五百二十 志七郎、蔑みを感じ悪意に苛つく事
「うむ! 此度も美味い! 川下屋……やはり其方の息子、当家に出仕させぬか? 幾ら外つ国からの客人を饗す為とは言え、こんな船に一生を縛り付けるよりは、麿呂の様な高貴な者に仕える方が余程良い人生でおじゃろう?」
俺が五つ目の麺麭に手を伸ばそうとした時だった、少し離れた席で三本目の葡萄酒を空けた恐らくは公家と思わしき狩衣の男が、船主の一人である川下屋 兵助平にそんな言葉を投げかけた。
「いやいや嘉多様、何度も申し上げている通り、あれにゃぁこの船だけで無く、あっしの抱えてる事業を丸っと全部継いでもらわにゃならんのですわ。家が潰れると鹿谷の鉱山やら何やらにも影響出るんで、本当に勘弁してくだせぇまし」
しかし兵助平はけんもほろろに突き放す。
「其方もまだまだ老け込む歳では有るまい? 跡継ぎならばもう一人位拵えれば良いでは無いか。外つ国からの賓客を饗すに足る程の料理の腕前を有して居るのに、下賤な銭勘定で人生を終わらせるのは、如何に勿体無い事か……」
『士農工商』と言う言葉は階級制度を表した物では無い、しかしこの火元国に置いては、その仕事の『尊さ』を示す物として定着して居るのだ。
即ち『政を司り鬼や妖を退ける士』『大地を耕し命を育む農』『技術を磨き様々な物を生み出す工』と、此処までは敬するに相応しき立場とされている。
だが商人に限っては世の中に必要では有るが『他人の上前を撥ねるだけの卑しき仕事』と蔑む立場とされていたりする。
無論全ての商人が侮蔑の目で見られる訳では無い、猪河家とその御用商人である悟能屋の様に極めて友好的な関係を築いている例だって決して少なくは無い。
真面目に政をしようと思えば、銭なんてのは幾ら有っても足りる物では無い、その担い手たる商人を蔑み疎む様な事をすれば、巡り巡って苦しむのは民草なのだ。
けれどもそうした政の流れを知らぬ大多数の者達にとって、商人と言うのは自分達の財布に手を突っ込んで利益を持っていく『太ぇ野郎だ』と言う事に成る訳である。
更に厄介な事に無駄に銭を溜め込むのは強欲故の悪徳で、ガッと入ってきた銭をパッと使うのが気っ風の良い男……と言うのは割と火元国中何処でも通用する価値観とされている為、銭を貯めて商売を始めようと言う者は極めて少なかったりするのだ。
勿論目端の効く者や、猪河家や立嶋家の様に商いに絡む家訓を持つ家の者、一度は商家に婿養子に出された事の有る役満叔父上など、銭勘定に悪感情を持たない者だって居る。
けれども嘉多と呼ばれたあの公家は、商売を下賤な物と蔑む価値観の持ち主の様だ。
「その息子が産まれる時ゃ……酷い難産でしてね。なんとか息子の命は助かったんですが女房はそのまま逝っちまいやしてね……以来男鰥を通して来やしたんで、アレが唯一の跡取りなんですわ。本当に申し訳無いですが、ご勘弁くだせぇ」
あれ? 唯一の跡取りって事は……太助平って言うあの青年、雑事だけじゃぁ無くて調理まで担当してるのか?
「何を戯けた事を……お主が京島原の遊郭に足繁く通っておるのを麿呂が知らぬとでもおもうたか? 其方が申す程の稼ぎが有るならば、遊女の一人や二人身請けする事も出来よう、後添えを迎えれば済む話ではおじゃらぬか」
いやいや、あの酔っ払い……他所の家庭事情に踏み込み過ぎじゃないか? 幾ら腕の良い料理人が欲しいっても、流石に一寸アレは……はっきり言って、横で聞いていて気分が宜しく無い。
身分を笠に着て何かをゴリ押しする、と言う話は武家でも全く無いとは言わない。
が、上様がその手の話を嫌う為、表沙汰に成れば大概の場合は、家名に傷が……程度で済めば御の字と言われる位には苛烈な処罰を受ける事に成る……と言われている。
「本当に勘弁して下さい、別段女房に操を立ててる……ってな訳じゃぁ無ぇですが、今から拵えた子供に色々叩き込んで全部を任せれる跡取りに育つ頃にゃぁあっしは幾つに成ってるんだ……って話ですわ」
この台詞でもまだ引かない様ならば、此方から文句を言ってやろう……武家と公家では格としては公家の方が上とはされては居るが、筋目の通らぬ事を正すのであれば、家の格など関係無い。
「ふむ……其処まで言うならば仕方が無いのぅ。この火元国とも外つ国とも言えぬ玄妙なる味わいを主上にもお届け出来たならば……と思ったでおじゃるが。流石に商人の如き下賤な者を殿中に招く訳にも行かぬでおじゃるからのぅ」
勿体ない勿体ない……そう言いながら、酔っ払いは五本目の葡萄酒に手を伸ばすのだった。
「ああ、あのお人は京の公家で嘉多家の御隠居でさぁ。確か刑部省で大判事を勤めて居た大人物で、今は家督を息子に譲って隠居の身、悠々自適に畿内を旅して回ってる……って前に聞いた事が有りますわ」
晩飯を食い終わり、未だ盃を重ねる様子を見せていたあの男を避け、俺は月太郎と一緒に食堂を出た。
「ただ此処だけの話、あの御人もあの船主も評判の良いお人等じゃぁ無ぇんですわ……」
月の灯に照らされた上甲板から、俺の部屋の有る第三層の通路へと居りた所で、月太郎は軽く周りを見回してから、声を潜めてそんな台詞を口にする。
曰く、嘉多と言うあの男は基本的に真面目で職務に忠実だが、情を解せず極めて厳格なお裁きを下す……と言う事で有名だったという。
しかしソレは絶対と言う訳では無い、時折……本当に極稀な事なのだが、妙に量刑が軽かったり、逆に被害者が厳罰を望んでいないにも関わらず極端に重い罰を下したり……と、不可解な判決を下す事が有ったのだそうだ。
無論そんな醜聞を表立って吹聴する様な者は早々居ないが、人の口に戸は立てられないのもまた事実、何処からどうやって漏れたのかは解らないが、ソレが京の市井にまで知られてしまい、流石にその責を負う形で比較的若いにも関わらず隠居する事に成ったらしい。
以来、自分を知る者の居ない場所へと遠出しては、酒をかっ喰らって管を巻く……と言う生活なのだと言う。
そしてもう一人、兵助平の方も男鰥で一人息子を育て上げた……と言えば聞こえは良いが、実際には太助平がある程度大きく成るまで死んだ女房の両親に預けたままで、銭を稼ぐ為に東奔西走する事を優先していたらしい。
川下屋は、元々土倉と呼ばれる倉庫業と質屋を兼業していた河中嶋藩の中では割と小さな見世だったのだが、彼の代からは様々な事業に手を伸ばしては成功を納め、一代で身代を肥え太らせた大商人と言える男なのだと言う。
とは言え、そうした大商いを重ねている間に、後ろ暗い事の一つもやらずと言う事が有る訳も無く、彼と商売と商圏が被って押しつぶされたならまだ可愛い方で、中には謂れの無い罪を擦り付けて、取り潰しに成った所を美味しく頂いた……なんて噂も有るらしい。
「……それって裏取り出来てる話なのか? 成功者ってのは、妬み嫉みから色々謂れの無い噂をされる物だと思うが」
丸っと鵜呑みにするには、少々悪意の有りすぎる人物評故に、俺は思わずそう疑問を口にした。
「さぁ? 流石に全部が全部本当って事も無けりゃぁ、全部が全部嘘って事も無ぇんじゃないですかね? なんせ商売物の瓦版からの受け売りですんでね」
おいおい……ソレじゃぁマスゴミに踊らされて、警察官を税金泥棒呼ばわりする様な連中と変わんないじゃ無いか。
まぁ……そんなに長い付き合いに成る訳じゃぁ無いだろうし、取り敢えずあの嘉多って公家には近づかないのが正解だろう。
最悪安倍の伯父上に泣き付けばどうにか成るんだろうが、そんな恥ずかしい真似をしたら、江戸に帰ってからが怖いしな。
うん、飯は兎も角、それ以外は出来るだけ部屋から出ないのが良いんじゃないか?
と、そんな後ろ向きな事を考えながら、俺の部屋の前で月太郎とは別れたのだった。




