五百十二 志七郎、山を越え真実を知る事
あれから山道を進み、別の宿場でもう一泊した翌日の事だった。
「しっかし坊主は気前が良いやな、あの糞面倒な話に巻き込まれて、割と丸く収まる解決案を提示したってぇのに、宿代だけで勘弁してやるんだからよぉ」
そろそろ最後の峠を越えると言う辺りで、火取がそんな事を言いだした。
「別に銭金に困ってるって訳じゃぁ無いからな、この旅に掛かる旅費やら何やらだって幾らでも……とまでは言わなくても、常識の範囲なら猪山藩からも幕府からも出る訳だしな」
旅の最中、手持ちの銭は使えば確かに減る、けれども道中の一寸大きな宿場でも有る『両替商』に行って『手形』を提示すれば、必要に応じて銭は引き出せるのだ。
両替商はその名の通り、一両小判などの金貨や一分銀や一朱銀などの銀貨、一文銭や四文銭などの銭貨を両替しその手数料を取るのが基本的な商売である。
その他にも大店や各藩が発行した証文を現金化したり、手形に記録された預け入れ金の引き出しが出来たり……と、概ね前世の世界に置ける銀行の様な役割を担って居る見世なのだ。
預けたり引き出したりするには、各地に有る両替商の見世まで行かなければ出来ない辺り、其処らの萬屋にも自動預払機が有った前世の世界よりは不便と言るかも知れない。
「ソレにしたって取れる所からは取っとく物じゃねぇ? 俺っち、お前さんのお人好しっぷりが心配で仕様が無いってなもんだぜ? 只でさえこの短い道中で糞面倒な騒動に巻き込まれてんだ、ソレを全部無料奉仕じゃぁ割に合わねぇだろうよ」
宵越しの銭は持たない……とまでは言わずとも、その言動を見れば銭離れの良い方だとは容易に想像出来る質の火取は、取れる所からは取ってソレをぱーっと使いたい人らしい。
とは言え、事前に報酬の約束をした上で請け負った仕事なら兎も角、善意で手を貸したのに後付けで報酬を強請る様な真似は、俺の倫理観が許さない……それに、
「銭金を取ったら其処で話が終わっちゃうけどよ……貸しにしておけば、後々困った時に手を借りるってな伝手に成るだろ? 特に俺の場合は猪山藩猪河家の看板背負ってるんだから、その利益はお家の為にってね」
前世では勝手に報酬を受け取る様な真似をすれば贈収賄の罪に問われる可能性が有り、万が一そうなった場合ほぼ間違い無く出世の道が閉ざされる事に成るので、俺はその手の安易な利益には絶対に手を出さなかった。
所属部署が部署だけに人には言えない所謂『黒い交際』が一切無かった訳では無いが、そう言う時だって物や金のやり取りはせず、有っても精々『一時の娯楽に供する物』の範疇までだ。
時にはそれ以上の『恩』を売る様な結果に成る事が無かった訳では無いが、そう言う時にはソレを『貸し』にする事で、より大きな手柄に繋がる……そんな事が有ったり無かったり、そんな感じで代々の課長は人脈を引き継いで来た訳である。
勿論、厳密に言えばそうして手に入れた情報を元にした捜査と言うのは、違法捜査の類と言う事に成るのだろうが……逮捕した所で不起訴に成るような小さな事件を見逃すだけで、より大きな事件の犯人を検挙出来るならばその方が良いのでは無いだろうか?
なぁなぁの関係と言ってしまえばソレまでだが、俺が捜査四課に配属された年に定年退職した先輩の話に拠れば、戦後混乱期には暴力団と警察が協力して治安を担って居た事も有るのだと言う。
時代が違うと言ってしまえばソレまでだが、落ちこぼれと言う奴はどうしても一定数は出る物だし、その手の馬鹿が半グレや海外マフィアの使い捨てで無軌道な犯罪を犯すよりは、多少は『メンツ』を気にする暴力団で『教育』を受ける方がマシなのでは無かろうか?
「あー、流石は猪山の鬼斬童子……つーか悪五郎の孫だよなぁ……。エゲツ無ぇってーか、抜け目無ぇってーか……。猪山の若い奴は割と口先三寸で転がる様なのが多いんだがなぁ」
うん、言いたい事は解る。
猪山藩の若い衆と言えば、武の腕は立つが頭は空っぽ……ってのは割と居るからなぁ。
いや、武士として恥ずかしくない程度には教育は受けてるし芸事なんかの教養もそれなりに有るんだが……脳筋族と言うか、何も考えてないと言うか、兎角そう言う者は割と多い。
例を上げるならば大羅、今、名村、矢田の四馬鹿だろう、アレでも割とマシな方と言うのだから、本当に問題の有る者は多分江戸に上がる事は無く、国元で一生を終えるんだろうな。
いや、場合に拠っては『そんな子は家には居ませんよ』……か?
まぁ猪山の本領は周辺全方位が高難易度の戦場に囲まれた立地らしいから、わざわざ人の手を煩わせる必要も無く、本当の馬鹿なら勝手に居なく成るのかも知れないが……。
「まぁ此処らで猪山に喧嘩を売る馬鹿は早々居らんが……大川を越えた先、京の都やソレより西じゃぁただの田舎者ってな風に侮る連中も増えてくっからな、もちっと用心するんだぜ?」
そう言った火取の口振りは、丸で親戚の子供が無茶をするのを心配するかの様な、温かな色を帯びている様に思えた。
それでもその事を態々指摘する様な無粋な真似はしない。
短い期間では有るが寝食を共にして彼が偽悪を気取る、前世で言う所のちょい悪おやじの類なのは十分に理解した。
その手の人間は散々っぱら見てきたから、纏う設定を指摘するのは何よりも彼等を傷付ける事だと言うのはよく知っているのだ。
「命を狙った相手が子供だったからって、こんな所まで旅費も取らずに無料で護衛の真似事をした人が、言っても説得力が無いんじゃないか? 俺よりあんたの方が余程お人好しの類だろうさ」
だからこそ、俺は敢えて憎まれ口を叩く。
「へっ……四十郎の奴にゃぁ山程借りが有るかんな。この辺でちっとは返して置かねぇと、地獄にまで取り立てに来られても困るかんな」
ん? おっさんさらっと父上の事を呼び捨てにしたぞ?
武芸者として一流と呼んで差し支え無いだろう人物だし、奥さんは猪山藩の出身だって話だから、父上と交流が有る事自体は全く奇怪しい話じゃない。
本人が今言った通り、直接貸し借りを云々出来る程度には顔見知りなんだろうけれど、だからと言って在野の武芸者が他所の藩主をそう簡単に呼び捨てになんてしても良い訳が無い。
しかも貸している側と言うのであれば兎も角、借りが有ると言うのに横柄な態度ってのは、藩の対面的な意味でも見逃して良い話じゃ無いかも知れない。
んでもなー……個人的に交友が有る関係だったりすると、普通に呼び捨てを許してる事も有るんだよなー。
ソレこそ武士階級じゃない者が相手でも、一寸打つかり合って「中々やるな」「お前もな」で、身分の差など関係無しで友人関係を結ぶ……なんて事も無い訳じゃぁ無いらしいしなぁ。
「ああ、それと俺がお前さんを態々此処まで送って来たんにゃぁ、も一つ裏が有るぜ? なんせ赤の他人ってな訳じゃぁ無ぇかんなー、ウチの女房、三十五っつーんだわ」
と、表情は隠していたつもりなのだが……流石は一流の武芸者と言う事か、そんな俺の葛藤を見抜いたのか、火取は悪戯に成功したような笑みを浮かべて、そんな言葉を口にした。
……父上の名が四十郎で、確か陰陽頭の安倍家に嫁いだと言う伯母上の名は『三十方』……、その例に乗っ取るならば三十五さんというのは、やはり俺の伯母に当たる方と言う事になるのではなかろうか?
え? つまりこのおっさん、普通に親戚? つーか伯父って事になるのか?
「つー訳で、この峠を越えりゃ大川が見えるかんな、そろそろネタばらししておく頃合いだろうよ。コレでも気ぃ使ったんだぜ? 俺が伯父貴だって知ってりゃぁ、お前さん此処までこんな気安い旅出来なかっただろ?」
うん、仰る通りで……。
「まぁ用事が終わって帰る時にゃぁ、ウチの道場に顔出してってくれや。お前さんと娘は従姉弟ってな訳だからなー」
彼の妻は兎も角、本人は猪山の血を引く者では無い筈なのだが、言いながらカラカラと笑うその表情は、何故か妙に見覚えの有る物に見えて仕方が無い……。
考えてみれば御祖父様相手に『娘さんを嫁に下さい』したんだよなぁこの人、ソレで認められたんだから……御祖父様好みの人材なんだし、当然と言えば当然なのかもなぁ。
類は友を呼ぶと言うか……類だからこそ、身内に成るのだと言うか……。
いや俺は決して脳筋族じゃぁ無い筈だが……もしかしたら外から見ると、やはり俺も同類なのだろうか?
四煌戌の背で揺られながら、俺は考えた事も無い恐怖に背筋を震わせるのだった。




