五百二十五 志七郎、美食の極みを喰らい馬鹿暴れ掛ける事
「こら美味い! ちと後味がしつこい気もするけど、ソレがまた葡萄酒に合うんやな、うんコレなら流石にウチも文句言えへんわ!」
「ぎりぎり……でありんすねぇ、これ以上脂が濃ければ下卑た味に成る、せやかてこの濃厚さが味の決め手で有る以上、これ以上脂が薄ければ成り立たない。ほんまに奇跡の味としか言い様有らしまへんわぁ」
「ほんになぁ……しかもソレを調理する者の腕が生半可ではこの味は出せへんのと違いますやろか? 良い素材が手に入れば弄り回したく成るのが職人の性、それを抑え込んで素材を味を引き出すのが真の料理人……この料理は正にソレでありんすぇ」
「……美味い、コレは恐らくは化鴨の肝を炒めたのじゃな? 汁は醤油と蜂蜜、それに酢を合わせたか? うむ、脂の乗った肝だからこそ、味の濃い汁と合わせても負けずに、素材の味が活きて居る……やはり市井の商人風情にしておくには惜しい腕よのぅ」
化鴨の胸肉と脂肪肝の炒め物、ソレが今夜の主菜だった。
俺の舌では、胸肉の方は昨日食べた焼き物と然程差を感じ取る事は出来なかったが、一緒に盛られた脂肪肝の方は違う。
前世にも割と良い値段のする仏蘭西料理店で、本場から仕入れたと言うフォアグラを食べた事は有るのだが、少なくともソレと比べたならば此方の方が圧倒的に上だと断言出来る。
無論、現地の最高級店のソレは口にした事が無いので、流石に最高峰のそれと同等以上とは断言出来ないが、俺の記憶の中の物では比べ物に成らないのは間違いない。
記憶の中のフォアグラは確かに美味かった、けれども脂がくどいと言うかしつこいと言うか……今思うとべったりと濁った味だった気がする。
対して化鴨のソレはと言えば、こってりとしているのに味が純粋で澄んでいる……そんな印象を受けるのだ。
恐らくソレは化け物になったとは言え自然の中で育った健康そのものの化け鴨の肝臓と、人間の小賢しい悪知恵で作り出した病的な肝臓の差……と言う事なのかも知れない。
兎角、コレに匹敵する美味い物は前世ではとんと記憶に無い。
今生で考えても、何年か前に初詣で頂いた食神恵瓶様が作った御神酒のツマミか、清望藩の下屋敷……通称『石銀さん』で頂いた料理位しか、同等かそれ以上の物が思いつかない。
腕で言うならば多分太助平は、睦姉上に勝ると言う事は無いとは思う。
だが素材の良さを込みで、料理の味として見るならば、残念ながら姉上の用意した物がこれ以上だったと言う事は、少なくとも俺の記憶の中には無い。
コレを睦姉上が料理したなら一体どんな物が出来上がるのだろうか?
「しかし以前麻呂が食らうた事の有る化鴨の肝は、もっとべったりと脂臭く、酒で舌を洗っても簡単には後味が抜けぬ程に脂塗れの物でおじゃったが……何というか、こう……今回のコレは物が違うとしか言いようが無いでおじゃるなぁ」
流石は帝の配下として高級公職に付いていた御公家様の御隠居、贅を尽くした美食は散々口にして来たのだろう、当然その中で化鴨の肝を食った事が有ったらしい。
曰く、本来の化鴨と言うのは、肝は勿論、胸肉ももも肉も兎に角脂まみれのギトギトで、蒸すなり湯がくなりして脂を抜かなければ、まともに肉の味がしない……と言うか殆ど脂の塊? と言う様な物なのだと言う。
今回捕れたのは化鴨としては極めて若い個体であったが故に、脂が乗り過ぎていなかったのが、この奇跡とも言える味を産んだと言う事の様だ。
「たぁ言っても、儂は只鴨か若しくは剣鴨辺りじゃと思うて撃ち落としただけじゃけぇなぁ。偶々えーしこーに化鴨の若いのじゃっただけじゃけん、またおんなじを取るは無理じゃけんな」
人の欲と言うのは際限の無い物だ。
同じ化鴨でも若い個体を狙えば、高位の公家ですら食った事の無い美味が手に入る……誰もがそう考えたであろう事は想像に難く無い。
けれども、自身に視線が集まったのを感じたのだろう、矢吉は誰が何かを言うよりも早く今回のソレが偶然手に入っただけの物で、狙って捕れる物では無いと否定する。
「ぬぅ……これが定期的に、とは言わずともある程度手に入るのであれば、帝へ献上するに値する物たと思うたのでおじゃるがのぅ。鳥撃ちの矢吉よ、もしもまた同様の物が手に入る事が有れば、麻呂に知らせるのじゃぞ?」
それでも一縷の望みを掛けて……と言う事か嘉多様が矢吉にそう言うが、
「いやいや嘉多様、内臓ってぇのは足が早いのが相場でしてね、都の近くの戦場に出たってぇならまだしも、矢吉程度が行ける戦場からじゃぁ、痛む前に届けるのは流石に無理が有りまさぁなぁ。んだから食いたけりゃこの船に乗るしかねぇって事で」
兵助平がソレを否定する言葉を口にする。
「川下屋ぁ……其方、幾ら稼いで居るかは知らぬが、流石に思い上がりが過ぎるのではないか? 麻呂は公家とは言えども昇殿も許されぬ地下人に過ぎぬが、ソレでもお主の無礼を咎め切って捨てるも許される身でおじゃるぞ」
しかしその物言いが余程気に入らなかったのか、それとも既に酒精が廻り気が荒れていたのか、嘉多様は手にした葡萄酒盃を乱暴に食卓に置くと、椅子を蹴倒す様にして立ち上がった。
「おっとこりゃ失礼致しやした……けども嘘は言ってやしませんぜ? 傷んだ内臓を帝に献上なんぞすりゃぁ、嘉多様の一族郎党のみ成らず、この矢吉までどんなお咎めを受けるか解かりゃしねぇ。親代わりのあっしとしては流石に見過ごせねぇんでさぁ」
同じく立ち上がり静かにそう答えた兵助平。
一触即発の雰囲気が食堂を満たし、仕方なく二人の間に割り込もうかと俺も立ち上がり掛けたその時だった。
「兵助平! それに嘉多様も! 其処までにしてもらいましょう! この船の上では船長である私の言葉が絶対! これは主上ですら覆せぬ中央の神々が定めし法、ソレに反すると言うのであれば、御両人共に大川に叩き込むが如何いたします!?」
と、船長の拝保が菠薐草の缶詰を片手に駆け込んで来たのだ。
その後ろには太助平の姿が見える辺り、多分厨房の裏口から外へと出て、拝殿を呼びに行ったのだろう。
とは言え、此処は前世の日本とは違い、法を守るのはソレを担う者の『暴力』が有ればこそ、という程度の民度しか無い火元国である、言って簡単に聞く連中だけなら奉行所の拷問紛いの詮議は要らない……筈なのだが……
「っち、兵助平……命拾いをしたでおじゃるな」
「嘉多様こそ……今日こそは息子へのしつこい勧誘を終わりにしてやろうと思ったんだが、船長が出て来ちまったんじゃぁ仕様が無ぇや」
二人はあっさりと鉾を収めて、倒れた椅子を引き起こして座り直す。
……つーか、他の客が誰一人として然程驚いた様子を見せていないのはどう言う事なのだろう?
「ああ、あの二人、ああやって喧嘩に成りかけては、拝の旦那が抑えて終わる……ってのは割と何時もの事だぜ。偶に制止が間に合わなくて実際に切った張ったに成る事も有るが、その場合にゃぁ言葉の通り二人とも大川に放り込まれて終わるんだわ」
そんな俺の疑問に応えたのは、ついさっきまで化鴨の脂肪肝の余りの美味さに魂が抜けた様に惚けていた月太郎である。
流石は火取の弟子と言う事か、拝殿は嘉多様と兵助平の二人を纏めて相手にしても全く問題に成らない猛者らしい。
「ぱっと見る限り細身で強そうにゃぁ見え無ぇんだけれども、やり合うとエゲツない程に強いってのは、この辺りじゃぁ割りかし有名な話でしてね。前に乗った時も暴れた外つ国の冒険者共を纏めて大川に叩き込んだてんだから、並の者じゃぁ敵わねぇわなぁ」
……と言うか、寧ろ何で大川にブチ込まれて、あの二人は未だ無事で、しかも懲りずに喧嘩なんかしてるんだろうか?
そんな疑問が浮かんだが、まぁあの二人もそれ相応の使い手なのだな、と無理矢理自分を納得させて、俺は再び夕餉の皿へと挑みかかるのだった。




