五百八十三 志七郎、兄の下半身を心配し蟹食らう事
無事、立嶋家の居城である紅紫苑丘城への訪問を終え、幾つかの土産物を渡された俺は武士では無い為別室で待たされていた大叔父貴と合流し再び河中嶋の街へと出る。
どうやら家臣達の分も含めた大量の豚饅は、十分な効果を示していたらしく、城内ですれ違っただけの者達ですらも、俺達に対して本気の笑みを浮かべて『おおきにな』とか『また味様』と、身内として受け入れてくれたと思える感じの声を掛けてくれた。
立嶋様の言って居た通り、江戸に上がる事の有る武士階級の者達は、仁一郎兄上と千代女義姉上の縁談が先延ばしに成っている事について、俺や猪山藩側が思っている程悪感情は無い様にも見える。
此れで仁一郎兄上の色事断ちが建前程度の物で、吉原やら岡場所やらに出入りしていた……なんて事が有れば、河中嶋藩側も舐められたと感じる事も有るかも知れないが、仁一郎兄上が吉原に踏み込んだのはあの妖刀狩りの一件の時だけだ。
人の口に戸は立てられぬ……と言う諺の通り、幾らお忍び頭巾で顔を隠して出掛けて行ったとしても、致す時にはそれを脱ぐ事に成るのだから、そうした遊びに兄上が興じれば、ソレが絶対にバレないと言う事は無いだろう。
とは言え、前世の世界でも性の不一致は、立派な離婚事由に成る位には大切な物で、女性には結婚までは貞操を守る事が求められるが、男性には逆に初夜を無事乗り切る為にも、最低限度の経験を積んで置くのが暗黙の了解と成っている。
ある程度銭を持っている家の子ならば、吉原……とまでは言わずともそこそこ良い銭を払ってでも、岡場所辺りで人気の遊女に手解きをして貰うのが普通で、裕福とは言い難い家の子ならば、家臣や親戚の後家さん辺りに筆卸を頼む物なのだと言う。
仁一郎兄上はその何方も未だ経験していない童貞だと言うのは、家族も家臣達も中間の者達も知っている事実であり、下手をすれば江戸に知らぬ者は居ないとすら言える事だったりする。
個人的に割と恐れているのは、経験値零で夜戦に突入し本懐を遂げる前に敢え無く撃沈……と言う事態だ。
と、そんな事を考えてしまうのは、高校の頃の同級生の一人が、そう言う事を一切経験せず結婚し、新婚旅行でいざ初夜を! と言う時に失敗し、結果……成田離婚と相成った、そんな実例を知っているからである。
父上や御祖父様辺りがその辺の事を全く考えていないと言う事は無いだろう。
例えば優駿制覇の祝勝会と称して、吉原で太夫や格子とまでは言わずとも、散茶と呼ばれる高級遊女に手解きを頼むとか、その程度の事はするだろう。
けれどもソレはソレで入れ込む様な事に成って千代女義姉上を蔑ろにする様な事に成る……と言うのも困る。
素人童貞が初めて素人女性を相手にした時に、玄人女性に奉仕される事に慣れ過ぎて、相手の女性に『下手糞』とか『気持ち良くない』なんて無神経な言葉を投げつけて、刃傷沙汰に成りかけた……なんて事件の現場に急行した経験も有ったりするのだ。
……まぁ、仁一郎兄上も真性童貞の三十五歳だった俺に下の心配なんてされたくは無いだろうがな。
そんな事を考えながら、日が落ちかけて尚活発な商いの声が響き渡る河中嶋の街を、俺と大叔父貴は土産を運んでくれている立嶋家の下男達と共に一路旅籠を目指すのだった。
旅籠に帰った俺達に出された夕食は、蟹飯に蟹しゃぶ、蟹の足の天麩羅に刺し身……と、大川の河口付近で取れたと言う蟹をふんだんに使った料理の数々だった。
俺の方には無いが、大叔父貴のお膳には甲羅と蟹味噌、それから燗酒と七輪が添えられている辺り甲羅酒で呑めと言う事なのだろう。
蟹自体は前世にも何度も食べた事は有るが、残念ながら甲羅酒は呑んだ経験無いんだよなー。
美味いらしいと言うのは割と良く聞いたし興味は有るが……今の幼い身体で酒を飲むのは流石に拙い。
前世には酒は付き合い程度で、好んで呑んでいた訳では無いのだが、どうも此方の身体は仁一郎兄上程では無いにせよ酒に興味津々らしい。
取り敢えず、大叔父貴が呑んで居る姿からは目を逸らし、自分の膳に並んだ料理に箸を付ける。
解された蟹の身がたっぷりと入った蟹御飯は、蟹の出汁と身の甘みがこれでもかと言わんばかりに飯にも染み込んでいて、他のおかず無しで此れだけでも腹一杯に成るまで掻っ込みたく成る様な味だ。
それでも無理やり飯を置き、次に手を伸ばしたのはパリッと揚がった天麩羅である。
所謂爪の部分だけは衣に覆われて居らず、殻を剥がした身の部分だけが揚げられてる奴だ。
爪の部分を摘み上げ、一寸行儀が悪いとは思いつつも口を上に向けてパクっと一口……ヤバい美味い! 此れに匹敵する格の蟹を向こうで食おうと思ったら、割と良い値段のする蟹料理専門店でも行かないと無理だぞ?
衣はサクサクパリパリ、中の身は半熟とでも言うべきか、火の通った部分と生の部分、それぞれの甘みと旨味がきっちりと閉じ込められている。
さて、お次は……蟹しゃぶも気になるが、やっぱり先ずは刺し身だな。
先程お膳を運んできた中居さんが、態々『此方が刺し身用で此方が蟹しゃぶ用ですからね』と分けて盛られている物を説明して行ったのは、鮮度とか寄生虫とか……そうした危険性か、若しくはその食べ方に合う種類とか、兎角何か違うのだろう。
前世だと牛のレバ刺しは好物の一つだったんだが、どっかの馬鹿な店が適当な調理で食中毒を量産しやがった所為で、優良店ですら一律禁止に成ったなんて事が有った。
その際に法規制の抜け道的に豚レバーの刺し身を出すなんて暴挙をブチかました店が有ったのを俺は忘れていない。
豚を食う時には良く火を通せ、なんてのは常識中の常識だと思ったのだが、そんな事すら知らないのか、それとも知っていても『店が出してるんだから大丈夫』と思考停止してたのか食中毒が続出したなんて事も有った。
向こうの日本も、此方の火元国も、火を通していない生物を食べると言う文化を持つが、ソレは世界的に見ても極めて稀な物だと聞いた覚えがある。
色々連々と語ったが、要は信用出来る見世で、見世が指定した食べ方を守れという事だ。
なので、刺し身用の方を一本摘み上げて口へと運ぶ……甘!? 何此れ!? 砂糖のガツンとした甘さとも、脂の甘みとも違う、生の蟹の身の甘さが口いっぱいに広がった。
マジで語彙力が落ちる位に美味い! 人は本気で美味い物を食べた時、言葉を失う物らしい。
てか、この旅でこうした体験をするのは何回目だろうか?
次は蟹しゃぶ用の奴を一本取り上げて、湯だった鍋の中へと垂らししゃぶしゃぶと揺する。
十分に火が通った頃合いを見計らって引き上げて、軽く息を吹きかけ冷ましてから、あーん……蟹の甘みに出汁の旨味が上乗せされて、味が天元突破してるぞ!?
ヤバい、止まらない……次は次は何を食べるべきか!? いや此処は先ず蟹飯に戻って、口の中を再起動するべきか?
「むほほ……こりゃぁ美味い。此処の飯が美味いと言う話は聞いておったが、真逆此処までとは、昨夜のうどんすきも良かったが、今宵の蟹はまた格別だのぅ」
天麩羅を食い、甲羅酒をずずっと音を立てながら啜り、大叔父貴が普段の忍者らしい冷静な表情を崩しそんな事を呟いた。
お? 蟹に目を取られて気が付かなかったが、一寸だけだが漬物もお膳に乗っている。
多分、此れで口の中を再起動すれば、また新鮮な気持ちで蟹を味わえるんだろう。
甘酸っぱい大根の漬物を一切れ齧り、口の中をさっぱりとさせた俺は、次はどれを食べようかと再び迷うのだった。




