五百九十二 志七郎、懐かしい物を食い寝床に躊躇う事
鰹節と干し椎茸の馴染み深い出汁の風味、柔らかく煮込まれた鶏肉と玉葱の甘み、固く成りすぎない程度に火の通った半熟の卵……其れ等全てを決して濃すぎない醤油の味が纏めている。
美味いは美味い……けれども決して魂消る程に、と言う訳では無い。
同じ料理でも睦姉上が作った物ならば二段も三段も上の味わいを醸し出すだろう。
それでもコレは何というか……ホッとするとでも言うべきか、兎角『懐かしい』そんな思いを感じさせる物だった。
「どうだい? あたいの作った親子丼は。誰かに料理を作ってやるなんて久し振りだから不安だったけど……うん、ちゃんと家安に教わった通りの味に成ったよ」
俺の内心を知ってか知らずか、一目様は自分の分の親子丼を食らう手を止めそんな事を言う。
江戸の天守に描かれた姿絵を見る限り、家安公は所謂『不良』の類にしか見えなかったが、難喪仙の所で武芸修行をしていた頃にも、料理を作りソレを食べる様に勧めたりした事もあったらしいので、少なくとも彼は料理が出来る不良だったらしい。
不良男子と料理……と言うのは余り結び付く物では無い気もするが、暴力団まで身を落とさなかったその手の者は、土木建築等の肉体労働系か、飲食、コンビニ……辺りのアルバイターに成ると言うのは割と良く有る進路だった筈だ。
それに俺自身は少年課での勤務経験は無いが、警察学校の同期の一人が其処に配属されていた事が有り、彼と呑んだ時に聞いた話では不良化する少年の大半は家庭に問題が有るのだと言う話で、中には育児放棄気味に育った者も少なく無いと言う。
今でこそ金さえ有ればコンビニやらファーストフードやらで食事を賄う事も出来るだろうが、一昔前だとそうした店が余り無く、自身で料理を覚えねばマトモに食う事も出来ない……そんな家の子は割と居たらしい。
俺が前世に育った千薔薇木県微香部町には今楠寺――通称『狸寺』と呼ばれる寺が有り、其処では寄進として得た食べ物を腹を空かせた子供達に施す……と言う様な事をしていたが、時にはそうした子供に料理を教える様な事もしていた筈だ。
多分、他所の土地でもそうした不幸な子供に生きて育つ為の知恵を与える、そんな活動をしている団体は有っただろうし、不良だからと言って料理が出来ない、と言い切るのは間違いなのかも知れない。
「なんでも家安の奴が、食堂を営んでいたお祖父さんに最初に習ったのが、此の親子丼だったらしくてね。あたいが彼奴の得物を打った時に『祖父さん程美味くは作れないけど』って言いながら差し入れて来れたんだよ……」
成程……祖父が料理人で、その人に習ったと言うのであれば、不良学生でも料理が出来ると言うのは不思議では無いかも知れない。
……と言うか、リーゼントに長ランと言う絵姿だけで不良と決めつけて居たが、不良にだって極道にだってピンからキリまで居る。
前世のあの街には俺がガキの頃まで、出前をやってる飲食店は近所に有った食堂一店舗だけで、ソレだってバイトなんかを雇っていなかった関係で、昼夕の比較的混んでいる時間帯は出来ない……なんて有様だった。
故にあの街に有った暴力団の事務所では、下っ端が飯の支度をやらされるのが普段の仕事だったらしい。
そうして暴力団員として出世するのでは無く、企業舎弟として飲食店を開業する……と言う経緯は割と有ったと聞いた覚えがある。
今思えば、京の都で志郎と揉めた『飯屋』はそうした企業舎弟に当たる見世なのだろう。
うん、不良だからと料理が出来ないと決めつけた自分を反省せねば……人は見かけで判断しては成らないのだ。
とは言え、刑事としてはある程度見かけで判断する経験を積んでいた事もまた事実で……見目の怪しい者を職質してみたら、アカン物を持っていたと言う案件は決して少なくなかった。
逆に全身から『怪しく無いよ!』と言う様な雰囲気をプンプンとさせている者も、疑って然るべき相手だった。
警察官は他人を疑うのが仕事……とまで言ってしまうと言い過ぎだが、必要以上に『普通』を演出している者は何処か不自然で、調べて見ればやはり疚しい事が有る……なんて事も日常茶飯事で、結局は勘と経験で声を掛けてみるしか無かった物だ。
「さ、鬼斬童子君だけじゃ無く、そっちの爺さんもたんと食いなよ。お代わりは幾らでも有るからね?」
ちなみに一目様は、此処で修行する全ての者が食べても余るだけの分量を、巨大な鍋で作っていたりする。
普段は下っ端の鍛冶師が調理を担当するらしいが、難喪仙が此処に入門したばかりの頃は、割と酷い物しか食えなかったらしい……。
「あ、じゃぁ……お代わり貰えますか? なんかすげー懐かしい感じで美味いです。多分、今生じゃぁ無くて、前世で食った事の有る味なんですよねぇ」
芝右衛門のお婆さんの味じゃぁ無い、本吉の小母さんの味でも無い……でも幼い頃に間違いなく食った覚えの有る味なんだ。
何処で食ったのかは思い出せないが……もしかして、家安公のお祖父さんがやってる食堂って俺の住んでいたあの街に有ったんだろうか? そんな事を思いながら、俺は親子丼を鱈腹食らうのだった。
「狭い所だけど、寝るだけならまー平気だおね?」
風呂に入って飯を食って、四煌戌とヒヨコに食餌を与えたら、後は寝るだけだ。
という事で、鍛冶師達が暮らしている長屋の様な建物の難喪仙の部屋へとやって来た。
広さは大凡六畳程だろうか? 家具らしい物は何一つ無く、土間から板張りの床の上に上がったらその真中辺りに布団が一組引きっぱなしに成っている。
江戸州では余程の貧乏長屋でも無ければ、畳敷きは当たり前では有るが、外に出ると畳はそれなりに値の張る貴重品と成る。
この旅の間、俺が泊まった旅籠は何処もきっちり畳敷きだった辺り、超高級とまでは言わずとも、それなりに格の有る旅籠に泊まりながら旅をして来たと言う事に成る訳だ。
対して此の山で畳の入った部屋を持つのは、自分で畳を持ってきた数人を除けば、一目様だけらしい。
三百年もの長いこと木の虚で暮らして来た難喪仙にとっては、板の間に煎餅布団の万年床でも快適な寝床なのだろう。
だが、残念ながら前世は寝台が基本で、今生でも畳の上でしか寝た事の無い俺は、板の間で薄い布団の上では寝られる気がしない……。
「志七郎様、将来旅暮らしをする予定が有るのでしたら、屋根と壁が有るだけでも上等……と覚悟為さった方が宜しいですよ。空を屋根に地べたを寝床に野宿する……等と言う事は旅をするならば当たり前の事ですからな」
そんな俺の心境が顔に出ていたのだろう、大叔父貴が微苦笑を浮かべながらそんな言葉を口にする。
その一言で俺は、寝床と言う意味では割と贅沢をして生きて来たんだなぁ……と思い知らされた。
「うぉん」
「うぉふ」
「ふぁぁ」
「ちゅん」
と、そんな時だった、厩舎が無いので長屋の外で眠る事に成った四煌戌とヒヨコの声が聞こえたのは……。
「大叔父貴、空を見る限り、今夜は雨降りそうには無いですよね?」
天気予報なんて物の無いこの世界の人達の多くは、空を見て天候を予測する知識と経験を積んでいる者が多い。
旅慣れた忍びである大叔父貴は、当然そうした経験は豊富だろう、そう思い問いかけたのだが……
「今夜はこの辺に雨の予定はねーお。んでも朝方の気温は低目みたいだから、外で寝るんはお勧めしねーお?」
と、難喪仙から答えが返ってきた。
曰く、この世界の天気は世界樹で管理された事象であり、鬼や妖怪の様な外の世界の存在に依る干渉や、お花さん級の大魔法使いの関与が無ければ、予定された通りの気象状況に成る物らしい。
天候に関わる権能を持つ神様じゃぁ無くても、神仙の術を用い世界樹に接続すれば、その予定を変更する事は出来ずとも、確認する事は出来るのだと言う。
「四煌戌達だけを外で寝かせるのも可哀想ですし、俺は彼等と一緒に寝る事にしますよ」
板の間で寝るよりはわんこ枕の方が快適に眠れそうだ……そう判断した俺は建前を口にして硬い寝床から逃げるのだった。




