五百八十二 志七郎、手土産を持参し病弱を知る事
蒸したての湯気が上がるソレを一口頬張れば溢れ出す、脂と野菜の甘みと肉の旨味の塊と言わんばかりの肉汁。
口の中を火傷しかけるが、はふはふと息を吸い込む事で無理やり冷ます。
目の前にはよく冷やされた烏龍茶が有るのだが、今ソレを呑んでしまうと折角の味が洗い流されてしまうので自重したのだ。
どうやら目の前に座る恰幅の良い、武士と言うよりは商人だと言われた方が、余程しっくり来る……そんな人物も、俺と同じだった様で茶碗に手を伸ばす事無くはふはふとやっている。
「いやー、流石は猪山の鬼斬童子はん、銭の使い方ゆうもんをよう知っとるの。真逆蓬莱軒の豚饅を家臣や家人の分まで含めて六百個も手土産に持ってくるんやから……」
お互い丸っと一つの豚饅を腹に収め、その余韻を少しの間楽しんだ後、やっと烏龍茶を口にし一息吐いてから河中嶋藩主、立嶋虎吉様がそう言った。
「そやけどな……他所にこんなんしたらアカンで? 蓬莱軒の豚饅は一つ六文や、値段でしか物の価値を計れへん阿呆なら、此れ持って来ただけで無礼者っ! てな話やからなー」
実際に掛かったのは品代だけでなく、六百個もの豚饅を運んで貰う為に雇った人足代も入るので、総合計としては子供が出す様な金額を軽く超えて居る。
けれども立嶋様曰く、単純に品物自体が安いと言う理由で、自分が軽く見られたと判断する武士は決して少なく無いのだそうだ。
「世間一般じゃぁ河中嶋言うたら、セコいやら吝嗇やら散々言われるけどな、わて等は銭を稼ぐ辛さもよー知っとるし、銭の使い方ちゅーんをよう考えとる、そやから人様の財布からでも無駄な銭が使われるんは、身を切る程に辛いねん」
世の中『吝嗇』と呼ばれる者達は、身銭を切る事は厭うが、他人が自分の為に大枚を叩く事は気にしない……どころか大喜びする物だ。
けれども、河中嶋藩立嶋家はそんじょそこらの吝嗇では無い、他人が自分の為に使うとしても、その銭が無駄な使われ方だと思えば、その相手を見限る理由にするのだと言う。
「そやけど鬼斬童子はん……いや、実質身内なんやから坊呼ばせて貰うで? 坊の銭の使い方は無駄やない。安い物や言うたかて、家臣家人の分まできっちり用意しとるし、ソレが美味い物なら気ぃ悪ぅする方が阿呆ゆうもんや」
河中嶋藩は武勇では無く商いと銭の力で領地を統治する、ある意味で千田院藩に近しい形の藩と言えるが、大きく違うのはその立地と戦力の差だろう。
「まぁ、武士は見栄張ってナンボの商売やさかい、舐められた思うたらどんな事をしてでも思い知らせなアカンのも事実なんやけどなー。そやけど此れ坊が自分で稼いだ小遣い銭から出しとるんやろ? ほなら十分な手土産やで」
千田院が鬼や妖怪の害に備えて、氣も纏えぬ兵達の為に大量の銃器を用意しているのに対して、河中嶋は大川の中洲と言う立地上、一部の水棲妖怪を除けば襲われる心配が殆ど無いのだ。
「わてが自分で一両も稼いだんは、何時の頃やったかなー。流石のわてでも小鬼程度にゃぁ負けへん程度の武は有ったさかい種銭は鬼切りで稼いで、ソレで仕入れた魚を干物にして山奥の村まで売りに行った時やったかいな?」
しかも京の都に最も近い大湊を抱え、大川を遡る事で京の都への物資供給の拠点と成る為、陰陽寮の術者達が張る結界も他所より一際強固な物と成っている。
故に河中嶋藩の武士は武張った事をせずとも生きて行けてしまう。
とは言え、彼の言う通り武士は舐められたら終わりだ。
天下泰平と言われる今の火元国でも、立身出世の為に主君に対して下剋上を狙ったり、他藩を併呑しようと目論む者が全く居ない訳では無い。
下に舐められれば取って代わろうとする者が現れ、他所に舐められれば利の上がる土地ならば奪われる事に成る。
余程酷い戦にでも成らなければ、藩と藩の争いに幕府は口を挟む事は無い。
普通に考えれば、弱い癖に稼ぎ易い河中嶋藩を狙い食い散らかそうと言う輩が何時出ても奇怪しくは無いのだが……武では無く算盤を使い上手く立ち回る事で生き残り続けている、ある意味御祖父様以上の知略派の一族と言えるかも知れない。
「……そないにしても坊は大人しいなぁ。なんや、わてばっかペラペラ喋くっとたら腹減ってきてもうたわ。どないや坊も饂飩でも食うかいな?」
……そう言いながら出っ張った腹を擦るその姿は、只の話し好きで大食らいのオッサンにしか見えないんだけどなー。
「んで坊の兄ちゃん、今年は優駿取れそうなんか? わてもこんな事を五月蝿く言いたか無いんやけどな、いい加減千代女との祝言を上げて貰わへんと、立嶋家が舐められてる言い出す者が何時出てきても奇怪しくあらへんのや」
具の入って無い饂飩……江戸だと『かけ饂飩』で此方だと『素饂飩』と呼ばれる物に、刻み葱と揚げ玉をたっぷりと入れ、ソレを食いながら立嶋様がそんな事を問いかけてきた。
「いや俺、馬は詳しく無いんですよ。俺自身は神様から授かった霊獣を騎獣にしてますし……」
仁一郎兄上が優駿制覇まで色事を断つと言う願掛けをしているのは、江戸では知らない者が殆ど居ないだろう、と言い切れる程には有名な話だ。
当然、立嶋様もソレは把握しているし、その家臣達もその事は理解している。
しかし江戸に上がる事の無い国許の民達にとっては、自分達の所の姫君が何かしらの理由を付けて婚姻を先延ばしにされている、つまり自分達の領主は猪山如き小藩にすら舐められているのだ……と、短絡的に考える者が出てきても奇怪しくは無いのだと言う。
「ほんまになー、面倒っちゅうか、仕方ないっちゅうか……。流石にあんだけ有名に成ってもうた話を反故にして祝言上げさせりゃ、今度は江戸で立嶋も猪川も舐められる事に成ってまうしなぁ」
うん、有名な話に成っているからこそ、兄上が優駿を取らずに結婚する様な事をすれば、兄上が意志薄弱だと罵られたり、立嶋の娘は夫を立てる事も出来ないと蔑まれたり……と、猪山藩の将来に暗い影を落とす事にも成り兼ねない。
「此れなら河中嶋藩でも悪五郎はんが大暴れしてくれてりゃぁ、猪山の怖さを皆に知らしめる事も出来るんやけどなー。残念ながらわてん所は『悪五郎、被害者の会』には入ってへんのや」
……『悪五郎、被害者の会』江戸から此方へ向かう道中、何度かその名が記載された大看板を見かけたが、その大半は大川の東側、猪山藩近辺の藩の大名やその家臣達で構成されているのだそうだ。
一体何をやらかせば、彼処まで大々的に喧伝される様な事に成るのだろうか?
いや……御祖父様の事だから何かの理由で揉めた時に、まともに勝負せず嵌め倒す様な事を散々やったんだろう。
「ほんまになー、わても悪五郎はん見習って若い頃に氣功の修練に励んどったら良かったわー。聞いた話やけど悪五郎はんの若い頃は、猪山の者としては有りえへん程病弱やったって話やないか」
えっ!? なにそれ、聞いた事無い。
「お? 知らんかったん? わてももう亡うなってもうた親父に聞いた事が有るだけやけど、悪五郎はんも若い頃は風邪を引いて寝込んだ事が有るらしいで? 猪山の者は武士から百姓に至るまで風邪の一つも引かんってのは有名な話なんやで?」
……ああ、うん。何とかは風邪引かないって言うしな、脳筋族な猪山藩は確かに風邪なんか引きそうに無い。
そ―言えば俺が此方の世界に生まれ変わってからも、信三郎兄上や睦姉上辺りの幼少組が熱を出して寝込んだ、なんて事はとんと記憶に無い。
とは言え、俺は前に一度風邪で寝込んだ事が有るぞ? つまり俺も猪山基準で言えば病弱って事に成るんだろうか?
風邪を引いただけで、そう言われるってのは一寸嫌だなぁ……そう思いながら、俺は残った饂飩の出汁を啜るのだった。




