五百六十一 志七郎、大枚値切り安全を気にする事
御祖母様の屋敷に雇われた下男に案内してもらい俺は薬種問屋へと足を運んでいた。
屋敷から然程遠くない大通りに面した場所に有るその見世は、大店と呼ぶに相応しい店構えで、俺一人だったならば踏み込む事を躊躇したかも知れない。
「おや、お大はん所の兄さんやないか。毎度おおきにさんですー。今日は何を持って来てくれはったん?」
けれども俺の案内をしてくれた下男は、この見世の丁稚と思しき少年と顔見知りの様で、顔を見るなりそんな言葉が飛んできた。
「あー、今日は売りに来たんちゃうわ。此方の坊……大奥様のお孫さんなんやけどな、なんぞ欲しい物が有るっちゅーんで案内してきたんよ」
どうも御祖母様は、自分の食料とする為の肉を近隣の戦場で調達しているらしいのだが、その際に副産物的に手に入る鬼や獣の角、骨やその他植物系素材等をこの見世に持ち込んで買い取って貰っている様で、お得意様と言っても良い程度の付き合いが有るらしい。
「お大はんのお孫さんやったら、わてやのうて番頭はんに出張って貰わなあかん案件やね。今は……手空きみたいやから、ちくと待っとってな呼んでくるさかいに。番頭はーん! 番頭はーん! 大商いでっせー!」
いや、待て! 何故に大商いなんて言葉が出てくる、俺はヒヨコの餌を買いに来ただけだぞ。
「へぇ、お大はんにゃぁ色々と世話に成っとりますし、勉強したらなあきませんなぁ。そやけどウチは薬屋やのうて薬種問屋どすえ? そのまんまでも危ない毒物なんかは流石に売られへんけど……何がどんだけ必要でっしゃろ?」
呼ばれて奥から出てきた、如何にも商人ですと言わんばかりの張り付いた笑みを浮かべた三十路絡みの男がそう問いかけて来る。
「火豆が沢山欲しいんです、具体的には……二斤位なんですけれども」
ヒヨコが一日に食べるのは今の所、一両に少し足りない位の量だ、一斤は十六両なので、大体三十二日分買おうとしている訳だ。
「そら確かに大商いやなぁ。火豆は耐火の霊薬や耐熱の霊薬、防火剤に消火剤……陰陽術やら忍術やらでも使うゆうんで常に需要有るもんやから在庫は十分確保しとりますけど、ソレにしたって普通、一回で使うんは数粒どすえ? 何に使うんか知りまへんけど多すぎちゃいますか?」
火豆は強い火属性とそれより少し弱い土属性を宿す素材で、火属性に対する抵抗力を上げる耐火の霊薬や、熱属性と熱さへの抵抗力を上げる耐熱の霊薬等など、様々な霊薬の素材として重宝されている物だと言う。
火豆が取れる紅蓮洞の中には、溶岩の流れる川が至る所に有り、そうした環境に適応した火属性や熱属性の鬼や妖怪がうようよしている為、其れ等二つの霊薬無しで踏み込むのは自殺行為らしい。
その他にも建材に塗る事で火事に成りにくく成る防火剤や、万が一燃えた時に水を掛けるよりも手早く火を消す事の出来る消火剤にも使われるそうだ。
陰陽術や忍術での用途は解らないが、恐らくは火属性の術の触媒と言った所だろう。
そして需要が有ると言う事は、多少高値でも欲しい者が居ると言う事でも有り、ソレはそのまま相場に反映される。
「んー、火豆の値は一粒一文で、一両で大体二百粒……二斤やと六千四百粒位に成るなぁ……お足は金一両と銀二分と四百文どす。文銭の分は一朱銀があるなら百五十文は負けときまひょ」
一両=銀四分=銀一六朱=四千文……と言う通貨レートは火元国中で共通で、日々の為替レートと言う様な物は無いらしい。
にしても日本円に換算して十六万円の買い物をして、三七五〇円のおまけ……ってのは少々渋いんじゃないだろうか?
「其処まで行ったんなら、綺麗に一両二分までまかりませんか? ……勉強してくれるんでしょう?」
と、俺が問いかけると、番頭さんは我が意を得たりと言わんばかりの笑みを浮かべ、
「ちまいんにきっちり値切るんは、流石は悪五郎はんのお孫さんやなぁ。しかもえげつない程に吹っかける訳や無し、お互いに利の有る良い見切りどす。ほなら、お大はんの顔に免じてその値でやらせてもらいまひょか」
いや普通に端数を端折る程度の値切りしかしてないのに、その持ち上げ方はどうなんだろう?
んでも、考えてみれば俺はまだ『お家のお使い』が出来る程度のお子様なんだ、大人相手に値切り交渉しようと言う発想が出る時点で褒めるに値する事なのかも知れない。
しかし一ヶ月分の餌代でこのお値段は結構な出費だぞ? いや、江戸に戻って鬼切りに勤しめば稼いで稼げない額じゃぁ無いが……四煌戌の餌と同じく買って済ませると言う選択肢は無しだな。
「ほなら豆を入れる麻袋もおまけしときますわ。後から袋に入れて御屋敷に届けまっせ。んで、お足はその時でもええし、今でもええけどどないします?」
一両二分なら手持ちで済ませる事の出来る額だしこの場で払っていこう。ただ後から何処かの両替商に行って手形に入っている分から少し下ろして置かないとな。
流石に小判を何枚も持ち歩くのは怖いし、かと言って何か有った時のお守り代わりに一枚位は持っておきたい。
「ってホンマに持っとるんか……最近の猪山は羽振りが良えっちゅーのは噂で聞いとったけど、こんなちまい坊が当たり前みたいに小判出すんやから大概やで……。帰りは気ぃ付けはるんやで? 外つ国から来た者の中にゃぁ破落戸よりヤバいんも居りますよってに」
真逆、俺の様な子供の財布から小判やら銀板やらが直ぐに出てくるとは思っていなかったらしく、番頭さんは周りの目を気にするかの様に辺りを見回しながら受け取りつつ、そんな言葉を口にした。
外つ国から京の都に来る冒険者の中には『盗賊』や『斥候』『野伏』と呼ばれる、火元国で言う所の『忍術使い』と似たような役回りを担う者が居る。
大半の者達は何らかの目的を持ってこの地を訪れ、ソレを達成する為、真面目に鬼切りや戦場探索に邁進するのだが、中には徒党が壊滅し、母国へと帰還する事も出来ず、その技術を悪用し掏摸や夜盗に身を落とす者が居るのだそうだ。
そうした者は下手に体系立った技術を持っている分、与太者がそうした生業に身を窶した場合よりも性質が悪く、京の都の治安を守る検非違使達も中々捕らえる事が出来ないらしい。
「畜生働きでもあらへんかったら、捕り方連中も早々本気で調べへんからなぁ。その手のド屑が一体何人居るかなんて誰にも解らへんのどす。それでも噂に聞く江戸の腐れ街よりはマシらしいけどなぁ」
畜生働きと言うのは殺人や強姦を伴う盗み……強盗殺人や強姦強盗の様な凶悪事件の事だ、流石にその手の事件を管轄で起こされれば、公家の捕り方たる検非違使達も本腰の捜査をせざるを得ないらしい。
……と言うか、前世の警察組織とは違い、公家も武家も捕り方と呼ばれる役職は、圧倒的に足りて居らず、余程大きな事件じゃ無ければ表一辺倒の捜査だけで、迷宮入り案件にしてしまったり、適当にでっち上げた犯人を裁いて終わりなんて事も有るのだと言う。
特にソレが酷いのが、江戸市中の一角に有る腐れ街と呼ばれる一種のスラム街で、あの中では人死にが有っても碌な捜査も行われず、そんな場所に踏み入った者が悪いで済まされる事すら有るのだと聞いた覚えが有る。
幸い京の都には、其処まで酷い状況に成っている場所は無いのだそうだ。
ただし江戸は腐れ街さえ避ければ其処まで治安の悪い場所は無いのに対して、京の都は一箇所に纏まっていない分、何処でも日暮れすぎに成れば盗人や強盗に出くわしても奇怪しくは無いらしい。
全体的にそこはかとなく治安の悪い京の都と、特定の場所だけがヤバい江戸……どっちが良いとまでは断言できないが……何方にせよ前世の日本とは比べ物に成らないと言う事だけは間違い無いだろう。
午後からはそれなりに高価な手土産を持って安倍様の屋敷を訪ねる約束だし、その手の輩と遭遇しないように気を付けて行かないとな。
そんな事を考えながら、俺達は番頭さんに見送られ、御祖母様の屋敷へと戻るのだった。




