五百六十三 志七郎、勘違いを正され逃避する事
「遠路遥々……良く来てくれたのぅ。本来ならばお前がこの世界に戻ったと知らせが届いた時点で、儂の方から礼を述べに行くのが筋だったのだが……主上が先に礼を申されたいと言われてな……」
金色に貼られた襖の間を抜け館の奥深く……安倍家の一家が普段生活しているらしい場所へと案内されるなり、広陰伯父上はそう言って俺に向かって頭を垂れた。
武家や公家の論理は未だに俺の中に根付いた物とは言い難いが、それでも主君であり父親でも有る帝からそう言われたのであれば、伯父上としては従う他無いだろう事は、理解出来る話だ。
いや……前世の世界でも私人としては罪悪感を抱き、直ぐにでも謝罪に行きたいが、警察と言う組織としてソレをする訳には行かず飲み込まざるを得ない……なんて事案が無かった訳じゃぁ無い。
俺が任官した頃には大分緩和されたとは言え、警察の威信低下……即ち警察が舐められる事で治安が悪化する可能性を警戒し、例えソレが誤認逮捕の様な明らかに警察が悪いと非難される様な事ですら謝罪する事が憚られる……そんな組織体質は確かに有った。
この場合、謝罪と御礼と、方向性は全く逆方向では有るが、公人としての立場と私人としての立場が打つかり合う……と言う意味では親しい物があるだろう。
「況してや儂は己の娘を救う為に、お前を贄に捧げたのだ。地べたに額づいて礼と謝罪をせねば成らぬ立場……にも関わらず、こうして足を運ばせ、頭を下げるにしても……頭が高いと言われても仕様の無い姿を晒しておる……」
胡座をかいて座ったまま、身体を丸める様に軽く頭を下げただけのその姿は、先日帝が俺に向けた物と同じで、礼儀に適った礼と言う訳では無い。
だが安倍家に養子に入ったとは言え彼は帝の子であり、陰陽寮と言う幕府と同格ともされる組織の長である、例えソレがどれほどの恩義だとしても、俺の様な子供に深々と頭を下げる様な事は許されないのだろう。
帝も伯父上も……身内を救われた者として、自身に出来る最大限の礼を俺に向けてくれているのだ。
「……眼の前で誰かが困っているなら、ソレを助けるのに理由は要らない。礼が欲しくて人助けをする様ないじましい人間には成るな。俺が此方の世界に生まれ変わる前、前世の師から言われ続けた言葉です」
その言葉を授けた師と言うのは、剣を教えてくれた曾祖父さんだけでは無い。
人の道や道徳を説き、真っ直ぐ前を向いて歩く事を教えてくれたのは、狸寺の和尚で本吉の親父さん。
親に反発し勉学で落ちこぼれ、荒れた生活をしても、説教をする訳でもなく、ただ黙って俺の話を聞き飯を食わせてくれた芝右衛門のお祖母さん。
その誰もが、異口同音と言っても良い程に、同じ様な言葉を口にしていた。
公務員と一口に言っても、その職種は多岐に渡る、その中でも警察官と言う仕事を選んだのは、その言葉が俺の胸の中深い所に刻み込まれており、直接的に人助けをするのに最も適した職業だと考えたからだった筈だ。
今の俺は既に警察官だった隠神剣十郎では無く、猪山藩猪河家四男七子の『鬼斬童子』猪河志七郎だが、それでも心の根底に有るその思考思想が消え去った訳では無い。
……多分、俺がネット小説に傾倒したのは、俺と同じく目の前の不幸を見捨てる事が出来ない質でありながら、俺とは違い自身の欲望に忠実に振る舞う事が出来る、そんな数多の主人公達に憧れたからだろう。
いや、まぁ、一時期は小説を読みたいと言う欲望に負けて、勉学そっちのけでネット小説を読み漁っていた事も有るが、他人に迷惑を掛ける形で欲を発散する様な真似は、俺にはどうしても出来なかったのだ。
「礼は要らぬと言われたからと言って礼をせぬと言うのでは、ソレこそ人の道を外れるわ。娘の命を救われたのだ、古来よりの習わしに乗っ取るならば、娘を礼に差し出すのが流れ成れど、流石に許嫁の約を結んだ相手の兄弟ではのぅ……」
うん、古今東西、神話伝承の類や小説でも、救われた娘と結ばれる……ってのは確かによく聞く話だが、ソレで兄上の婚約者を奪うのは確かに勘弁して欲しい。
つーか、兄弟じゃなけりゃぁ乗り換えると言う選択肢が有るっぽい事を言う伯父上が普通に怖いんだが……。
まぁ、恋愛結婚至上主義とも言える前世の日本と違い、結婚は家の都合で行われるのが当たり前な武家や公家の社会では、普通の発想なのかも知れないが。
「しかも信三郎殿と宇沙美の縁談は主上が定めた事でも有る故、儂が勝手に覆す訳にも行かぬからの。しかしお陰で辛うじて繋がった我が家の命脈……その恩に報いる為に何を差し出せば釣り合うか」
いやいや、どんどん重く成っていくんだが……帝からも褒美の品は貰ってるし、確か江戸の屋敷にも安倍家から届いたと言う品も有ったし、ソレで十分なんじゃぁ無いか?
「素晴らしい蕎麦打ち道具を頂きましたし、お礼はソレで十分ですって!」
安倍家から頂いた物を思い出し、俺はそんな言葉を口走る。
あの蕎麦打ち道具はあれからもちゃんと使っている、未だに睦姉上の様な名人芸とでも言う様な美味い蕎麦は作れないが、ソレでも此方に向けて出発する前は、ちゃんと麺として食べれる蕎麦が作れる様に成ってきていた。
氣は上手く使えば身体能力だけで無く、物事の骨を覚えるのにも強い力に成るのだ。
「ぬ? アレは江戸で受けた歓待の礼で有って、娘を救ってくれた事に対する礼とは別口だぞ? 確かにそこそこ値の貼る物だったが、娘の命の礼には全然足らぬわ」
おおっと? 勘違い!? いや待てよ、確か此方の世界に戻ってきて部屋を貰った時、大量に積まれていた荷物の中には神々からの賜り物と言う名目の品物が有ったよな?
ソレがこの世界を身を呈して守った事に対する褒美だとすれば、今回態々京の都まできて帝から直接渡された物は何なのだと言うのだろう?
朱雀の卵は孫を救われた帝個人からの品だとしても、聞き耳頭巾の方は間違い無く神々から賜った神宝だって言ってたよな?
まぁ江戸の屋敷に届いていたのは、飾るしか用途の無さそうな置物とかだったし、もしかしたら伯父上が言っているのと同じ様に、別の名目だったりすんだろうか?
目録達筆すぎて読めなかったし、幾つか気に入った物だけ部屋に置いて後は蔵にしまっちゃったんだよなぁ。
うん、帰ったらちゃんと誰かに読んで貰って確認しよう。
「うむ、そうだの……志七郎、お主確か刀だけで無く拳銃も使っておったよな? 成れば退魔の銃弾を儂が生きて居る限り定期的に用意し届けさせよう。銀や真の銀を使った銃弾に術を施した弾丸は、普通では通らぬ妖にも効果が有る故な」
俺が余所事を考えている間も、伯父上は何が俺の為に成るかを考えていてくれたらしく、そうして出した結論がソレだった。
世の中には実体を持たない霊体や煙の様な妖怪、生き屍の様に、氣の篭もらない攻撃では痛手を与える事の出来ない化け物は決して少なく無い。
しかし銃と言う武器は氣を込める事が全く出来ない訳では無いが、弾が飛んでいく間に氣は流れ出し霧散する為、そうした相手には効果的な武器とは言い難いのだ。
だが銃弾その物にそうした化け物倒す為の術を仕込むと言う技術が有るのだと言う。
消耗品故に一度切りの報奨と言う訳では無く、長い事定期的に頂けると言うのは確かに有り難い話では有る。
そう言われてみれば、向こうの世界で土産物を探している時にも、秘石を銃弾にして使っているなんて話もしていたな。
「界を超えた世界では秘石を銃弾にして使う技術も有るそうです。その世界から、秘石を運んでくる猫又が百貨店に居ましたよ。まぁ此方じゃぁ弾にしてバラ撒く様な贅沢な使い方は出来ないでしょうけれども……」
話の流れで、ふと思い出した沙蘭の事を口に出す……
「秘石を銃弾にするだと!? いや、だが他所へ輸出する程産出するならば、選択肢としては有りなのやもしれぬ。とは言え、秘石は陰陽術でも使える大事な触媒……うむ! 誰か! 直ぐに百貨店へと走れ! 買えるだけ買い占めるのだ!」
と、目の色を変えてそう叫ぶ伯父上。
沙蘭がまだ居れば、販路の確保は此れで出来そうだなー。
自分の言葉一つで動き出したっぽい巨大な取引の行方に、俺は若干の焦りを感じつつ、一生懸命、現実から逃避するのだった。




