五百二十三 志七郎、轟音を聞き嫉み向けられる事
流石にこれ以上は不味いと悟ったらしいオバハンが黙り込んだ隙を狙い、残った昼飯を味わう間も無くさっさと胃袋に収め、俺はそのまま食堂を後にした。
こう言うくさくさした気分を変えるのであれば、煙草の一本でも吸えりゃ良いのかも知れないが、残念ながら未だ幼いこの身体にそんな物はまだ早い……と、頭を振って無理矢理意識を切り替える。
一応、旅荷物の中には、御祖父様に持たされた煙管と少量の刻み煙草が入っているのだが、コレは自分が吸う為に渡された訳では無く、蛭の類に噛まれた時に使う為の物だ。
火元国では煙草に前世の世界程高い税金は掛けられて居らず、酒を買う事の出来ない様な貧しい人でも煙草は買える、と言う者は決して少なく無い。
故に上から下まで、身分の如何に寄らず、殆ど誰でも手を出す事の出来る嗜好品として、広く親しまれているのだが、前世の世界とは違い何時でも何処でも簡単に買える訳じゃぁ無かったりもする。
街道沿いの宿場なんかならば、当然取り扱う見世は有るし、煙草を売り歩く行商人も居る、煙草だけならば然程邪魔にも成らないので、茶店なんかでも売っている場所も有る。
けれども一寸街道を外れた場所に有るような農村では、そもそも見世なんて便利な物は無く、半月ととか一月とか、長ければそれ以上に一回程度しかやってこない行商人から買うしか無い……と言う場所も少なくは無い。
そんな場所に行ったならば、懐に忍ばせた煙草を一寸差し出すだけで『何をしに来たかも解らん余所者』から『煙草代程度にゃぁ話を聞いてやるべき相手』に変わるのだと言う話なので、持っていて損の無い便利な道具の一つと言えるのかも知れない。
まぁ、俺は前世でも煙草を吸う習慣は無かったので、今生でも多分『銭の使えない所でも使える便利な通貨』扱いなんだろうけれど……。
じゃぁ前世の俺はこう言う時、どうやって気分を変えていたかと言えば……それは勿論『高良を飲む』である。
それも赤の高良じゃない、赤白青の方の奴だ。
間抜けな死に様を晒し、此方の世界に生まれ変わる前には、強炭酸強カフェインを謳った新商品が出る、と話には聞き及んで居たので割と楽しみにはしていたんだがなぁ……。
と言うか、生まれ変わってから前世の世界に行った時に、何故それを思い出さなかったんだろう? 思い返して見れば向こうで飲んだのは全部無印の赤白青コーラだった筈だ。
新バージョンを探して飲む事だって、向こうに居る間なら簡単な事だっただろう。
……と、そんな下らない事で、割と本気の後悔をした、その時だった。
この船に乗ってから、割と定期的に聞いている火薬の爆ぜる乾いた音が辺りに響き渡ったのだ。
流石にこう何度も聞いていれば、一々驚き身を隠す様な事は無い……が、危機感が薄れていく様でソレはソレで問題が有るのでは無いかとも思える。
取り敢えず、その銃声の元を探し甲板の上を見回すと、空から何かが落ちて来るのが目に入った。
「おっと、すまん、ちぃーとばかり驚かせちまったかのぅ? 美味いのが上ば飛んどったから、撃ち落としたんじゃ。今夜も美味い飯が食えるけん、勘弁してつかーさい」
重い肉の塊が甲板に叩きつけられ船が軽く揺れたのと前後して、昨日食堂で見かけたガンベルトの男がそんな言葉を投げかけつつ姿を表した。
年の頃は恐らくは二十歳を越えて間もない位、総髪髷と鷹の様な鋭い目元が特徴的な、名前は確か矢吉……だった筈だ。
「おお、こりゃぁ良えのが捕れたなぁ。うん、坊主、今夜の飯も上等な物が食えんぞ。儂ゃこの仕事して割と長いが、此処までドデカイ鴨は初めて見る……多分化鴨ってな妖怪じゃねぇかのぅ?」
俺が読んだ事の有る鬼切りの虎の巻である『江戸州鬼録』は、その名の通り江戸州内に出る、或いは出た記録の有る鬼や妖怪しか載っていない。
その姿は縮尺を間違えたとしか言い様の無い真鴨のソレで、割と大き目の大型犬と然程変わらぬ体格が有る様に思える……と言うかコレが飛んでいると言うのが一寸信じられない位だ。
故に俺が知らないと言う事は、少なくとも江戸近辺の戦場では出現しない化け物なのだろう。
「化鴨って聞き覚えの無い妖怪ですが……美味いんですか?」
聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥、覚えておいて後から調べる事も出来るのだろうが、その場で聞く事が出来る相手が居るのに、虚勢を張った所で仕様が無い……なんせ俺はまだ子供なのだ。
「んー、昔爺様に聞いた事ぁ有るんじゃが、確か歳を経た鴨が化ける事を覚えた所謂『変化』の類の妖怪でな。人を積極的に化かして回る様な輩じゃぁ無ぇんじゃが、その妖力を食い扶持を増やす方に回すんだって話じゃ」
鴨は種類にも依るが基本雑食で食欲旺盛、只の鴨ならば自然の摂理の範疇で肥えるのだが、化ける事を覚え頭が回る様に成った化鴨は、化ける事で只鴨では食えない様な大きな植物や生き物でも食う様に成るのだと言う。
「んで食った分だけどんどこ育って大きくなって、その内飛べなく成る位に肥え太り、今度は別の化け物の餌になるだって話じゃ。此奴はまだ其処まで肥えちゃおらんが、ようけぇ脂が乗っとるけん美味いんじゃろなぁ」
鳥が飛べなく成るほど太るって……何というか、一寸間抜け過ぎないか?
いや、ソレを捕食するであろう他の化け物からすれば、鴨葱的な意味で有り難い化け物なのかも知れないが……。
「こんだけの獲物が手に入ったんじゃ、太助平の奴も、兵助平のとっつぁんも喜ぶじゃろなぁ。銭にゃぁならんが無料同然で乗せてもらっとるんじゃ、贅沢は言えねぇのぅ」
月太郎から、この矢吉と言う男とは、この航で何度か顔を会わせた事があると言う話を聞いたが、偶々何度も同じ船に乗り合わせた……と言うよりは、彼が川下屋親子と懇意なので、此方が割と良く利用していると言う事なのだろう。
そして船の上で撃ち落とした獲物を、食材として提供する代わりに格安料金で乗せてもらっている……と言うのは、彼の漏らした言葉から容易に想像する事ができた。
「おっと早く血抜きせんと、折角の肉が駄目に成っちまう……けど、流石にこの化け物を一人で抱えるんは厳しいのぅ。しゃぁ無い、太助平の奴を呼んでくるか……厨房に居ればええんじゃが……」
溜め息を吐きながら、そんな事を言う矢吉に対し
「良かったら俺が手伝いましょうか? これでも鬼切りは慣れてますし、大型の化け物の解体も何度か経験していますし、勿論今日の晩飯に成るってんなら小遣い寄越せなんて言いませんよ?」
俺はそう持ちかけた。
すると矢吉は、俺を上から下まで改めてじっくりと見てから、深い深い溜め息を吐き直し、
「坊主は多分、氣功使いだろう? 儂みたいな只人たぁ違って、ちっこい身体でもどでかい大鬼やらを相手に出来るんじゃろなぁ……羨ましい限りじゃのぅ。んじゃぁ手伝ってもらうかいの、小遣いは出せんが太助平の奴に一番美味い所を出すように言ったるけんな」
それから全てを諦めた様な笑みを浮かべて、俺の手伝いを受け入れた。
……氣を纏う事が出来なくとも、名を成す鬼切り者が居ない訳では無い。
むしろ町人階級出身者ならば、氣功使いの方が少数派の筈だ。
彼も含めその手の、腕の立つ鬼切り者と言うのは、何らかの『異能』を持っている物だと、何処かで聞いた覚えが有る。
けれども氣と言うのは、大半の異能を代替出来得る極めて『万能』に近い能力で、ソレを持たない者が持つ者を羨み妬む気持ちを持つな、と言うのは無理が有るだろう。
それを飲み込み虚しく笑うその表情を、俺は見なかった事にして、化鴨を持ち上げるのだった。




