五百四十八 志七郎、騒動を流そうとし祖母踏み込む事
「さて、今日のお買い物はこの辺にして、そろそろお家に帰りましょうか」
御祖母様が手土産に選んだのは、世界樹から輸入された龍舌蘭酒の大樽だった。
氣を纏えば担いで帰る事も出来なくは無いが、大名家の隠居妻とその孫と言う立場からすると少々差し障りの有る行動である。
なので多少の手間賃を払えば配達もしてくれるので、俺の買った土産も纏めて屋敷に送ってもらう事にした。
安倍家の屋敷を訪ねる時には、別途酒樽を運ぶ際には人足を雇うなり、四煌戌に運んでもらうなりする事になるだろう。
と、そうして百貨店を出て、暫し歩いたその時だった。
「吊るせ、吊るせ」
「剥いてしまえっ!」
「解剖しろっ! 解剖ッ!」
「死んでおしまいっ!」
「えんがちょ! えんがちょ!」
「ボケーッ!」
「カスッ!!」
「スカタンッ!!」
「アホー!」
「なんじゃもんじゃ!」
「叩き出せっ!」
「おお、まだ動くぞっ」
「虐めてやる、虐めてやる!」
「畳めっ潰せっぶっ飛ばせっ!」
路地裏から、そんな物騒な喧騒が聞こえてきた。
火事と喧嘩は江戸の華と言う言葉がある通り、江戸っ子は割と喧嘩っ早い者が多く、江戸市中を歩けば、前世の世界の繁華街等とは比べ物に成らぬ程に、その手の騒動に出くわす事は多い。
だがその騒ぎは普段聞き慣れた物とは少々違う様に思えた。
西の山へと日が落ちかけたこの時分、通りは既に薄暗く、路地裏とも成れば最早夜の帳が降りたと然程変わらない。
けれども氣を纏うのに慣れた俺の目は、その向こうを容易く見通す事が出来る。
そして目の当たりにしたのは、対等の喧嘩……では無く、複数の男達がたった一人の男を寄ってたかって袋叩きにしている胸糞悪い現場だった。
「東夷如きが都の味にケチ付けるなんぞ百年早いっちゅーねん! 一昨日来んかい呆けェ!!」
「兄さんの料理食ろうて、不味いなんて言い腐るおんどれの舌の方が腐っとるんちゃうかいな!」
「どーせ田舎者は碌な物食っとらへんのやから、上方の御上品な味付けが解らへんのやろ。まぁ同じ上方でも洋食ばっか食うとる西洋かぶれやら、下品が服着て歩いとる川下者やらは京の味が解らへんやろうけどな」
聞こえて来る言葉だけを聞けば、その状況の理由が大体想像が付いた。
恐らくあの凹られて居る男は、見世の料理にケチを付けたのだろう。
んで、その見世は筋者がシノギでやってる所だとか、怪我か何かで足を洗わざるを得なかった兄貴分がやってる所だとか、そんな感じなのではないだろうか?
そして見世に屯ってた連中に聞き咎められ今に至る……と。
んー、自業自得の間抜けとさっさと通り過ぎるべきか、それとも義を見てせざるは勇無きなりと割って入るべきか。
まっとうな料理を出してる見世に舐めた口を叩いた馬鹿を助ける謂れは無いとは思うが、酷い料理を出してる見世に文句を言ったので有ればソレは正当な苦情だしなぁ。
そんな事を考えどうしようか躊躇していると、
「その辺にして置いたら如何ですか? 幾ら無礼な言動が有ったと言っても命まで取る程の事では無いでしょう?」
迷う素振りも無く御祖母様はにこやかな表情のまま、そんな台詞を投げかけた。
「ンジャゴラァ!」
「関係あらへん奴が余計な口出しすな……や?」
「おんどれも纏めてぶっ殺……」
「「「うわぁ!?」」」
当然、与太者共は即座に此方を振り返り反発の声を上げるが、御祖母様の顔を見るなり幽霊でも見たかの様な形相で悲鳴と共に左右の壁へと張り付いた。
「い、猪山の白い悪魔……」
「ね、姐さんのご身内で?」
「あっしらの用は済んださかいに……」
「「「ほな、さいならー!!」」」
それまでの荒々しさは一瞬で消え失せ、尻に帆を掛けて……とか、脱兎の如く……とか、そんな言葉がよく似合う速さで与太者達は表通りへと駆けていく。
そして残されたのは凹られていた男……服装から察するに恐らくは瓦版屋の若い衆と言った所だろうか?
「あら? この子、御昼に虎さん所で集りやらかそうとした奴じゃぁ無いか。アレで懲りなかったのかい、馬鹿だねぇ」
残念ながら俺の目には、凹々に腫れ上がったその顔の何処を見たら、一度見ただけのあの男だと判別出来たのだろうか?
そんな疑問が脳裏を過ぎったが、前世と今生を合わせても、俺を軽く上回る人生経験を積んだ御祖母様がそう言い切るのだから、そうなのだろう。
「さて……折角助けたのに、このまま此処に転がしておいて、万が一が有っちゃぁ寝覚めが悪いわね。志七郎さん、悪いけれどもこの子を担いで家まで運んで頂戴な?」
ああ、うん……袖すり合うも他生の縁と言うし、運ぶのは構わないんだが、大人と子供の体格差的に、背負ったり前に抱えたりするのは無理だな。
そう判断した俺は、完全に失神している男を、俵か何かの様に肩に担ぎ上げるのだった。
「うっ……此処は……?」
肉たっぷりの……と言うかほぼ肉の夕飯を済ませ、四煌戌にも食餌を与えた終わった頃だった。
あの男を寝かせていた居間から襖一枚を挟んだ隣の部屋から、そんな声が聞こえてきた。
どうやら無事目を覚ましたらしい。
まぁ割と派手に凹られた様子では有ったが、ぱっと見る限りでは医者を呼ばねば成らぬ程、大きな怪我は見当たらなかったし、大丈夫だとは思ったが。
脳への痛手は、見た目で判断する事は出来ないが、レントゲンもCTスキャンも無い此方の医学では、中を開けて見る訳に行かない以上は、何らかの異常を発見するにせよ目を覚ますのを待つしか無かったのだ。
「起きたようじゃの、どれちと見てくるか。志七郎、お前も来い。最悪の場合にゃぁお前の持つ霊薬を売りつける事に成るかもしれんからの。まぁ馬鹿に付ける薬は無いとは言うがな」
と、そう言いながら、手にした湯呑を起き、面倒臭そうに御祖父様が立ち上がる。
「よう、若造。馬鹿やったみたいじゃの。通りかかって連れ帰った家内と孫に感謝せぇよ、捨て置いても良かったんじゃからの。どれ、目を見せてみよ」
布団の上で上体を起こし、未だ状況を掴みかねて居ると言わんばかりの呆けた目をした男に、御祖父様はそう言葉を投げかけ手を伸ばした。
本職の医者程では無いが、御祖父様も多少は医術の心得が有るらしい。
なんせ武闘派で名の通った猪山藩、切った張ったは日常茶飯事、殴り殴られの喧嘩だって当然茶飯事。
今でこそ智香子姉上が錬玉術を修め、様々な霊薬を安価で手に入れる事が出来る様に成ったが、ソレ以前はその手の事で出来る怪我に一々高い霊薬を使っていたら幾ら銭が有っても足りやしない……と言う状況だったのだそうだ。
国許には代々医者を生業とする者も居るし、江戸では懇意にしている医者一派も居るが、そうした者を呼ぶにせよやはり銭は掛かる。
鉄火場での応急処置位は武芸の内では有るが、それ以上の事を任せられる者は残念ながら脳筋族たる猪山家臣団には居らず、頭脳派を自認する若き日の御祖父様が医術を齧る程度に学んだのだそうだ。
ちなみに氣の秘奥を極め様と思えば、ある程度の医学知識は絶対に必要な物らしい。うん、取り敢えず江戸に帰ったら、書庫に有る医学書の類を読み込んでおこう
「どうやら脳味噌がブチ壊される程にやられては居らんようじゃの。志七郎や、一番安い奴で良い、傷を癒やす霊薬を出してやれ」
一番安い霊薬と言われても、俺の持つ自動印籠の中に入っている物は、智香子姉上謹製の割と良い奴しか入って無い。
御祖父様が言っている様な霊薬は、人市で怪我をした連中の手当に使い切って居たのだ。
「安い奴は在庫が無いので、一寸作ってきます。材料はこの間採ってきたのを干した奴が有るので、少しお待ち下さい」
医術と錬玉術を両方ともある程度身に付ければ、将来そっちで身を立てることも出来るよなぁ……と、そう考えながら、俺は水を汲みに庭の井戸へと向かうのだった。




