五十五 志七郎、行軍中に術について学ぶ事
市街を抜け田畑が広がる郊外へと出ても、馬を駆けさせるといった速度ではなく、行軍は至ってのんびりとした物だった。
「こんなにのんびりと進んでいて良いのでしょうか? 現場では被害者がどんどん出ているのではないしょうか……」
流石に人間が歩くよりはかなり速いが、氣を使えばこの数倍は余裕で出すことが出来る、そう考えると気が急いて仕方がない。
「別にのんびりって訳じゃねぇさ。屍繰りが相手で神の協力が無いとなると、どうしても慎重に成らざる得ないのさ」
俺のぼやきを聞き、鈴木一郎が口を開く。
「他の鬼や妖かし相手なら、俺がサクッと一騎駆けでもして仕留めて来ても良いんだが、屍繰りだけは無理だ」
彼の話に拠ると屍繰りの操る『生き屍』は神の力を借り神器と呼ばれる武器を用いれば誰でも倒せる程度の雑魚なのだが、神器無しとなると途端に厄介極まりない相手と成るのだと言う。
氣や術の篭っていない武器ではどれ程斬ろうと、殴ろうとも一切の痛痒すら与えることは無く、例え氣を込めたとしても一撃で倒せるだけの強さを込めねば、直ぐに回復し襲ってくるのだそうだ。
十分な氣を込めて倒したとしても大元である屍繰りを倒さないと、やはりそのうち復活し襲ってくると言うのだから始末に負えない。
しかもどんな名刀を使おうと、どれ程優れた腕力を持とうとも、込めた氣の分しかダメージが通らないのだそうだから洒落に成らない。
「俺単騎じゃぁ百いや八十潰すのがせいぜいだわ。そんくらいで氣が尽きちまう」
その声は俺一人に聞かせるものと言うにはあまりにも高らかだった。
いや、きっと行軍している皆に言っているのだろう。
出陣の前、彼が現れた辺りで楽勝ムードが漂っていたのは明らかだ。
だが、彼の話を信じるならば彼一人居れば楽勝と言う事は無く、しっかりと軍として戦わねば成らない相手と言う事なのだ。
「若……いや、殿も言っていた通り、屍繰りとの戦いでは術者が要、俺やボウズ達は氣を使えば生き屍を斬れなくも無いが、それは飽く迄も露払いだ。氣は使い過りゃ何時かは尽きるんだからな」
その声が響き渡ると、どこか緩んでいた皆の表情が自然と引き締まった物へと変わっていく。
そんな中一人父上の懐で硬い表情のまま信三郎兄上は本に視線を落としていた。
『神授森羅万象律令』と書かれた分厚い書、その中から何かを探すように頁を捲り、少し読んではまた頁を捲る事を繰り返している。
この状況でも読書、と言うのは本の虫というのにも度を越しているのではないだろうか。
そう思い、声をかけようかと思ったのだが、
「ボウズ、ありゃぁ術を使う準備をしてんだ。邪魔すんじゃねぇ」
「術の準備ですか?」
兄上が術を使ったのを見たのは魚釣りの時の一度きりだが、あの時にはあんな分厚い書を読んでいた記憶は無い。
「術にゃ氣と違って弾切れがねぇ。生き屍を潰せる術を連発してもらえりゃそれだけでも千人力ってもんだ」
弾切れが無い、その言葉は俺にとってかなり驚きの物だった。
前世の俺の常識……というのにはちょっと違うかもしれないが、所謂ファンタジー系のフィクション作品では魔法を使えば魔力を消費する、と言うのが殆どであり強力な魔法を使えば打ち止めも有り得る、そう言うのが大半だった。
だがこの世界においては他国の魔法もこの国の陰陽術も、自身の何かを消費して術を成すのでは無いのだそうだ。
「俺も自分自身が術を使えるわけじゃねぇし、聞きかじりの知識だがよ」
と、前起きした上で彼が知るかぎりの陰陽術について教えて貰った。
それを纏めると、陰陽術と言うのは俗称で『陰術』と『陽術』と呼ばれる2種類の術それら双方を使えるのが陰陽師と呼ばれる術者であり、『陰術』は自然を歪め『陽術』は歪みを正す術なのだそうだ。
それらは兄上が今読んでいるような本に書かれた『律令』と呼ばれる法則によって成り立っており、それを読み上げたり紙になどに書き写す事で現実世界に直接的な結果として反映するのだという。
そう聞くと、恐らく前に兄上がやったのは書き写した紙――呪符による術の発動で合ったことが理解できた。
だが一々紙に書き写す位ならば、口頭で発動するほうがよほど手軽だと思うのだが、なぜそのような2種類の方法が使い分けられているのだろうか。
そう、鈴木一郎に尋ねると、その答えは意外な場所から返って来た。
信三郎兄上が書から顔を上げこちらを見ながら口を開いたのだ。
「律令と言うのは、ものすごく長いのでおじゃる。此度の戦で麻呂が使おうと思っている術、流石にぶっつけ本番という訳には行かぬ故この場で一度放ってみるのじゃが、よお聞いておくでおじゃる」
どうやら、目当ての術が見つかったらしくそれを一度練習するらしい。
馬の歩みは止めては居ないが、それでも問題ないらしく兄上は父上に背を支えられたまま大きく息を吸い込み改めて口を開いた。
「神授森羅万象律令、第三巻百七十六頁より引用、死者の御魂と屍に関する律その三十七、御魂宿らぬ屍に関しては呪を埋め込み僕とする事これを認める」
言葉が紡がれていく内に兄上の周りに、細かな輝く粉のような物が浮かび上がるのが見えた。
「その例外項目、但しそれに異を唱える者ある場合、その呪を失効するものとす。これを死者不還元の法則と定め、この全文を持って異を唱えると同義と定める。以上を持って猪河信三郎が命ずる、急ぎ急ぎて律令の如く成せ!」
最後の一言が言い放たれると、その輝きが増し最早眩しい程だ。
思わず目を瞑ってしまうが、その輝きが術の成功を示すものである事は容易に想像できる。
しかし瞼を通してなお眩しさを感じる程の光だというのに、馬たちが驚く様子すらないのは不思議なものだ。
そう思いつつ、光が収まりだしたのを感じ目を開けると、目を閉じていたのは俺だけで周りの皆は普通に前を向いて行軍を続けている様子だった、むしろ術の成否が解らず、不安そうな表情を見せている者もちらほらと見える。
「……なるほどなぁ。おいボウズ、お前さん術神の加護を受けてるみてぇだな。霊光が見えるてのは術の才能がある証拠だぜ?」
そう言う鈴木一郎も眩しそうに目を瞬かせている様子を見るに、あの光が見えていたのだろう。
「俺ぁ森人の血が入ってっから見えんだわ。だが目を閉じちまうのは行けねぇなぁ、ああいう時は目ン玉に氣をぶち込んで守んだ、戦ってる時に目を閉じんのは自殺行為だからな」
確かに彼の言う通り、今回の戦いではさっきの様な光が乱れ飛ぶ事になるのだろう、だとすればそれに一々目を閉じていては戦うことなどままならない、氣を目に集めて耐えるというその技術は必須だろう。
「兄上、もう一度今の術をお願いします。俺も練習しておきたいです」
「あい解ったでおじゃる。麻呂もそらで呪を編める様にせねば成らぬ故、ちょうどよいでおじゃるな」
俺がそう兄上に頼むと、彼は軽く応じてくれた。
長い詠唱文なので偶に読み間違えたり、噛んだりして中々発動が安定しない状態ながら数回も繰り返す内に俺の方は問題なく光に耐えられる様になってきた。
だが肝心要の兄上のほうが暗唱となると中々に上手く行かない。この一文だけを暗記するならばさほど難しく無いように思えるのだが、似たような文面が非常に沢山あるため頭の中で混ざり混乱するのだという。
それに対して解決策を出したのは、やはり歴戦の英雄だった。
「なら一度発動させた後は、『以下同文』で再発動させちまえよ」
だが、それで本当に上手くいくのだろうか?




