五百六十四 志七郎、感謝を受け入れ恐怖感じる事
伯父上との難しい話を終え、夕食の支度が出来るまでは女子供で過ごすと良い、そう言われて一足先に御祖母様が向かったと言う別室へと案内されたのだが……。
其処で俺を出迎えたのは、此れまた平べったくなった推定伯母上の頭頂部だった。
「此度は我が子の為に困難な旅路を強いた事、この三十伏してお詫びと御礼を申し上げまする」
座礼の見本とも言える様な、一種美しさすら感じさせる見事な下座……子を救われた親としてそうしたい気持ちは解るし、此方の世界では決して可笑しな事では無いのだろう。
組織の長であり家長である伯父上では、そうする事が出来ない分、伯母上が頭を下げると言うのも何ら不思議は無い。
「いやいや、ソレは伯父上に十分にしていただきましたので、頭を上げて下さい!」
だが未だに俺の中に息づく前世の世界での儀礼的感覚と、警察官としての倫理観は、年長者がその様な態度を見せる事自体に強い忌避感を抱かせる。
いや相手が年下だとしても、普通に居た堪れない気持ちには成るだろうが……。
道場での稽古の時なんかだと座礼も当たり前の事と受け止められるんだけれども、其処に明確な謝罪や御礼の念が籠もると、途端に重過ぎる様に思えるのだ。
俺の言葉を聞き入れてくれたのか、伯母上はやはり綺麗な所作で顔を上げてくれた。
御祖母様によく似た、年の頃より少々幼く見える顔立ちは、世間一般的に見れば美人の部類に入るだろう、しかし広陰伯父上が絶世の美男としか言い様の無い見目をしている所為で驚きは少ない。
寧ろ夫婦並べた時に、失礼ながら釣り合わない……と見られてしまうだろう事が容易に想像出来てしまった。
「改めまして……お初にお目にかかります、猪山藩猪河家四男七子、猪河志七郎です」
……が流石にソレを表情に出すような愚は犯さず、畳の上に向かい合って正座し挨拶を述べる。
「安倍陰陽頭広陰が室、三十……貴方の父、四十郎の姉で貴方の伯母です」
白々しいとは思うのだが初対面だし、こう言う礼儀は大切だよな……うん、取り敢えず空気は変わっただろう。
と言うか考えてみると、家の親戚関係って全然知らないよな。
この間、卵を取りに行った時の話から、父上が御祖父様の唯一の息子で、上に姉が居ると言うのは察しが付いたが、その姉が何人居て何処に嫁いだ……とかそう言う話は全くと言って良い程聞いて居ないのだ。
外に嫁に行った娘は婚家の者で家族からは切り離される、と言うのがこの火元国の常識ではあるが、結婚したからには親戚としての付き合いも産まれる物なのではなかろうか?
「家の母上の弟が浅雀藩野火家の藩主だと言うのは知っているんですが、父上の姉弟って実は初めて会うんですよね。三十伯母様以外にも火取と言う家に嫁いだ三十五伯母様が居ると言うのは道中知ったんですが」
いい機会だから聞いてみよう、そう考えて尋ねてみた。
「ああ、江戸に居るのは四十郎さんだけですからねぇ。十八御姉様は酒田藩の酒神神社に、二十三御姉様は江戸の南に浮かぶ岐洲大島の庄屋の所にそれぞれ嫁いで行きましたものね」
酒田藩と言うのは、江戸の北西、火元国と東方大陸を隔てる火龍海に面した米所酒処で、酒神神社と言うのは酒作りの神、松尾様を祀る神社らしい。
そして岐洲大島と言うのは、四角い卓状の世界の南東方向の端に最も近い所に有る島で、文字通り世界の果てと言って良い場所だと言う。
前者はまだしも後者は何故そんな所に嫁ぐ事になったのか理解に苦しむが、あの御祖父様が許可を出したのだから、それ相応に深い意味が有るんだとは思う。
「二十八御姉様に至っては……『七つの海がアタシを呼んでいる!』とか言って、いつの間にやら買っていた大きな船に手下を引き連れて乗り込んで、海に出たらそのまま行方知れず……ですからねぇ」
えーと、ソレは……うん、猪山っぽいと言うかなんというか……。
「確か十年位前だったかしら? 子供が産まれたと言う手紙が何故か私宛に届いて、ソレを御父様にお知らせしたから、多分生きては居るんでしょうけれども……あの人に関しては本当に何処で何をしているのやら」
前世の日本の様に郵便行政が発達していないので、火元国の中でも手紙を送るのは決して簡単でも無ければ、安く済む事でも無い、此処に届いたのは多分江戸に送るよりは安く済んだとかそう言う事じゃぁ無いだろうか。
そして俺でも氣を使えば短い距離ならば水の上を走っていく事が出来るのだ、手紙さえ届けば御祖父様なら荒波の海を走って行くとか、下手すりゃ空を走ってく位の事はしかねない。
幾ら自由奔放で、勝手に海に漕ぎ出す様な女性でも、子供が産まれれば、孫を親に見せたいと思うのは人情と言う物だろう。
「後は二十一と言う御兄様も居たらしいのんだけれども、彼は病弱で私が産まれる前に亡くなったそうだから、私と三十五と四十郎の六人で生きてる姉弟は全員ね」
病弱……猪山には似付かわしくない言葉だとは思うが、猪山の人間とて生き物だ、そう言う事も有るだろう。
魔法や霊薬なんて物も有るとは言え、前世の世界と医療技術は比べるの馬鹿らしく成る程に掛け離れ低い。
しかも当時は智香子姉上もその師匠である虎殿も居らず、霊薬を格安で手に入れる……なんて事も出来なかった訳で、助からない時は助からない。
恐らくは上様とて気を払ってくれていた筈だが、それでも助からなかったのだから、もう運命と諦めるしか無かったのだろう。
「さて……御姉様方の事はこの位にして、私からの御礼の品を差し上げなければね。その為に御母様と宇沙美には席を外して貰ったのですから……」
そんな言葉で話を切り替えた伯母様は、横に置いてあった袱紗の掛けられた盆へと手を伸ばすと、畳の上を滑らせる様に俺の前へと押しやった。
幾ら娘の命の恩とは言っても金品を受け取るのは、やはり心苦しい物が有る。
帝や伯父上からのソレを断るのは、朝廷や安倍家の面子潰す事に成る為、大人しく受け取ったが、伯母上個人からの品と言うのであれば、受け取らなくても問題無いだろうか?
「ああ、此れは安倍の嫁としての権力で用意させた物では有りません、嫁に出たとは言え私も猪山の子……その流儀を忘れたと言う訳じゃぁ無いですからね」
猪山の流儀って事は伯母上が自力で用意したって事か……
前世の警察ならばソレがどんなに心尽くしの品だとしても、下手に受け取れば贈収賄の罪に問われる可能性が有る為、どんなに欲しい物が送られたとしても断るのが原則だった。
しかし此処は付け届けが当たり前の社会であり、態々そうまでして用意された品を断る方が角が立つだろう。
「実家に居た頃から私は機織りが趣味でしてね、自身で織った反物を売ってお小遣いを稼いで居たんですよ。そして安倍の家に入ってからは、拙いながらも陰陽術を学んで、この子達を式として操る様になったんです」
そう言いながら天井へと視線を向ける伯母様に釣られて上を見れば……其処には天井板では無く、虎の様な黄色と黒の縞模様が特徴的な大きな蜘蛛が何匹も犇めき合っていた。
……俺は虫の類が苦手と言う訳じゃぁ無いが、流石にこの不意打ちには、背筋が凍る様な恐怖を感じ思わず息を飲む。
「私が子蜘蛛の頃から育てて繁殖させた土蜘蛛よ、私は可愛いと思うんだけれども……まぁ世間受けはしないわね」
機織りと蜘蛛の式神、話の流れに脈略が無い様に思えたが……まぁ、そう言う事だろうと想像が付いた。
「土蜘蛛の糸を織って作った反物よ。此れで鎧の下に着る着物を仕立てると良いわ。土蜘蛛の糸で織った布は人を操る類の術を防ぐと言われている物なのよ」
袱紗を取り払い、姿を表したのは純白に輝く一本の反物だった。
京の都に来るまでの道中、魔笛の妖力に翻弄された事を考えれば、ソレを防ぐ効果が有ると言うこの反物は、今の俺にとっては何よりも必要な物だろう。
「有難く頂戴致します」
伯母上が俺を迎えた時の姿と同じ様に、畳に額づきながら感謝の言葉を口にするのだった。




