五百八十七 志七郎、寄り道を決意し心配する事
翌朝、朝食を済ませた俺達は早々に旅籠を後にした。
今日は一日移動する予定なので、可哀想とは思うが四煌戌達の散歩は無しで、俺の稽古も多少素振りをする程度で済ませたのだ。
幸い大叔父貴の腰は、俺の按摩が効いたのか、何とか無事回復してくれていた。
智香子姉上ならばその症状に合わせた湿布の様な霊薬でも作って、より確実な治療が出来たのだろうが、残念ながら今の俺の知識では外傷を治癒したり、軽い風邪に効くとされる霊薬は作れても、大叔父貴の様な症状に効く物は作れない。
と言うか、腰痛と言うのは割と厄介な症状で、前世の世界でも明確な原因を特定するのは困難とされる物だと聞いた覚えが有る。
所謂『ぎっくり腰』と言うのは、そうした原因不明の腰痛の総称で『ヘルニア』等のきっちりとした病名を特定出来なかった物を丸っとそう称しているのだと、前世で腰をヤった時に病院で教えてもらった。
なのでぎっくり腰には簡単に出来る根治治療法なんて物は無く、対症療法で痛みを取りつつ自然治癒するのを待つしか無いので有る。
しかし此方の世界の霊薬や術は、厳密な原因を特定せずに割と曖昧な施術でも効果が出てしまう辺り、流石は幻想世界とでも言うべきか……
とは言え、腰痛の場合『外傷』なのか『状態異常』なのかを見極めた上で、適切な霊薬を使わないと駄目なのだそうで、今の俺ではその見極めが出来ないのだ。
普段から身に着けている自身の生命力や氣、体力の状態異常を視覚化してくれる『瞳の術具』を大叔父貴に使って貰えば、ソレを確認する事は不可能では無いんだが、残念ながら此れは魂に接続する道具である関係上、単純に渡して付けて貰うだけでは使えない。
俺自身の事ならば、それこそ瞳の術具が自身でも気が付かない様な些細な異常すら教えてくれるのだが……まぁ出来ない物は仕様が無い。
取り敢えず今回は何とか問題無く出発出来るんだし、錬玉術に付いても此方の世界の医術に付いても、江戸に帰ったらもう少し力を入れて勉強しよう。
そう心に決めながら、俺は大叔父貴と四煌戌、そしてヒヨコを伴って峠道へと足を踏み入れるのだった。
行きの道中とは違い、大した騒動に巻き込まれる様な事も無く甲画藩の領地を抜け、鍛冶師達の聖地である天目山が見えてきた頃だった、
「志七郎様、宜しければ裸の里へと向かう前に天目山の御社にお参りしていくと言うのは如何でしょうか?」
と、不意に大叔父貴がそんな提案をして来た。
鍛冶の神が住む山で、其処では数多の腕の良い鍛冶師達がさらなる奥義を極める為に日々槌を振るって居る場所だ……と言うのは聞いた覚えが有るが、其処に俺が行く理由が解らない。
「武士では無くとも、鬼切りを生業とする者ならば良い得物を持ちたいと思う物……そうした差料を得られるかどうかは、その者の腕前にも寄りますが、そもそもその素材を持つ鬼や妖と出会えるかどうかは運でも有ります」
ああ成程な、そうした運を授けて貰える様にお参りする訳か。
でも鍛冶の神様に開運を願うのは、何か領分が違う様な気がするんだが良いのだろうか?
「鍛冶神たる天目院様は、それまで困難とされていた様々な希少な素材の加工方法を編み出した事で昇神なされた……と言われて居ります。志七郎様の纏う鬼亀の甲羅も、彼の神が居らねば作る事は出来ぬ物、その御礼参りと言うのも悪くは無いのでは?」
そっちか!? でも、うん……そう言う意味なら確かにお参りする価値は有るのかも知れない。
今後もそうした特殊加工素材とでも言う様な物を手に入れて、ソレで装備を作る事は有るだろう。
そしてそれらの素材を加工出来る者は、多くの場合あの山で修行した者か、更にその弟子筋と言う事に成る。
その大親分とでも言うべき神様にへのお参りは、今後の事を考えれば出来る時にしておくべき事だろう。
と、言うか大叔父貴が態々提案して来たって事は、恐らくは御祖父様の差し金で、ソレに依って増える旅費に付いても織り込み済みなのは想像に難く無い。
……御祖父様の指示で遠回りするんだから、その旅費は俺の小遣いで出せってんじゃぁ無くて、藩か幕府の財政から出る筈だよな。
俺は前世の頃から、出張なんかでもどうせ経費で落ちるから、と一寸良いホテルに泊まる……なんて事はした事は無い。
警察官の使う経費は、元を辿れば全て国民の皆様が支払った税金なのだ。
その血と汗と涙の結晶とも言える血税は、一円足りとも無駄にしては行けない。
先祖代々公務員を生業として来た一族だった前世の我が家では、そうして得られた金なのだから無駄遣いは絶対にしてはいけない……と小さな頃から良く言われた物だ。
家族とは余り上手く行っていたとは言い難いが、そうした子供の頃の躾と言う奴は、思いの外身に成っていたらしい。
猪山藩の財政にせよ幕府の財政にせよ、その大本は民が納める税なのだから無駄遣いをするべきでは無いとは思うが……この寄り道は無駄な事では無いのだろう。
最悪使い過ぎで怒られても、戦場で一寸鬼切りでもして稼いで返せば良いだけの事だしな。
とは言っても、はっちゃけて高級旅館に泊まる、なんてな事ぁ性分的に出来ないんだけどね……『三つ子の魂百までも』とはよく言った物だ。
「ぴちゅん? ぴっぴかちゅん(あの山に行くの? 凄く居心地良さそう)」
「うぉん(ねー)」
そう言う訳で、目的地を変更し寄り道をする事にしたんだが、どうやら未だ大分距離の有るこの時点でも、火の属性を持つヒヨコと紅牙には、其処に秘められているであろう火の力が感じられるらしい。
「御鏡と翡翠は大丈夫か? 二人がそう言うって事は、火属性の土地だが辛いとかキツいとか有ったら直ぐに言うんだぞ?」
この世界の鬼や妖怪、そして霊獣達……総称して『魔物』と言ってしまうが、魔物は『火の属性だから水属性に弱い』と言った属性に依る法則性は無いに等しい。
水辺に住む魔物には『雷』属性が通り易いとか、石巨人の様な物質系の魔物には『岩』属性が良く効く、と言った別の法則性は有るのだが……同じ水辺の魔物でも『石蝦蟇』は石属性だし『牙洲 蝦蟇』は毒属性だ。
その何方にも雷属性の魔法はよく効くらしいので、魔物の弱点と言うのは、その者が身に秘めた属性よりも、生活環境や肉体的な構造に依存する物……と言う事なのだろう。
けれども当然の様に例外と言う奴は居る物で、同じ水辺に住む蝦蟇系の妖怪でも電鬼 蝦蟇 には雷属性は効かないそうなので、詳しく調べず決め打ちは絶対に駄目なのだと、お花さんの授業で散々言われた覚えが有った。
……火元国には居るかどうかは解らないが、特定の属性で攻撃すると逆に強化されたり、吸収し回復したり、反射してきたりする様な魔物も世界には居るのだ。
そうした物に不用意な攻撃を仕掛けて痛い目に合うだけで済めば運の良い方で、下手をせずとも命に関わる自体も有り得る。
雑魚の群れだと思って範囲魔法で一気に薙ぎ払おうとしたら、中に反射持ちが混ざって居て、魔法使い達の方が逆に危機に陥った……なんて話は外つ国の冒険者達の間では割と良くある話らしい。
四属性全てを秘めた全ての複合属性を扱う事のできる『黒の霊獣』である四煌戌が、どの属性に弱いのか……なんて事は検証すらした事が無いので、事ある毎に彼等の体調に変化が無いか観察する様にしては居たが、聞き耳頭巾で直接聞けるならその方が早い。
「くぅん、くーん(多分、大丈夫)」
「ふぁあふ、ぅおん(平気、平気)」
御鏡は兎も角、翡翠の物言いは何処と無く不安を感じさせるが……兎角、俺達は神の住む山へと進路を変更するのだった。




