五百七十九 志七郎、珈琲を嗜み夕餉を食らう事
ふんわりとした柔らかな歯触りと、舌の上で滑らかに溶けていく食感、甘みと酸味が高次元で調和し奏でる味の和音……。
此れは前世から俺の好物の一つで時折買って食べて居たが、此処まで高水準の品物は割と良いお値段を支払わなければ食べられなかった筈の品だ。
「にしても六郎……お前さん欲が無いな、俺が奢るって言ってるんだから、もっと高い見世に連れて行けば良かったのに」
しかし支払ったのはたったの二十文、しかもそれが一人分の値段という訳では無く、俺と大叔父貴それから六郎の三人で分け合うのに十分な大きさなのである。
ソレに合わせるのは、やはり前世には殆ど毎日飲んでいた珈琲……うん、懐かしいこの香り、欲を言えばもう少し酸味の効いた調合が好みだが、向こうの世界程容易に様々な品種を取り揃える事等出来ないのだから仕方が無い。
「へへ、あしみたいな仲介屋は正直な商売をしなけりゃあっという間に干上がる物なんですわ。志七郎様の御用命が美味い物ってんなら、此処に連れて来なけりゃ、あしは自分を正直者だなんて口が裂けても言えなくなりまさぁ」
俺の言葉に自分の珈琲を啜りながら六郎はそう答える。
ちなみに珈琲は一杯十六文で、計六八文の大部分は珈琲代だ。
とは言え、まともな喫茶店で三人の飲食代と考えるのであれば、割とお安いと言えるのでは無いだろうか?
「ふむ、拙者は甘い物はそう好まぬのだが、此れは中々悪く無いの。この珈琲の苦味と打ち消し合って丁度良い、此れならば拙者もきっちり取り分を主張すれば良かったかも知れん……」
俺達が食べているのは焼乾酪蛋糕、北方大陸から来たと言う白い髭を蓄えた山人の亭主が焼いている逸品だ。
直径四寸程のソレを切り分けてそれぞれの取皿で食べていたのだが、仁一郎兄上程では無いにせよ、酒好きで甘い物が好きではないと言う大叔父貴には、大分小さ目に切り、残りを俺と六郎で山分けした。
だが実際に食べて見て、その判断が失敗だったと大叔父貴は悔やんでるという訳だ。
最初から切り分けた分量で売ってくれれば良いのだが、残念ながらこの焼乾酪蛋糕は一ホール単位での販売で、もう一個注文してしまうと今度は流石に多すぎる。
「大叔父貴、食べるなら俺の分から少し切り分けますが?」
大き目に切った一部に肉叉を入れただけなので、反対側から切り取れば綺麗な状態で分ける事はまだ可能だ。
「否々、流石に子供から菓子を取り上げる様な真似は出来ぬわな。かと言って今回の客である六郎から貰うのも筋違い、最初から取り分を主張せなんだ拙者の誤りよ」
苦笑いを浮かべ、そう言いながら大叔父貴は何も入れていない黒珈琲を美味そうに啜った。
どうやら珈琲自体は火元国でも西側を中心に割と飲まれている物らしく、ソレ自体に驚いた様子は無い。
「珈琲が好きなら、江戸へと戻る道中には浅雀に寄り道するのも良いかも知れぬな。彼処には良い珈琲を出す良い見世が幾つも有り、特に彼処の喫茶店は朝飯が名物だと言う見世が多いからな」
浅雀藩か……往路では野火の叔父に世話になった事だし、此処で何か良さげな土産を仕入れて帰りに寄っていくのは有りかも知れない。
と言うか、京の都を出る前に奇天烈百貨店で酒樽の一つでも用意して来れば良かったな。
「なぁ、六郎。此処で土産物に丁度良い日持ちする菓子かなんか無いか?」
干菓子や焼菓子、揚菓子の類なら日持ちする物も有るだろう……あ!? そうだ京の都で生じゃ無い方の八ツ橋も買ってくるべきだった!?
うわぁ……やらかしたなぁ。
「んー、日持ちするってな品だったら、ホーホケキョ玉かなぁ? 河中嶋で茶菓子と言えば此れってな位には有名な菓子ですわ」
詳しく聞けば、餅米と小麦粉を混ぜた物を揚げた菓子で、かりんとうに親しい物らしい。
うん……取り敢えず河中嶋を出立する前には忘れず買って行くとしよう。
そう心のメモ帳にしっかりと書き込んで、俺は再び焼乾酪蛋糕を齧り珈琲を流し込むのだった。
喫茶店で六郎と別れた俺達はもう暫く露店を見て回ったが、然したる出物も見つからず、部屋を取ってあった旅籠へと帰ってきた。
「さて……明日は一日予定が空いてしまったが、志七郎様は何か此処でやりたい事等有りますかな?」
其処で夕餉の席で大叔父貴がそう問いかけてきた。
ちなみに今日の夕食は、大ぶりの土鍋に饂飩と鶏肉、海老や焼き穴子、蛤に飛竜頭それから大量の野菜が煮込まれた『うどんすき』と言う物らしい。
此方の世界でもこうして一つの鍋を複数人で突付く様な食べ方をする事は有るが、相手が家族だとしても具材を取るのに自分の箸を使う事は無く、専用の取り箸とお玉が添えられているのが普通である。
鍋と言う物を割と神聖視している部分が有るらしく『直箸で鍋を汚すべからず』と散々母上に言い聞かされた。
「特に何か考えが有る訳じゃぁ無いですが、此処に来て立嶋のお家に挨拶も無し……って訳には行かないんじゃぁ無いでしょうか? 仁一郎兄上と千代女義姉上の祝言は未だですが、実質は身内な訳ですし……」
大叔父貴が取り分けて来れた小皿を受け取りながら、俺は少し考えてからそう答える。
俺の記憶が確かなら、立嶋家の御殿様も今年は国許に帰っている筈なので、挨拶に行けば無碍にされる事は無いだろう。
ただ……問題は、兄上の都合で千代女義姉上が行き遅れと呼ばれる可能性が割と高いこの状況で、先方に誠意を示せるだけの土産物が無いと言う事だ。
一応、河中嶋藩の江戸屋敷には兄上が時節毎にそれ相応の品を手土産に詫びと挨拶には行っているので、多分御殿様本人は然程気にしていない……とは思うが、家臣達皆がそうとは限らない。
「そう言う事でしたら、食事が終わったら拙者がひとっ走り先触れに行ってきましょう。手土産の方も明日伺う前に、消え物でも買って行けば角は立ちますまい。確か手土産で喜ばれると言う豚饅を扱う見世が有った筈ですな」
成程、地元で人気の食べ物なら確かに角の立たない手土産に成るな。
確かさっき食べた焼乾酪蛋糕もお持ち帰りが有ると張り紙が有ったし、合わせて持っていけば良いんじゃ無いだろうか?
一噌の事、六郎から聞いたホーホケキョ玉とやらも纏めて買っていくのも有りかも知れない。
そう考えて一寸安心したら、急に腹が減って来たのを感じ、取り分けられた皿の中に入っていた鶏肉を口に含むと、肉に染み込んだ出汁と脂の甘みがが口いっぱいに広がった。
ソレが消える前に饂飩を一啜りすれば、うん……美味い。
出汁の染みた饂飩は強いコシが有る物では無いが、どちらかといえば柔らか目に煮込まれた此れの方が好みかも知れない。
そうだな浅雀藩にも寄るなら、また味噌煮込み饂飩も食べたいな。
お?! 海老も美味いし飛竜頭も出汁が染み染みでヤバい。
京の都もこの河中嶋も、醤油を珍重する江戸と違い、出汁が料理の決め手と成っている事が多いが、此れはもしかしたらこの旅で一番出汁に手間暇も銭も掛かっているかも知れないな。
いや……流石にその辺は安倍の御殿で頂いた物の方が高級品なのは間違いないんだろうが、何というか……こう、此方の方が俺の舌に馴染むと言うか何というか……。
まぁ前世の世界じゃぁジャンクフードとか言われる様な物を好んで食べていた俺だ、基本的にチープな物が好みなんだろう。
此方に生まれ変わってからは睦姉上が作る格の高い食生活をして来たが、味の好みは魂に刻み込まれているのかも知れない。
そんな事を思いながら、俺は鍋に箸を伸ばそうとして……慌てて取り箸に持ち替えるのだった。




