四十九 志七郎、将軍と対面し、江戸の秘密その一端を思う事
将軍様が俺に差し出したのは、前世では当たり前に交換していたもの、そう名刺だった。
ただそれは俺の知る固いカードの様なものではなく、恐らくは手漉き和紙なのだろう、しかも所々に下品ではない程度に金箔が散らされている。
文字も極めて整った筆文字で、家にあった雑誌の様な雑な印刷には見えない、きっと名のある書道家が一枚一枚手書きしているのだろう。
思わず自分もそれを差し出そうと身体を探るが、当然の事ながら返すものを持っていない、というかこの世界にこんなものが有るとは思いもよらなかった。
「申し訳ございません。あいにく名刺を切らしてしまいまして……」
この世界でも正しいかは解らないが前世の癖か習慣か、そんな謝罪の言葉がすんなりと口をついた。
「先程も言うた通りじゃ、童子に礼節を求めるのは八百屋に魚を求めるようなものじゃ。と言うより、流石と言うべきかこんなにちんまい童子だというのに、ほぼ満点の受け答えではないか」
その言葉を聞き改めて、俺が両手でその名刺を受け取ると、将軍様はさも可笑しそうに腹を揺らし笑い声を上げた。
「これで『とくがわ』と読むのですね」
失礼だろうかとは思ったが、先程から再三礼儀は不要と言われているのだ、本当にマズイならば兄上が止めるなりするだろうし、もし咎められるとしても酷い事には成らないだろう。そう判断し素直に聞いてみる。
「確かに素直に読めば『ハゲガワ』じゃな。じゃが幕府の開祖である我が先祖『禿河家安』様がこの地に降り立ちし時よりそう名乗っておったのじゃから、子孫たる余らはそれを守るのみじゃ」
そう言いながら指さした先は天守の天井、そこには黒装束を身に纏い刀を担いだ青年が描かれており、『禿河家安図』と題がふられていた。
身に纏う黒い服はどう見ても和服のそれではなく、首元まで覆う高い襟といい縦に並ぶ金色のボタンといい、どう見ても前世に見た覚えがある。
学ランじゃねぇか……? しかも降り立ったって言ったよな? てことは、この世界……少なくともこの江戸は『禿河家安』って奴が他所から来て打ち建てたってことだろうか。
もしかしたら、禿河家安というのも転生者だったりするのかもしれない。
そう言えば、俺が転生者であることを親に明かした時にも、稀に有ることだと言っていたような気がする……。
それらを考えれば、異世界というだけでは説明するのが難しい、至る所で感じた違和感のある様々な物にも説明がつく。
きっと誰かが既に内政チートの類をやらかしていたのだ、いや内政という程でなくてもマヨネーズやラーメン等の料理なんかもきっとそう言うことなのでは無いだろうか。
この世界では鎖国が行われてはいない様なので、外国からの影響という事も十分に考えられる話ではあるが、それにしたってピンポイントすぎる。
色々と腑に落ちたと同時に、肩の上に乗っかっていた物がふと軽くなった気がする。
俺が持っている知識で世界を変えなければ成らない、等という事は無いのだ。
きっと先人たちも自分が生きる為に精一杯やって来ただけの事なのだろう。
俺がそんなことを考えこんでいると、ここで会ったのも何かの縁、将軍様はそんな言葉で俺達に付いてくるよう促した。
空気を読んでいたのか、それともただの天然か、今まで黙ってやり取りを見守っていた兄上を見上げてみると、彼はちょっと眉を上げ肩を竦めてみせる。
この妙にアメリカナイズされたジェスチャーも転生者が伝えた物なのだろうか……。
「あら上様。こんな若武者と幼子を連れ帰るとは、とうとう女子に飽きて衆道に手を出されましたか……」
天守を降り、上から見たあの木々に埋もれた御殿へと連れて来られた俺達は、玄関を潜ると同時にそんな言葉で迎えられた。
その言葉を発したのは、年嵩のそれこそ将軍様と殆ど変わらないであろう老年の女房――妻ではなく女性の使用人その名称――らしき女性だった。
「人聞きの悪い事を申すな。でかい方は其方も会ったことが有ろう、猪山の鬼二郎じゃ。そしてそっちのちまい方がその弟の鬼斬童子じゃよ。天守見物に来てたのを拾ってきたわい」
「あらまぁ、随分と可愛らしい鬼斬り者ですこと。大人方はお酒で宜しいとして、坊やには羊羹でも切りましょうかね」
彼女はそう言うと、恐らくは台所が有ると思われる方向へと去っていく。
「否々此奴はでかい図体して一滴も飲めぬ程の下戸らしい、余も此奴の分も茶と羊羹を持ってきてくれ」
その背中に将軍様はそう声を掛けるが、彼女はただ肩越しに軽く手を振って返事を返す。
ただの使用人にしてはあまりにあまりな対応に、俺は一瞬面を食らったが兄上は驚く素振り一つなく、将軍様も小さく肩を竦めるだけだ。
「相変わらず御台所様がご自身で台所を取り仕切ってござるのですか……」
……ふぁ!? 御台所様って、たしか将軍様の正妻の事だよな!? 大奥という女の戦場を取り仕切る人物にしては、地味……というか質素な装いだった事に改めて驚く。
「あれは育て教える為に人を使う事はするが、そうでなければまず自分でなんでもしようとする。そういう性分なんじゃろうな」
困ったものだ、と言わんばかりの口ぶりだがその顔には薄っすらとだが笑みが浮かんでいる。
「上様の世話は他の女に任せて置けぬ……と言う事ではござらんのですか」
それを見て誂うようなつもりでは無いのだろうが、兄上がそう俺から見れば余計な一言を口に出す。
「鬼二郎、其方そう思ったことをポンポンと口に出しているようでは女にもてぬぞ」
しかし老獪な老人はそれを否定も肯定もせず、こちらは間違いなく誂う様な調子で切り返す。
「性分でござれば」
至って真面目な表情でそう返す兄上に、将軍様は誰憚ること無く大きな腹を揺らし笑い声を上げた。
通されたのは、茶室ではなく庭? に面した一室だった。なぜ疑問形かと言えばそこは木々が所狭しと生い茂っており、庭というべき広々とした空間がなかったからだ。
だが兄上が言っていた通り、素晴らしい技術で剪定をなされているようで、木々は余計な枝葉が無く日の光が十分に部屋へと届いている。
上から見た時は、建物の殆どが木々に覆い隠されていたのに下から見上げれば、木漏れ日の隙間から青空すら見ることが出来た。
「凄い……これは……、なんというか……」
まさに言葉が出ないとはこの事だ。
たぶん前世でも世界遺産等を見物に行くことがあれば同じような感想を抱いたのだろうが、残念ながら俺は仕事以外でそういう場所へと行ったことは無く、また仕事の時には別に注目すべき事が有ったので風景に意識を向けることは無かった。
これがこの国の支配者が住む場所……。
決して華美な装飾が有るわけではない、決して豪華な調度が有るわけではない、ただ木々と一体となった建物が有るだけ、なのに何故こんなにも美しくそして贅沢に思えるのだろうか。
「ほぅ……そちの弟は幼いながらに聡い上に風流をも解するか……。鬼二郎、以前そちをここに招いた時には、景色も何も見る事無く食い物にばかり目が行っておったな」
「それがしは育ち盛りな上にこの図体、いくら食らっても食い足りぬ故の事。腹がくちくなれば自ずと雅も解しましょう」
「よう言うわい。ほんにそちのそういう所は師匠譲りよな。まぁ師匠の方は思った女子と懇ろになる程度には色も解したし、何より酒の方でも立派な英傑であったがな。あれを酒宴に招くとなれば幾ら掛かるか頭が痛かったわい」
「飯の量でも未だに師に太刀打ち出来るとは思えませぬ」
「さもありなん」
俺が美しく荘厳な風景に見入っている横で、兄上と将軍様は随分と下世話な話で盛り上がっていた……。
正直、気分台無しである。




