五百三十一 志七郎、遊女界隈の義理を知り人情に憤る事
嫋やかに優雅にしゃらりとした手付きで、袂から取り出した煙管に火を入れて、ぷかりと一服紫煙を吐く。
如何にも艶めかしいその姿は、喫煙のソレすらもが一つの芸で有り、其処まで極めたからこその太夫の称号だと言う事をまざまざと見せつける物だった。
「今でこそ太夫やなんてご大層な看板背負てるけれど、わっちかて最初からそうやった訳やおまへん。下積みの時期は相応に苦労もしたんでありんすぇ」
芸を磨き、五八さんを繋ぎ止め、新しい客を集め、一晩遊ぶ事が出来ただけでも男の名が上がる……そんな風に書いてもらう様に、瓦版屋に働きかけたりもしたのだと言う。
時には身銭を切ってでも瓦版屋や絵師を接待し、兎に角自身の『格』を上げる為、陰に日向に努力に努力を重ねた。
ソレもコレも彼女には遊女としての格を上げ、少しでも早く上へと伸し上がりたい理由が有ったのだ。
「宴の席にはそれはもう食べ切れん程の贅を凝らした料理が並ぶ物でありんすぇ。そうして残った料理は禿や下男達に下げ渡される。わっちも禿の頃にゃぁ姐さん達の宴にお呼ばれして色々食わせて貰ったもんでありんす」
ある程度以上の格の遊女を買うには、一夜の遊びに伴う宴会が付き物で、その遊女に見合った規模の宴席を設けねば成らない。
ソレが自身に見合わぬ物と判断すれば、その宴を設けた男を、客と看做さず袖にする権利が遊女には有るのだ。
とは言え、流石に物事には限度と言う物が有り、遊女の格に見合った相場を越える様な宴はそうそう有る物では無い。
「何時だったか東国から来たと言う御大尽さんが、姐さんの為に大きな宴を催した事が有りんしてな、その時に食べた物の味が忘れられへんかったんよ」
しかし禿で居られるのは水揚げ前の期間だけ、一人前の遊女として客を取る様に成れば、そんなお零れを頂く事は、全く無いと言う訳では無いが当然少なく成る。
ならば少しでも良い物を食いたいと思えば、自分の格を上げていくしか無い。
そうして一念発起した彼女は、数多の努力の末に、望むならば火元国中でも最高峰の料理を食らう事が出来る、最高峰の遊女に上り詰めたのだ。
「けどなぁ世の中美味い事が有れば不味い事も有る物でありんす。わっちを抱いたとか、身請けしたとか……ソレで自分の名を売りたい、そんな男が何人も見世に来る様に成ったんよ」
瓦版屋を使い世論を煽って、そう言う風に仕向けたのは自分自身である、自業自得と言ってしまえばそれまでだが、それでも耐えられない事も有る。
彼女に言い寄る男達の中に、極めて質のよろしく無い男が居た。
帝に拝謁する事が許された殿上人――即ち高位の公家の一人、けれども酒癖も女癖も凄ぶる悪く、銭を貰って一夜の遊びで済ませる相手としてならば兎も角、身請けされて一生添い遂げるのは勘弁願いたい、そんな男だったと言う。
事実、一人息子を設けた妻からは、余りにも酷い私生活故に、三行半を突きつけられて実家に帰られたと言うのだから、相当な者なのだろう。
武家もそうだが公家の婚姻も、個人と個人が結ばれるだけで無く、家と家の関係で結ばれるのが、この火元国の常識である。
一寸やそっとの事は飲み込んで、お家の為に仮面夫婦をするのが当たり前、実家同士が戦争やるんでも無けりゃぁ離縁なんざぁ、互いに家の面子が落ちる……ソレが普通なのだ。
にも関わらず逃げられ、実家がソレを認めたと言うのだから、もう地雷以外の何者でもない。
しかし私生活がソレで有りながらも、公人としては極めて優秀で、更に余暇を使った鬼切りでも相応以上の結果を出し、遊び銭は腐る程有ると言うトンデモナイ人物だったらしい。
そんな男に千両箱を山と積まれて後添えに……等と言われては、そう簡単に断る事等出来やしない。
護るべき八つの徳全てを忘れた者『忘八者』等と揶揄される女郎屋の主としては割と善良で、遊女が気持ちよく仕事出来る事を第一にすると言う彼女の居る見世の主でも、商売人の端くれとして現ナマには敵わず、その身請け話は本決まりと成るはずだった。
「其処に割って入ってくれたのが、兵助平の旦那でありんすぇ。御方はわっちが水揚げしたばかりの頃からの御贔屓でねぇ、あの御公家様を真正面に張って千両箱を山積みしてくれたんでありんす」
当然、そんな派手な事をやれば瓦版屋の美味しい餌にされない訳が無い。
目も眩む様な大金の山を前に、何方が身請けし嫁取りと成るか、はたまた町人達の好きな人情噺の様に、何方も袖にして貧乏長屋に身一つで嫁ぐのか……そんな憶測とも捏造とも取れる瓦版が畿内地方一帯に舞い踊った。
しかし結果はあらちゃんちゃん、余りにも加熱しすぎた報道で、家名が特定されてしまった彼の貴族、本業にも影響が出かねない状況に成るや否や、積み上げた銭と共にあっさりと引き上げてしまったのだという。
と成れば当然、兵助平が身請けし太助平の義理の母に成る……と言う流れの筈が、手助けは済んだとばかりに此方もあっさり引き上げた。
けれどもその騒動で、ソレより安い額面で彼女を身請けする様な事が有れば、彼の貴族の顔に泥を塗る事に成る……と身請け話はぱったり無くなってしまったのだ。
更にはその噂の余波は、普段の客足にすら大きく影響し、格も値付けも年齢も高すぎ客の取れない遊女と相成った訳である。
「とは言え、わっちがソレを恨む様な筋合いは有りゃしまへんわ、あの男に嫁いで浮気やら喧嘩やら刃傷沙汰やらに怯えて暮らすよか、禿や散茶に芸を仕込んで余生を過ごす方が余程マシな人生ってな物でありんすぇ」
遊女は最低限度の生活は見世が面倒を見てくれるが、ソレは本当に最低限『生きる事が出来る』程度の物で、客から支払われた銭の一部を見世から受取り、ソレで衣装を仕立てたり、自分の時間を買ったりする物なのだと言う。
当然、客を取れないのであれば客から入る銭は無くなり、客の催す宴で美味い物を食う事も出来なく成った。
傍から見れば、件の貴族と兵助平と言う富豪に翻弄され、遊女の頂点からどん底まで叩き落された不幸な女性以外の何者でもないだろう。
にも関わらず、彼女が涼やかな笑みを浮かべ、そんな台詞とともに紫煙を吐く事が出来るのは、良くも悪くも『芸』が有るからである。
遊女が成り上がるのに必要とされる全ての芸事に通じ、それらの大半で師範の免状を得られる程の努力の人だ。
それを目の当たりにし、また身近に接した遊女達が、彼女を慕わない訳が無い。
確かに客から貢がれる銭は無く成ったが、その代わりに弟子達から、指導料がバカスカ入ってくる流れが新たに出来。
そうした他の遊女達が主役の宴席でも、ソレを立てる為の脇役として演奏を担う等、仕事が全く無くなった訳では無いのだそうだ。
ただしソレを知るのは飽く迄も彼女に芸を習う同じ見世の者か、または割増料金を払ってでも彼女から芸を習いたいと言う上昇志向の強い遊女だけ。
衣縫奴の様な現役バリバリで、しかも決して仲が良いとは言えない、何方かと言えば好敵手的な見世の娘だと、噂を鵜呑みにしていても何ら不思議は無いのだそうだ。
「と、言う訳で、世間的にはわっちにゃぁ、兵助平様を殺める動機は有るんでありんすが、その実情は全く違うて寧ろ恩人と言っても良いお人、ってな事に成るんだわいなぁ。せやから坊っちゃん……下手人きっちり締め上げておくんなまし」
灰を捨てる為、高らかに音を立てて煙草盆に打ち付けられた煙管に伝わる手の震え……。
それは彼女の言葉に嘘が無く、兵助平の死を悼み、憤っているのだと言う事を示している様に思えたのだった。




