五百七十六 志七郎、商談し値切りを決める事
「よう! い五郎の旦那! 客ぁ連れてきたぜ!」
六郎が俺達を案内した先は、『い』と一文字だけの幟を掲げた小さな露店だった。
恐らくは『い』と言うのが屋号で、其処を営む五郎だから『い五郎』と通称されているのだろう。
「おや、六郎さん、毎度どうも。いやー運が良かったですね、そろそろ腹が減ってきたんで見世仕舞いして何か食いに行こうと思っていた所ですよ」
着流しに羽織を纏った如何にも商人と言った装いでは有るが、身の丈六尺程の長身に、着物の上からでも解る細身ながらよく鍛えられたその身体は、どちらかと言えば町人階級の鬼切り者のソレにしか見えない。
その一寸した動きの中でも解る程に体軸の通った立ち振舞を見れば、猪山藩の若い衆とも良い勝負をするのでは無いかと思わせる。
「此奴は『い吾郎』ってな連雀商人でしてね、火元国中を彼方にふらふら、此方にふらふら旅して回っては、希少な素材を手に入れて来ては此処で売ってるんですわ」
「別に珍しい素材を探して旅をしている訳では無いですけどね、彼方には彼方の、此方には此方の美味い物が有るんで、ソレを食べ歩く為に出かけていったついでに、売れそうな物を仕入れて来るってだけですよ。あと初めてのお客さんに、い吾郎は止めて下さいな」
その言葉を信じるならば、商人としては珍しく商売っ気で動く人物では無く、食い気で動いている者と言う事に成るだろうか?
そんな事を言いながら、彼は大叔父貴では無く俺に向かって軽く一礼し、
「お初にお目に掛かります、私『仮名頭』の屋号で商いをさせて頂いております五郎と申します。この度は如何なる品を御所望で御座いましょうか?」
と、自己紹介の言葉を口にした。
成程『いろは』の『い』で『仮名頭』か……。
それにしても……今は俺も大叔父貴も袴に脚絆の所謂『旅装束』で、見た目だけで即座に身分を見分ける事が出来る様な物は身につけていない筈だ。
となれば大叔父貴の方を客と思うのが普通だろう。
にも拘らず、彼は迷う事無く俺に向かって頭を下げたのだ。
この男、やはりただの商人では無い様に思える。
「いやな、さっきあしが通り掛かった時、震々の臓物が有ったと思ったんだが、あれはまだ残ってるかい?」
しかし俺が何か応えるよりも早く、六郎がそんな言葉を口にした。
『震々』と言う妖怪は『江戸州鬼録』には載って居なかったが、前世に名前だけは聞いた覚えが有る……多分前世の世界でも比較的有名な妖怪なのだろう。
「震々の臓物とは……確かに出物だのう。江戸州には居らぬ妖怪でも有るし、値付け次第では買いかも知れませぬぞ。震々は幽霊系統の妖怪でしてな、その臓物から取れる膠を用いた防具は刃物に耐性を持つのです」
どうやら大叔父貴的にも当たりと言える品らしく、一寸驚いた風な声を出して俺に対して説明を始めてくれた。
実体を持たない幽霊系統の妖怪は、基本的に物理攻撃が効かず、術か大量の氣を叩き込む様な方法でしか倒せない。
しかも実体が無い物だから、倒した所で素材に成る様な物は手に入る訳が無く、余程周辺地域に害が出ているなんて事が無ければ、討伐される事自体が稀なのだと言う。
しかし何らかの理由で討伐された際、極めて稀な確率で素材と成る物が手に入る事が有るらしい。
実体を持たない妖怪が希少な素材を落とすと言う話は、京の都への道中でも『忤い煙草』が『煙水晶』と言う秘石を落とす……なんて事を聞いたが、どうやらソレと似たような例の様だ。
「ええ、まだ有りますよ。あれは中々手に入らない希少な品ですからね。一寸やそっとの値じゃぁ売りたく無いが、生物なんでさっさと売ってしまわないと駄目に成るってんで、まぁ割とどうするか悩んで居た所ですよ」
臓物と言うだけ有って傷みやすい物では有るが、膠にして防具に使ったり、薬種にして強力な熱冷ましの霊薬の材料にしたり、その他色々な用途で使う事が出来る為、加工してしまうと需要が限られてくる……そんな割と面倒な商材らしい。
生のままでは江戸に持ち帰る前に腐るのは間違いないが、此処で膠に加工して持ち帰るのであれば大丈夫だと、大叔父貴が太鼓判を押す。
「膠にしてしまって良いのでしたら、取引の有る職人さんに頼めば、明後日の昼までには渡せますよ。普通なら半月は頂く所なんですが、錬玉術とか言う外つ国の技で短い間に仕上げれるんだとか……」
何かを焦って居るかの様に、そわそわとしだした五郎の様子を訝しみながらも、錬玉術を用いる事でその手の時短が出来る事は知っているので其処は然程問題無いと言える、後は値段が折り合うかどうかだ。
錬玉術は未だ火元国に入って来たばかりの、北方大陸の最先端技術だ、そんな物が使える職人に支払う手間賃を考えれば、かなり割高に成る可能性も有る。
とは言え、流石に半月此処で足止めされると言うのは避けたいのもまた事実。
「素材の値付けに、職人の手間賃、口利き料は勉強するとして……締めて十両ってな所で如何でしょうかね?」
鬼切り手形に入っている銭を全て使い切ったとしても、帰りの旅費自体は猪川家や幕府から支給されるので問題は無い。
けれども、江戸に帰ってから防具を仕立てる費用まで考えると、出せるのは最大で十両までだが、ソレを馬鹿正直に言うのは交渉術としては下の下だろう。
「八両までは……何とか出せる。それ以上の値付けと成ると、申し訳ないが物別れだな」
値切るのはあまり得意では無いが、此処はそう言う場所だと割り切って、少々強気でそう言い切った。
「んー、もう一声……と言いたい所ですが仕方無い、ソレで手を打ちましょう。明後日の昼過ぎにまた此処に来て下さい。お足はその時に頂きますよ」
二割もの値切りに一切ゴネる事無く、即決でそう言い切った五郎はばたばたと慌てた様子で見世を畳み始めた。
「では私は一寸急用を思い立ちましたので、この辺で失礼します」
あっという間に全ての荷物を風呂敷に包んだかと思うと、そんな大荷物を物ともせずに足取りも軽く去っていく。
そういや現物も見ずに支払う値段を決めてしまったが大丈夫だろうか? いや、此処は紹介者である六郎と彼を信じた大叔父貴を信頼するとしよう。
「……彼奴は時々ああして行き成り見世閉めてどっか行っちまう事が有るんですが、受けた仕事は間違いなくやる奴なんで安心してもらって大丈夫ですぜ。んで、八両で本決まりって事ぁ、あしの仲介料は三分と二百文でさぁな」
一両(小判)=四分(銀貨)=十六朱(小粒銀)=四千文(文銭)それがこの火元国で一般的に流通している通貨と、その両替の割合である。
「いや向こうの提示額を値切った上での話だからな、一寸色を付けて三分と一朱払おう」
文銭は千文分を紐に通した物を一貫文と言ったりもするし、それ一本は常に持ち歩いては居るが、実は纏まった量の文銭を用意するのは割と面倒だったりする。
小判や銀貨を文銭に両替する時には、割と馬鹿に成らない手数料が取られるので、出来る事なら手持ちの中から簡単に支払える額面にしたかったのだ。
流石に何両もの小判を大量に持ち歩く様な真似もしていないが、一分銀や一朱銀なんかの銀貨は割と財布の中に入っているのである。
ちなみ両替商で手形から銭を引き出す際には手数料は取られない、アレは鬼切り奉行所が行っている公共サービスの類と言える物なので、そこに掛かる手間賃の類は全て幕府が出しているという訳だ。
「さて、必要な物を買う算段は付いたし、六郎にはもう一仕事してもらうかな? そろそろ小腹が減ってきたから、どっか美味い物が食える見世を紹介してくれ。手間賃は其処で軽く奢るってんでどうだ?」
晩飯にはまだ少し早いが、おやつを食うには丁度良い時分だろう。
そう判断した俺は、軽く笑みを浮かべながらそんな事を言い放つのだった。




