五百三十九 志七郎、身内を知り驚愕食らう事
「志七郎さん、朝から精が出ますねぇ。そろそろ朝食の支度が出来ますよ、身体を拭いていらっしゃいな」
京の都へと付いた翌日、普段通りの時間に起きた俺は、何時も通りに朝の稽古をしていた。
まぁ相手が居ないので、出来るのは素振りだけだが……
其処に縁側からそんな言葉を投げかけたのは、灰色の髪を綺麗に結い上げた老齢の御婦人……俺の御祖母様に当たると言う人だった。
と言うか、京の都に滞在する間、俺が宿泊するこの家の主が彼女なのである。
江戸を出立する前に親戚の家に御厄介に成るとは聞いていたが、ソレが真逆御祖母様の家とは思わなかった。
家の主と言うのであれば、普通は夫の御祖父様の方だと思うのだが、此処は猪河家の隠居屋敷と言う訳では無く、飽く迄も御祖母様が個人で借り上げている屋敷なのだと言う。
なんでも、若い頃――と言っても五十路はとうに越えていたらしいが――その頃には御祖父様と共に火元国中津々浦々を物見遊山がてら旅して回っていたのだそうだ。
しかし何時までも旅の空を友とする生活を続けるには、流石に歳を取りすぎてしまったと感じた彼女は、此処に居を借り下働きに雇った数人と共に暮らしているのである。
ちなみにそれら費用の出処は『小遣いは自分で稼げ』と言う家訓通り、概ね自弁しているらしい。
勿論藩の財政からの支出が全くの零と言う訳では無いが、ソレは彼女が江戸に有るらしい代々使ってきた隠居屋敷に住むのと然程変わらない程度だと言う。
寧ろこうして俺達家族や家臣達が、何らかの用事で京の都へと上がって来た際に、滞在場所として利用出来たり、上方の情報を一早く仕入れる事が出来たり……と、利益の方が多いのだそうだ。
「と、ソレは解りましたが……何故、御祖父様が当然の様な顔で朝食を食ってるんでしょうか?」
なおこれらの説明は全て、朝食の席へと戻った俺に対して、何処からか湧いて出た御祖父様がしてくれた事だったりする。
「ん? 女房の家に旦那が居るのは、別に不思議に思う事じゃぁ無いじゃろ?」
違う! そう言う事を聞いているんじゃない……! と、声を大にして言いたかったが、どうせ韜晦されるのは目に見えてるので、俺は取り敢えず黙って目の前の御膳に手を伸ばすのだった。
皆は京都の朝食と言えば一体どの様な物を思い浮かべるだろうか?
朝粥に古漬それから御御御付けの様な、質素な和の料理だろうか?
それとも実は麺麭消費量日本一を誇ると言う京都らしく焼き麺麭と玉蜀黍の汁物の組み合わせだろうか?
はたまた某有名チェーン店が実は京都発祥だと言う餃子と、その相方とも言える拉麺に炒飯の組み合わせだろうか?
今、俺の目の前にはそんな事を考え逃避したく成る様な現実が、圧倒的な存在感を持って鎮座ましましていた。
うん、漫画の類なら『どーん!!』と書き文字が振られているだろう凶悪なまでの重量感、朝からコレを食うのか? と思わず尻込みさせられ度肝を抜かれる俺が居る。
「おや? 志七郎さんはこれ苦手ですか? 育ち盛りだからと一寸大き目にしすぎたかしらねぇ?」
熱々に熱せられた鉄板の上で、ジュウジュウと激しい音を立てているソレは、普通は一枚二枚と言う単位で数えられる物の筈だが、余りにも分厚く切られたコレは殆ど立方体と言ってい良い形状で、何処がタテで何処がヨコかも解らない……。
いや、嫌いじゃぁ無い、嫌いじゃぁ無いんだが、流石に朝からコレは見るだけでも胸焼けしそうな感じがする。
「ぬ? どうした志七郎、別に嫌いではなかろう? 江戸ではこうして食うのは稀かもしれぬが、似たような物は散々食っとっただろう?」
つか若いからって……ぱっと見る限り、俺のソレが二人の物より極端に大きい様には見えない。
御祖父様は氣を極めた結果、老化速度が落ち、肉体年齢だけなら未だ壮年の域に有ると言えるので未だ理解出来る。
御祖母様も実年齢を聞けば「お若いですね」と言いたくなる見目をしているが、ソレにしたって朝一からこんな重い物を平然と食らう様には思えないのだが……。
尻込みする俺を他所に、二人はその固まりに刃物を入れ、一口大に切り取ると美味そうに頬張っている。
一辺七寸程の立方体のソレは、重量にして一体どれほどの物だろう……コレほどの大きさの物は、前世から通して食った事が無い。
「いや、食べさせて貰う物に文句を言う訳じゃぁ無いですが、朝一からコレって……一寸重く無いですか?」
無論、この場合の『重い』は重量の事を指している訳じゃぁ無い、いやそっちでも十分に重いとは思うが……。
二人共そこで何故、不思議な物を見る目で俺を見るんだ。
え? コレ此方では標準の朝食なのか? このタテだかヨコだかわからない牛肉の焼き物が!?
「ぬ……? お、おお! そう言われてみれば、儂は此奴と祝言を挙げて以来、一緒の時は基本これじゃったから忘れとったが、肉の産地として有名な猪山でもコレを朝から食う習慣は無かったのぅ」
「ガルルル……!」
一寸考え込んでから、合点が行ったとばかりに膝を叩いて笑う御祖父様……と牙を剥き出しに熱々の塊肉に齧り付く御祖母様。
ああ……うん、まぁ猪山だしなぁ、そう言う事も有るだろう。
「お太は銀虎と言う虎の変化でな、基本的に肉か魚しか食わん。野菜の類を食えぬ訳では無いが、多く食わせると大概腹を壊す。まぁ人とは身体の作りそのものが違うんじゃろからの」
と、そんな言葉から始まった御祖父様の話によれば、お太こと太牙御祖母様は、銀虎と言う極めて珍しい動物が歳を経て化ける事を覚えた変化なのだと言う。
同じ変化でも師に付いて修行する事が当たり前の猫又ならば、身体の構造自体も術で変化させる事で、人間と殆ど変わらない生活が可能だが、御祖母様は飽く迄も天然物故に、其処までの変化を維持出来ないのだそうだ。
その話を裏付ける為、と言うよりは単純に目の前の食に集中している所為だろうが、確かに御祖母様の頭には銀色の丸い虎耳が生え、先程まで有った筈の人の耳が消えている。
「取り敢えず、残しても構わんから食えるだけ食え。つか残ったらお主の犬に食わせりゃええじゃろ。まぁ犬に食わすのはちと勿体ない気もするがの」
苦笑いを浮かべながら御祖父様がそう言うあたり、彼自身自分の目の前に置かれた肉を片付けるので、割と精一杯なのだろう。
流石に其処まで言われて食わないと言う選択肢も無く、俺は肉刀と肉叉を手に取り刃を入れた。
……!? この手応え……とんでも無く柔らかいぞこの肉、殆ど抵抗無くすっぱりと切れた。
よく手入れの行き届いたこの肉刀の切れ味が、下手な刀よりも鋭いと言うのも有るんだろうけども、ソレにしたって一寸尋常では無い。
一人前としてはあまりにも巨大な肉の塊から、なんとか一口大を切り出し頬張る。
肉が……溶けた……!? いや、溶けた訳では無い、あまりにも柔らかな肉の繊維が、咀嚼するまでも無く、舌の上で解ける様に崩れたんだ。
「美味かろう? これは此処等で穫れる食肉に成る化け物では最高級と言えるからの。だからと言って自分で獲りに行こうとは思うなよ。この象花火が居るのは難所の更に奥地、今のお前では未だ生きて帰るのも難しい場所じゃからの」
そんな御祖父様の言葉は耳には入っているが、俺は返事をする事も無く次の肉を切り出し、即座に口へと放り込む。
これほど柔らかな肉だと言うのに舌に残る様なしつこさは無く、それでいてしっかりと脂と肉の旨味と甘みははっきりと感じられる。
これは……手が、口が、辞められない止まらない……合間に食べる飯も、肉を引き立てる事この上無い。
普段の食事は基本的に『飯を美味く食う』為の物だが、コレは飯が肉を美味く食う為に存在している! と思わざるを得ない。
「御馳走様でした!」
パンッ! と両手を合わせそう言った俺の前には、綺麗サッパリ空に成った茶碗と鉄板のみが残されて居たのだった。




