば落ちる事は無いだろうが、その場合何処まで飛んでいったらこの世界の枠を超えるのか? というのは一寸興味が有るな。
「はぁ……殿方は良いですねぇ。何時でもとまでは行かずとも、己の腕一本で生きていく覚悟さえ有れば、割と自由に外の世界へと飛び出して行けるんですから」
海の向こうから目を逸らす事無く、溜息混じりにそんな言葉を漏らす椎菜殿。
「女性でも、自由にしてる人は割と自由見たいですよ。聞いた話でしか無いですが、家の伯母の一人は『七つの海がアタシを呼んでいる!』とか言って、船で海に漕ぎ出したまま、長らく行方不明だそうですから……」
武家に産まれた者は男女何方で有っても多かれ少なかれ、家に縛られ生きていく運命に有る。
だがソレは同時に家の庇護下に有るとも言える訳で、その庇護を捨て去る覚悟が有れば、件の伯母や市井の女鬼切り者なんかの様に、腕一本で生きていく事自体は不可能では無い。
「っぷ……なんですのソレ? 流石は猪山の方ですわね。でも流石に私は其処まで捨て鉢な生き方は出来ませんわ。これでも臆病な性質ですんで、私を守れる程に強い殿方に嫁ぐ以外の未来は考えられませんの……さて、修行再開いたしますわよ」
自由は欲しい、でも安全は捨てたくない、そんな都合の良い話は無い……と理解しているのだろう。
俺が上げた極端な例に小さく吹き出す様にして笑った彼女は、そう言うと己の髪を氣で操り、自身の両頬を叩いて気合を入れ直すと、そう言って再びその髪先を俺へと向けるのだった。




