五百十六 志七郎、不安を感じ欲望湧き上がらぬ事
「ふぁぁぁあああ……今日も今日とて平和平和っと、さーて朝飯食って一眠りと行くかねぇ……おい! 太助平、俺にも飯持ってこい!」
食堂に響き渡る様な大欠伸をしならが、大きな声でそんな事を言いながら、一人の男が姿を表した。
「親父! 御客様居るんやからもちっと行儀ようせなアカンやろ! なんで息子のワテがこんな注意をせなアカンねん! ええかげんにしてほしいわホンマ」
太助平と呼ばれた給仕を担当しているらしい二十歳そこそこの青年が怒鳴り返しながら、客と同じメニューを配膳した。
「阿呆抜かすな……こちとら徹夜の操船で疲れてんだ、愚痴の一つぐらいでガタガタ抜かすんじゃねぇよ。おっと、お客さん方……すみませんねぇ、ウチの愚息が喚き散らかしちまって」
ウチの父上と同じぐらいの年頃の、羽振りの良さそうな仕立ての良い着物を来た男は、自分が大声を上げた事を棚に上げそう言い返す。
「お、そうだ! おい太助平! 一号室の床板腐って孔空いてたの、言った通りにちゃんと塞いだんだろうな? 客が怪我でもしたら事だかんな」
船主に紹介してくれた火取曰く、この船は二人の船主が合同で運営している物で、彼がその片割れで『川下屋 兵助平』だと言う話だった。
「せやから、お客さんの居る所で言う様な事やないやろ。取り敢えず有り物の木板で蓋しといたけど……ありゃ、ちゃんとした所で修理してもらわんとどうにもならんで? その程度の銭は持っとるんやから、ちゃんとしたらええやんの……」
醤油をぶっ掛けたサラダをもしゃもしゃと音を立てて食う父親に、太助平は呆れの混じった声色でそう答えた。
どうやら太助平と言う男は、給仕を専門にしていると言うよりは、船内の雑事全般を任されている様である。
「この船も大分古いからなぁ、なんせ俺達が前の船主から買い取った時点で五十歳を過ぎてたって話だ。お前の言う通り、この辺でがっつり修理と点検をしておいた方が良いんだろうが……暫く休航と成るとその間の稼ぎをどうするって話でなぁ」
口の中の野菜を嚥下し、髷の下辺りを弱った様子でぼりぼりと掻きながら、兵助平がそう返す。
「あと十四号室の床にも孔が開いとったさかい、同じに塞いどいたけど、このまま放って置いたら、洒落にならん事が何時起こってもおかしゅうないで? 稼ぎの心配すんのは当然やけど……最悪の事に成ったら荷の弁済成り何なりエゲツ無い事に成るんちゃうの?」
うん、船室の床が腐って孔が開く様な事が有るならば、当然船底に同様の事が起こっても奇怪しくは無いだろう。
そうなれば、洒落にならない最悪の事……つまり沈没だって絶対に無いとは言い切れない訳だ……。
「ど阿呆! 客の前だぞ! ちったぁ考えて物言えや! 船底はキッチリ点検してるに決まってるだろ! そもそも船室の孔だって、お前が毎日ちゃんと手入れをしてりゃぁ其処まで行く前に気がついた事だろよ!」
そんな不吉な事を容易に想像させる発言は流石に不味いと判断したのだろう、兵助平は慌てた様子でそう吠えながら立ち上がると、息子の頭に拳を振り下ろした。
「御客様方! ウチの馬鹿息子が阿呆な事抜かして申し訳有りやせん! この船は大丈夫です! ちゃんと京の船着き場まで、皆様を無事にお届けする事をお約束致しやす! あと一日ちょいの船旅、安心してお寛ぎ下さい!」
割と本気で殴ったのだろう、頭を抱えて痛みを堪える太助平のその頭を、無理やり抑え込む様にして下げさせると、兵助平は俺達を含めその場に居る全ての客に向かって謝罪の言葉を口にするのだった。
「ささ……見ていっておくんなせぃ。あっしがこの火元国を渡り歩いて仕入れた品々でさぁ。珍しい物も有りゃ其処らで手に入る物も有る、ソレを見抜くは御客様の目利き次第ってなもんだ」
色々と不安を覚える事に成った朝食の席を立ち、やって来たのは食堂の有る四階層から二つ下の第二階層の二十四号室だ。
月太郎の泊まっている此処は二等級の客室で、俺が泊まっている部屋より安いのだが、部屋の広さ自体は然程変わらない。
大きな違いといえるのは、俺の部屋が所謂『ダブルサイズ』の大きな寝台が一台だけ置いてあるのに対して、此方はシングルの二段寝台が二つ配置されており、最大四人が一部屋に泊まる事が想定されているのだろうと言う事だろうか。
……まぁ今回は乗客が少なかったらしく、三つの寝台が使われている様子は無い。
同室の客が居ないからこそ、こうして品物を部屋に並べて即席の見世を開く様な真似が出来る訳だ。
んー、並んでいる品には書と言うか草双紙が割と多いな。
その名の通り表紙が赤く塗られた赤本、同じく黒い表紙の黒本、其れ等に対して青本の表紙は青では無く何故か浅黄色だ。
表紙の色で大体、方向性の区別が着く様に成って居るのだが、赤が子供向けの御伽話、黒が歴史物や武勇伝、その他恋愛物や歌舞伎のあらすじ本等々と幅が広く、青本は黒と被る部分も有るが多くはより滑稽で下世話な物を扱う事が多いと言う。
『黄表紙』と呼ばれる物も有るがソレは青本の中でも特に『知識層向けの文芸作品』と認められた物を区別して呼ぶ時に用いられる語なのだと言う。
この辺は此方に生まれ変わって然程も経たない頃に、書庫の本を読み漁っていた時、信三郎兄上から聞いた覚えがある。
とは言え、此処に並んでいる物はどれもこれも中古品なのか、読むのに支障は無いが決して綺麗な状態とは良いがたい、しかもどれもコレもウチの書庫で読んだ覚えのあるものばかりだった。
「あー、此方も出しちまうか、坊っちゃんにゃぁちょっくら早いかも知れねぇが……まぁ良いだろう」
最初に並べられた本に俺が食指を動かさない事を、そうそうに感じ取ったらしい月太郎は、別の葛籠の中から何故か分けられていた数冊の本を取り出した。
その表紙を見る限り其れ等は赤本の様だが、他の本とは違い割と新しく綺麗な状態にも関わらず、赤と言うには若干色褪せた、何方かと言えば桃色に近い物に見える。
えーと、表題は『奥さん米屋です』『酒屋のサブちゃん』『稚妻まつ淫欲日記』『大公大奥武勇伝』『蛸と海女』……って中身を見なくても解る春画の類じゃねぇか!
「坊主ぐらいならそろそろ女の身体に興味が出てくる頃じゃねぇ? コレなんか坊主と大して年の変わらん娘の奴だしどうだい? それとも年上の方が良いってんなら此方も中々だぜ? 買うじゃなくて貸すもやってっから、部屋でじっくり吟味すんのも有りだな」
下卑た笑いを浮かべながら、その中からオススメの逸品だと言う本を取り上げる月太郎。
俺も未だ身体が出来上がっていないとは言え男では有る、その手の物に全く興味が無い訳では無い。
前世だって、実在の女性と直接どうこうする機会こそ無かった物の、そう言う衝動のはけ口を求めて、夜想曲の名を冠したネット小説サイトで好みの物語を探したり、そう言うビデオをレンタルしたりした事も有る。
ただ……生まれ変わったこの身体では未だ幼い所為も有ってか、そう言う衝動が湧き上がる事が無く。
だからと言って純粋な興味本位で……と言うには、色々と知りすぎているが故に、子供らしい好奇心のままに突っ走る事も出来やしないのだ。
それにそう言うのが読みたいなら、家に帰ればPCに保存されたその手の小説を読む事も出来るし、二次元の絵で良いのならそう言うゲームも何作品か入っているのも確認済みだ。
……まぁ恐らくゲームは本吉の趣味が反映されているのだろうから、色々と偏った作品ばかりなんだろうけれども。
何方にせよ今回は、エロ本は無しだな……うん、知恵の輪の類でも無いかなぁ?




