五百八十一 『無題』
「何ぃ!? 猪山の小倅が帝に拝謁賜っただとぉ!?」
夜分遅い時間故余り大きな声を上げるべきでは無い、そんな事は解っているのだが、思わずそんな叫び声が口を衝いて出る。
「は、とはいえ鬼斬童子が殿上人の位を与えられ御所に上がったと言う様な話では無く、帝がお忍びで祭り見物へと行った際、とある公家の邸宅で顔を合わせたと言うだけの話の様ですが……」
自身でも自覚が無かったが、余程酷い剣幕で声を上げてしまったのだろう、報告に来た忍は慌てた様子で、余を宥めようとそんな言葉を紡ぐ。
おのれ……京の都と言う箱庭で政ごっこに勤しむ公家如きが……
余が何度謁見を申し込んでも、あれこれと理由を付けて取次すらせぬと言うのに、幾ら安倍家を挟んで縁戚とは言え高々一万石の小藩の小倅には会う手筈を整えると言うのか。
此れは我が禿河幕府が舐められていると言う事では無かろうか?
他の候補達に先んじて帝に謁見し誼を通づる事が出来れば、次期将軍の座は余の物と成るのは間違いない。
故に決して少なくない賂を使っていると言うのに、公家共は一向に首を縦に振ろうとはしないのだ。
「そもそも御祖父様の治世は、ソレまでに比べれば確かに安定していると言えるかも知れぬ……だが、甘すぎる。幾ら自分が幼い頃に世話に成った家だとは言っても、猪山への贔屓が過ぎる」
猪山藩猪川家は一万石と言う大名としては最下級の石高しか持たぬ癖に、江戸に構えた家屋敷は大大名のソレと遜色無い物である。
それを維持管理する費用を考えれば、猪山は国許に余程酷い苛政を強いているに違いない。
武勇に優れし猪山の……と謳われ、家臣達や藩主子弟ですら鬼切りやら何やらで阿漕に銭を稼いで居るのだ、『四公四民二義』等と言う表向きの税制は嘘っぱちで八公二民や九公一民位のエゲツないやり方でも不思議は無い。
彼の地には御祖父様も将軍と成る前に、何度か行った事が有るとは聞いている。
にも拘らず、そうした悪政を敷く大名を放置しているのは、領地は飽く迄も大名の物であり、幕府に出来るのは一揆が起こったりして、実際に周辺への害が及ばなければ動けないからだ。
武勇を誇る猪山の侍は確かに強い、強いからこそ民草が反発する事すら出来ぬ程に強固な圧政が出来るのだろう。
悪政と言えば、余が預けられている出来杉家の領地である木手藩の隣、富田藩の惨状は目も当てられぬ状況だ。
富田の武士達が力尽くで抑え込んでいる為、一揆には至らぬ物の、女房や娘を売り払いそれでも税を支払いきれず、田畑を捨てて木手へと逃げる……そんな者が居るのだと言う話は、木手藩江戸屋敷にも聞こえてくる。
木手藩や風間藩、浅雀藩に龍尾藩の様に上手く国許を統治し、殖産興業に励む『良い』大名が居ない訳では無い。
が、大半は只々領地から上がる税収を、新たな産業を産む為の投資に回すでも無く、新規開墾で石高を上げるでも無く、只々見栄を張る為の贅沢に消えていく。
今のこの状況は、きっと藩幕政治の限界なのだ。
余が将軍と成った暁には、全ての大名から領地を取り上げ、幕府の中央集権を推し進める。
無論そうした時、全国各地津々浦々まで幕府の目が届くとは思わない、ならば代官に相応しい人格と信念と能力を持った者達を各地に派遣し、迅速で正しい政を行える体制を作るだけの事。
今の体制下では、藩に依っては税収の少ない田舎に有る村が鬼や妖怪に襲われても、防衛の為に人員を送ったりせず、見捨てる様な真似をする事すら有ると言う。
防衛の為に送った武士や兵として徴収した農民に出る被害と、その村から取れる税、それらを天秤に掛け前者が重いと判断すれば、大名は簡単に民草を切り捨てる。
圧政や苛政をせぬ比較的『まとも』な思考回路を持つ大名ですら、時にはそんな判断を下すのだ。
そうした時に泣くのは何時でも民草だ、武士は民を守る為に刀を取った者達の末裔である、そんな武士が民を泣かす様な真似をしている現状は、一部の武士が大名等と呼ばれ驕り高ぶったが故だろう。
一部の腐った大名のやらかしが、巡り巡って幕府の権威を傷付けて居るのだ。
つい先日も東町奉行所に『御政事売切申候』等と言う幕府を舐め腐った文言を記した紙が張り出される騒動が有った。
しかもその張り紙には『倒幕派』等と言う、火元国を再び乱世に突き落とす事を目的として居るとしか思えぬ団体名すら書かれていたのだ。
「猪山の小倅の件は置いておくとして……どうだその後、倒幕派とやらの全容は掴めたのか? お前自身が掴めずとも御庭番衆筆頭、生天目一族の其方ならば、御祖父様の元に報告される程度の情報には触れるのだろう? のう……八斎?」
御祖父様の耳目と成って世情を報告する役目を負う忍の集団『御庭番衆』……今余の目の前に居る八斎と言う男は、その筆頭である生天目飯蔵の従兄に当たる男だ。
本来であれば生天目一族の頭領としてその立場に座るのはこの男だった筈なのだが、あの忌々しい悪五郎の爺が暗躍した結果、飯蔵に地位を奪われたのだと言う。
此奴が余に協力するのは、余が将軍と成れば飯蔵を廃して、八斎を新たな御庭番衆筆頭に任ずると言う確約をしているのと、情報の横流しの見返りとして支払って居る決して少なくは無い報酬の為だ。
とは言え、中藩に過ぎない木手藩出来杉家預かりの余には、然程自由に出来る銭は無い……本来ならば。
金蔓……と言えば聞こえは悪いが、又従兄の禿河貞興と言う男は、禿河の血を引く者としては珍しく色事よりも銭稼ぎを好み、鬼切りで稼いだ銭を様々な商家に投資し莫大な利益を得て、その一部を余に流してくれているのだ。
余が将軍に成れば、貞興にも相応の礼が必要に成るだろう……と言うか、奴にすれば恐らくはソレを期待して余にも投資をしているつもりなのだろう。
まぁ余が将軍と成るのは然程難しい話では無い、八斎に調べさせただけでも、他の候補と言うべき者達は皆、下半身が緩すぎる。
落し胤の影も形も無いと断言出来る者は、未だ幼い一部の者達だけで、色を知る年頃以上の者達は、誰も彼もが身を慎むと言う事を知らない猿の如く、胤をばら撒いて居るのだ。
しかも笑えぬ話、市井の者で氣功使いが出れば、何代か前の先祖に禿河の血でも入ってるんじゃぁ無いのか? 等と言う冗談が罷り通る上にソレを無礼と叩き潰す事すら出来ぬ程なのだ……実際調べれば調べる程に、殊下半身の事情に於いて禿河の血を引く者は何処に居ても奇怪しく無いと言い切れる。
とは言え、そうした落し子の存在は、将軍と成った後に跡目争いの火種にしかならぬので、将軍候補となる者は軽々しく隠し子を作る様な真似をしては成らぬのである。
なにせ御祖父様本人が、ソレを突いて他の候補を皆蹴落とし、将軍の座を射止めたのだから、同じ事を余がした所で誰に憚る事も無いだろう。
比較的色事に興味の薄い貞興ですら、細君の他にもう二人妾が居るのだから、一夜の関係を持っただけの女子ならば、両の手の指を超える程度には居る筈だ。
対して余は、出来杉家家臣の後家に筆卸として一度相手をして貰った以外には、今の所関係を持った女子は居ない。
一応、出来杉家の三女と許嫁と言う関係では有るが、彼女は未だそう言う行為をする様な歳では無い。
身を慎むと言う事を知り、銭を岡場所やら夜鷹やらの遊行に費やす様な事もせず、文武に打ち込み、政を憂える余こそが次期将軍に相応しいのだ。
余が将軍と成れば、後世ではきっと『禿河幕府中興の祖』として語り継がれる事だろう。
「……誠に申し訳有りませぬ。倒幕派の動きは未だ御庭番衆でも掴めて居ない様でして、厳十一忍の連中とも協力し情報を集める様申し付けられて居りまする」
御祖父様は老齢だ、最早何時最悪の事態が起こっても全く不思議は無い。
そんな時に倒幕派等と言う愚か者達が暴れる様な事があれば、恐らく火元国は荒れる……
余の将軍としての最初の仕事は彼の者達と戦うの事に成るだろう。
「何か解れば直ぐに知らせよ、余が……この禿河増輝が次期将軍として、火元国を正しく導いてくれようぞ!」
その為ならば汚泥に塗れる事すら厭わぬ、目の前の八斎の目に宿る憎しみの色すらも、火元国の未来の為に利用しつくしてくれるわ!




