五百二十六 月
「なんでぇ、最初っからこうしてりゃぁ、簡単だったんじゃぇねぇか」
身バレなど気にせずとも、そもそも向こうは此方の事など知らないのだから、顔を合わせた所でどうという事も無い。
実際、この船に乗り込んでからは、何度と無く顔を合わせ言葉を交わしたと言うのに、アレは此方を訝しむ様な素振りは全く無かった。
と成れば、最初から『旅は道連れ世は情け』とでも嘯いて、都までの道程を連れ立って歩んで居たならば、余計な騒動に巻き込まれる前に対応する事も出来ただろう。
武門の子である以上ある程度、場数を踏ませる必要は有るのだろうが……ソレにしたって陰からそうと知れぬ様に護衛しろってのは少々どころでは無く面倒臭い。
多分、上は割増で依頼料を取ってるんだろうが、俺の様な下っ端にゃぁ、お零れ程度すら廻って来やしない。
商いの売上だって仕入れの手間こそ無い物の、交渉だの輸送だのはきっちり自分でやってるのに、その分の手間賃すら貰えず、全ては丸っと上に吸い上げられるだけなのだ。
「昇進しなけりゃぁ、何時まで経っても吸い上げられるだけ……何時かは上に成り上がって楽な暮らしをしたいもんだ」
俺はそう呟いてから、煙管に火を入れ一息吸い込んだ。
しかし……この船に乗るのは初めてでは無いが、此処まで乗客が少ないのも珍しければ、一番安いこの部屋に他の乗客が居ないのも珍しい。
普段なら碌に言葉も通じない異人と同部屋で、息の詰まる船旅に成る所が、此度はなんと快適な事か。
しかも今はあの小僧も安全な部屋で高鼾をかいている頃で、今は気を抜いてこうして煙草を吹かして居ても誰も何も言う事は無い。
ぷかぁ……と紫煙を吐き出しつつ、他の乗客を思い出してみる。
川下屋親子に船長の三人は、この船を運営する面子なので居て当然としても、何の因果か、他の面子も新顔は一人も居らず、皆見た顔ばかり。
全員常連中の常連とも言える者達だからこそなのだろうが……今俺の居る三等船室でも決して船賃は安くは無い。
にも関わらず、他の面子が泊まってるのは割と良い値段のする二等、一等船室だ。
乃菊太夫と衣縫奴は、まぁ呼びつけた者が銭を払ってるんだろうからまだ解る。
嘉多様も割と裕福と言える公家の隠居身だし、和琴屋のお鮒も大店の元女将、何方も相応に見栄を張る必要が有るのだから、ソレも仕方が無い。
矢吉の奴は川下屋のお抱えの猟師の様な物で殆ど身内枠な上に、船賃に足りない分は獲物を落としてソレに代えていると言った所なのだろう。
特別扱いされているのを傍から見るのは、正直腹立たしい気持ちも湧くが、アレが居るからこそ美味い物が食えるのだと思えば我慢も出来る。
なんせ昨日のアレは、天下の台所と唄われる河中嶋でも、火元国の中心足る京の都でも食う事の出来ない希少中の希少、美食中の美食とでも言うべき物だ。
流石に今までアレと同じ物が出た事は無いが、ソレでも矢吉が居ない時には基本的に燻製肉や乾燥肉が主と成るのだから、ソレに比べれば新鮮な鳥が食えるのは有り難い。
まぁ豚の腸詰めとかも嫌いじゃぁ無いが、和琴屋の女将じゃァないがソレばかりでは飽きるのも事実だろう。
今回のこの仕事は色々面倒事が多いし、中忍や上忍にも理不尽な叱責を受ける事に成ったし、割に合わないなぁ……と思っていたが、昨夜のアレだけで……うん、帳消し寧ろ役得と言える位じゃなぁいだろうか?
アレを自弁で食えるかと言えば、答えは無理の一言だ。
化鴨と言う化け物を狩る事が出来るかどうか、と言うのであれば絶対に無理では無い。
中忍や上忍には及ばぬとは言え、下忍班長に推挙されたのは伊達では無い、京の南に有る『地獄洞』と呼ばれる最難関の戦場でも、化け物を皆殺しにしろとか無茶を言われなければ、最奥まで行ってまた戻ってくる位の事は出来る自信が有る。
化鴨のいる場所さえ情報が入れば、単身で忍び込み不意を付いて暗殺するのはそう難しい事では無いだろう。
だが昨夜嘉多様が言っていた通り、普通の化鴨はもっと肥え太り脂が乗り過ぎて居る故に、アレ程の美味足り得ないのだ。
丁度良い時に仕留められる可能性は殆ど零に近いだろう。
俺は自分が運の良い男だとは思わない、そもそも忍の家に産まれた訳でも無いのに、忍働きをしなければ成らないのは、幼い頃に忍びの里に売り払われたからだ。
生家が商家だった事は覚えている、朧げな記憶の彼方に微かに残るのは、幼い頃には美味い物を腹一杯食うのが当たり前だった、そんな生活だった。
けれども何処で躓いたのかどう転んだのか、詳しい事は知らされていないが、俺は借金の形として売り飛ばされたのだそうだ。
そして行き着いた先が厳忍衆の運営する忍術学園だった。
彼処の学費や生活費は卒業後の忍務報酬から天引きされる形でも支払えるので、忍の家の子だけで無く身寄りの無い者も、忍術の才能さえ有れば食わせ育てて貰う事が出来た。
俺の場合は身代分も稼がねば成らないので、まだまだ返済を続けなければ成らないが……昇進すれば入る銭は跳ね上がり、返済が楽に成るのは間違いない。
今回の忍務での昇進機会は失われてしまったかも知れないが……次の機会は有るとは言われたし、ソレを信じてやっていくしか無いだろう。
借財さえ返しきれば、忍務選択の権利も得られるし、そうなれば温い仕事でまったりやるのも悪く無い。
いや、危険な忍務を遂行する忍働きでは無く、各地の『草』達の元を行商人に扮して廻り、情報を回収する取り纏め役に志願するのも良いかも知れない。
行商の品も上が用意した物では無く、自前で仕入れて売るのであれば、その売上は丸っと自分の物に出来る様に成る。
自衛する程度の能力と銭さえ有れば、土地に縛られた農民達よりも余程気ままで楽しい暮らしが出来るのではないだろうか?
あられや鯣なんかのツマミに成りそうな乾き物の扱いは手慣れた物だし、焼き鳥だって其処らの屋台に負けないだけの自信は有る、後は安い麦酒でも仕入れて売り歩く……悪く無い未来かも知れない。
そうやって昼間は商売に精を出し、夜は其処らの賭場でチンチロリンでも打つ……悪く無い、悪く無いぞ……。
楽して稼げる……なんて甘い事は考えていないが、少なくとも今の様な偶に有る忍務上での役得だけを心待ちにする生活よりは、ずっと楽しいだろう。
「グフフフ……」
そんな未来を想像し、思わず笑みが漏れるのを抑えきれず、そんな声が出てしまった。
おっと、いかんいかん……明日から頑張るんじゃない。今日、今日だけ頑張るんだ。今日を頑張った者、今日頑張り始めた者にのみ明日が来るんだ、未来を夢想して笑っているだけじゃぁ良い明日は来ない。
けれどもまだ日も登らぬ今は、まだ休んでいても良い時間だ。
俺はそう思い立ち、もう一服する為に煙管に煙草を詰め直した……丁度その時だった。
上の方から火薬の爆ぜる乾いた音が続けて二度、それから僅かに時間差が有ってもう一度、高らかに鳴り響いたのだ。
昨日とは違い、何かが叩きつけられる様な音が此処まで聞こえなかったから、恐らく獲物は普通の鳥だろう。
鴨だろうか? 鶴だろうか? 夕方には舟場に着くのだから昼飯には出る筈だ。
昨日のアレ程の物では無くとも、この船の料理は美味い。
洋食ばかりというのは確かに飽きるが、ソレも今日までと思えば……何が出るかが楽しみだ。
さて先ずは朝飯だな……あの坊主が余計な事をする前に、今日もきっちり迎えに行って置こう。
今回の忍務で昇進は無く成ったのだから、後は無難に無難に問題無く終わらせる事を考えよう。
……と、そんな俺の思いを嘲笑う彼の様に、事は既に起きていたのだと、その時はまだ知る由も無いのだった。




