五百六十八『無題』
可能な限りそっと、卵を割らない様に右手で掴み上げる、罅一つ入れる事無く持ち上がったソレを、僅かばかり力を込めて銅製の鉢に叩き付け、殻が落ちぬ様に注意しながら片手で割る。
「うむ、繊細な動きは問題無いでござるな。とは言え、此処までは今までの物でも出来ていた事。此れが出来ぬ様では子を抱く事も出来ぬ故な」
北方大陸に着いた当初は、今までと同等か其れ以上に戦える、力強く頑強な腕を求めていた、がしかし……それでは産まれてくる我が子を抱く事は出来ぬと妻に指摘され、力の加減と繊細な動きを優先する方向に転換する事になる。
力強さと繊細さ、それぞれの方向に寄せた物ならば兎も角、両立させた物は優れた義肢師でも極めて難しいらしく、今まで作った其れ等は皆戦いの中で力を振り絞ると、長くは保たず壊れてしまった。
しかし使う素材を徐々に良い物へと変えて行く事で、細やかな力加減を維持しつつ、力を込めても自壊する事の無い、生身の腕にも遜色無い義腕へと強化する事が出来たのだ。
そして今回の物は、北方大陸で望み得る最高峰の素材を集め、普段頼んでいる義肢師だけで無く、名うての者達が其々の持ち得る最大限の技術を惜しみなく注ぎ込んだ、最高傑作と言えるだろう物になっている筈である。
ソレを確かめる為に、先ず繊細な力加減と細やかな動きを必要とする片手卵割りを試み、無事成功した所だ。
「次は此れを試して見てくれ、未だ氣は込めるなよ。先ずは純粋な筋力でどれだけの力が出せるのかの確認だ」
北方大陸でも中々お目にかかる事の出来ない、希少な妖怪の素材を集めた事で、ソレを弄りたいと多くの技術者が協力する事になった。
その中に一人が何かを紙に書き取りながら、鋏の様な物を渡して来る。
此れは拙者も此方に来てから時折使う様になった訓練具で、握り込む事で握力を鍛える『はんとくらいふぁ』と呼ばれている道具だ。
しかもそれは記載されている数字を見る限り、未だ生身の左腕でも全力を込めなければ閉じれず、何度も繰り返せば直ぐに握力を使い切るだろう程の物である。
今までの義腕では難しいだろうソレを義腕の右手に取り力を込めていく。
今までの物以上に指先にまで感覚の繋がった感じは造り物とは思えず、力の掛かり具合もまた生身だった頃と大差無い様に思える。
「うん、出力は問題無さそうだな。そのまま何度か開いて閉じてを繰り返して見てくれ、疲労で力が抜ける感覚がちゃんと有るかも確認しておきたい」
言われた通り、少し力を抜き再び握り込む、ソレを十回も繰り返すと力が入り切らず、造り物の腕の中に痛みと呼んで差し支えない物が感じられた。
「どうやら問題無さそうじゃのぅ。にしても当初話を持ち込まれた時には素材を集めるだけでも三年は掛かると思ったが、真逆一年も経たず完成まで辿り着けるとはのぅ」
うむ、今回使った素材を手に入れるのは、中々に骨が折れた。
拙者だけでは勝てなかっただろう相手も居る、薬太郎が作った術具や霊薬、面右衛門の身体を張った献身、其れ等が無ければ残された左腕どころか命すらも危うかったかも知れない。
いや……家臣であるその二人だけでは無い、この右腕を作るのに使われた十二匹の妖怪と相対する時には、此方に来てから幾度と無く共闘した組合の冒険者達が居た。
此方で借りて暮らしている屋敷程の大きさの巨大兎を相手取った時は、何人もの冒険者と協力し巻狩りの様な形で仕留め。
山中深くに隠れ住む半神虎を狙った時には、薬太郎の機転が無ければ追い詰める事は出来なかった。
火山の中に棲む陽光竜の時には、耐火と耐熱の霊薬が無ければ、打ち合う事すら出来なかっただろう。
……暴力絹毛鼠は、弱いくせに突っかかって来るもんだから、素材を駄目にしないよう、手加減するのが面倒臭かった。
大陸中央近くの湖に生息していた鬼緋鯉は、釣りを得意とする冒険者の協力が無ければ、拙者等だけで捕獲するのは無理だった筈だ。
そして畜将企鵝は、将の名に相応しく他の鬼や妖怪を指揮する能力を持ち、あの時倒して置かなければその軍勢が、何処かの街や村を壊滅させていたのは間違い無い。
其れ等大陸中央部に棲む六匹の妖怪達は勿論、沿岸部に棲む残りの六匹も一筋縄では行かない曲者ばかり。
海岸沿いの平野に居た鉄角野牛の突撃力は火元国の牛鬼とは比べ物にならず、真正面から受け止めようとして当時付けていた義腕がぶっ壊れた。
凄まじい速さで空を掛ける銀翼鷹と金翼鷲を狙った時には、何人もの弓使いの冒険者が腕を競う様に矢を放ち、何本もの矢を受け漸く撃ち落とす事が出来た。
海の上に浮かぶ流氷と呼ばれる物の上に居た吹雪熊と戦った時には、七つの海を股に掛ける海賊達とも共闘する羽目にもなった。
海の上の岩場を住処にする鉄砲鴎を捕らえに行った時も、海賊達に協力してもらったが、真逆その女頭領が伯母上だとは思いもしなかった。
そして何よりも厳しい戦いだったのは白王獅子と言う妖怪だ、個体名を持つ希少種では無いにも関わらず、種として王の名を冠する其れを討ち取った時には、全滅一歩手前にまで追い込まれた。
今思い返しても、其れ等どの戦いも楽な物は無かった、弱い者虐めに近かった暴力絹毛鼠ですら、素材が取れる様に原型を残したまま討ち倒すのには中々の苦労を強いられたのだ。
其れ等の何処から取れた素材が、どう使われているのか……細かい所は難し過ぎて解らないが、拙者の義腕に必要な分以外の素材は必要とする者に融通する事で、火元国から遠く離れたこの北方大陸にも人脈を作る事が出来たのもまた幸運だったと言えよう。
こうして火元国の外に出て戦いを経験して解った、火元国に出現する化け物の多くは、外つ国に出る化け物よりも弱い者が大半だ。
無論、京の都や死国と呼ばれる場所の様に危険な鬼や妖怪が跳梁跋扈する戦場が無い訳では無いし、師匠が打倒した大妖十二体の様な名持ちの化け物が居ない訳でも無い。
此方に小鬼や犬鬼の様な雑魚が居ないと言う事も無いが、土地の広さの割に人の住む領域が少ない所為も有ってか、整えられた戦場と言う物自体が殆ど無い。
火元国最大の都市、江戸は百万人もの人に類する者達が暮らしているが、此方の大陸だとその十分の一に過ぎない十万人に届く都市すら極めて稀有なのだ。
火元国でも山間部なんかには人の手の入らぬ土地も有るが、此処には手付かずの原野や前人未到の山塊など、行くだけで大冒険と呼べる様な土地が幾らでも有る。
外つ国で鬼切りを成す者達が『鬼切り者』では無く『冒険者』と呼ばれるのは、そうした未踏の大地へと割り入る役目も担うからなのだろう。
「よし、次は氣を右腕に集めて見てくれ、無論ただ氣を流すのではないぞ。手首の宝玉に氣を集中するんじゃ」
と、考え事をしている内に、確認事項は大分進んで居た様だ……言われた通り、心の臓から産まれた氣を義腕に流し込こんで行く。
生身の腕と違い、身体に纏う氣は義腕には勝手に流れ込む事は無い、だが得物にそうする様に、意識的に押し込めば流れ込みより強い力を出したりする事は不可能では無い。
ただそうして限界以上の氣を流し込むと、今までの義腕はあっという間に自壊していたのだ。
「よし、充填は十分じゃ。的に叩き付けてみよ!」
しかし今回の腕は違う、手首の少し上に埋め込まれた宝玉が余剰な氣を吸い込んで溜め込み、必要に応じて新たな能力を発揮するのだ。
言われた通り、宝玉の裏に有る撃鉄を引き絞る様に意識し、試し切り用の木人形に拳を叩きつける。
途端、瞳を焼くような激しい閃光と共に、耳を劈く轟音が響き、木人形が焼け落ちた。
「うむ、理論通りの雷パンチ、出力も安定して居るようじゃの。後は破損時の自然治癒が何処まで計算通りに働くかじゃが……其れは流石に時間を掛けて経過観察するしか無いのぅ」
込めた氣の量は決して多い物では無いが、その威力は只氣を叩きつけるのとは比べ物に成らない物だった。
そして何よりも重要なのは此れが一種の術であり、物理耐性や物理無効といった特性を持つ化け物にも有効だと言う事だ。
「ああ充填率には十分気を付けるんじゃぞ、溜め込み過ぎれば宝玉が割れる事も有る。予備の宝玉との交換は然程難しい事では無いが、使い切った後に新しい物を作るのは、お前さんの所の錬玉術師では未だ無理じゃからの」
宝玉の交換や日々の手入れの方法は、拙者も薬太郎も全力で学んだが、宝玉が駄目に成り予備が尽きたならば、再び此方まで来なければ成らないだろう。
とは言え、後は経過観察で問題が無ければ一度火元国へと帰り、子達の顔を親父殿や御袋殿に見せてやれる筈だ。
「心得ました、では経過観察の期間中、無理をしない程度に狩りへと出て、宝玉の予備を作って貰う事にしましょう。で? 経過観察はどれほどの期間行うのでござろうか?」
「そうじゃの……多少の問題が出る事も想定した上で、最大半年と言った所じゃぁ無かろうかの?」
半年か……帰りは伯母上の船で寄り道せずに送ってくれると言う話になっているし、火元国に、江戸に戻るのには後一年も掛からんと言った所の様だな。
その間に薬太郎と面右衛門の縁談をきっちり纏めねばの、下手をせずとも此れがこの旅で一番の厄介事でござるな……そんな事を考え拙者は思わずため息を吐くのだった。




