五百四 田舎の婆の昔語り
「儂の様な婆の昔語りを聞きたいとは……本に珍しい話ですのぅ、解り申した拙い語りでは御座いますが、暫しお時間失礼致しますですじゃ。
時は乱世の狼煙が上がり戦国と呼ばれる時代が始まる頃じゃった、この辺りがまだ甲画藩田中家の統治下では無く、春風国全てを治める柳家の領地だった頃の話じゃ。
その頃はまだ地獄の釜の蓋も開いておらず、鬼やら妖やらの被害も殆ど無く、遠国から聞こえてくる合戦の噂くらいしか不穏な話は無い……そんな呑気な暮らしだったそうじゃ。
当時この辺りを治めておった昇と言うお殿様は、たいそう呑気な性分でのぅ、政の手を拔く事はせなんだが武芸の方はからっきし、暇さえ有れば家臣や領民を集め、得意の落語を披露する……そんなお人柄だったと伝わっておる。
しかしそんな平和なこの地も、乱世の牙からは逃れる事は出来なんだ……野心に駆られた家臣の一人が謀反を企てたのじゃ。
彼の者の名は成原業平……陰陽術の才を認められ京の都へと上がり、順調に出世を重ね『陰陽博士』の官位を賜り、順風満帆の将来が約束された筈の男じゃった。
しかし幾ら才ある男児と言えども所詮は山出しの者……御公家様方の序列や常識、はたまた政争の機微など弁えておる筈も無く、一寸頭角を現したかと思った所で、有りもしない罪過を理由に京の都から追い出されたのじゃ。
無論、ソレに不満を持つなと言うのが無理と言うものよ……志半ばで郷里へと戻った業平は、
『私を追放した学会に復讐してやる!!』
と、陰陽寮と公家達を声高に批判し、ソレを為す為の行動を取り始めたのじゃ。
折しも時は戦国初期、諸国で力無き君主が排され、野心強き者達が力を持ち始めた時代……当然の如く業平はありとあらゆる手管を使って手勢を集め、此処から山を超えた大川沿いの平地に有った柳邸へと攻め入った。
とは言え、一国の国主たる者がそう簡単に討ち取られる様な事には成らぬ。
当時の領民から奪うのが当たり前の時代に、必要以上に税を取らず自身の趣味とは言え娯楽を与える領主が領民から慕われぬ筈も無い。
業平が謀反を企てている事を知った一部の家臣と領民達の手で、柳一族はこの甲画の地を通り、親類の元へと無事落ち延びる事が出来たのじゃ。
そうして領地を乗っ取った業平は、簒奪者の汚名は有った物の領民には割と善政を敷いたと言う……じゃが逆らう者には容赦をせず、それから暫くは獄門台に首が乗っておらぬ日は無かったと伝えられておる。
しかしその善政も然程長くは続かなかった……国内を完全に掌握し逆らう者が居なくなったと同時に、業平は京へ攻め入る為に兵を挙げたのじゃ。
とは言え一万とも二万とも言われる軍勢が大川を一気に渡る様な船を用意する事など出来ず、徒歩で渡河出来る様な上流まで遡るとなれば、他所の国を幾つか攻め落とさねば成らない。
しかし其処は博士の号を頂く陰陽師、兵士達に陰陽の術をかけ、川の上を歩いて渡って行ったと伝えられておる。
結果を先に言うとじゃ……その挙兵は失敗に終わった。
幾ら新たな陰陽師達の師と成る役目である陰陽博士に名を連ねた事が有るとは言え、業平一人では京を護る結界を破る事が出来ず、京を攻めた事で朝敵に認定され、周辺の名を上げたい武士達の良い獲物と狩られる事に成った訳じゃ。
ところがどっこい業平は生きていた……連れて行った兵の大半を囮に使い、たった一人で居城へと逃げ帰ったのじゃが、それからがこの話の本筋の始まりじゃ。
戦に連れ出された兵達の命、その全てはこの時の為の生贄……だったのじゃ。
万を超える人の命を贄に捧げた陰の術で、業平は人を辞め一匹の大鬼へと変じたのじゃ。
化物に成り下がった業平は、残った領民を呪い眷属の化物へと変え、近隣の国へと攻め入っては其処で討ち取った者達を更に化物へと変える……そんな形で第二の大江山の鬼に成るやも知れぬ……と、この辺一体を恐怖のどん底に叩き込んだのじゃ。
そうした状況で立ち上がったのが、落ち延びた柳昇の血を引く二人の男児、多和場と兜坂の二人、そしてその二人の師で有る毒島と言う男じゃった。
毒島は業平が陰陽博士に成る前に隠居してはいたが、矢張り陰陽博士の官位に居た者で、老齢ながら武勇の腕も立つ……と、旧領奪還の悲願を叶える為、その二人に厳しい修行を付けたのだと伝わっておる。
しかし最早人の域を超えた化物と成った業平を討伐するのには、尋常の技や術では到底足りるとは考えられず、毒島は人の身のまま人の域を超える術を編み出したのじゃ。
身を護る衣を捨て、羞恥心を捨て、外聞を捨て去る事で、莫大な力を手に入れた兜坂はこう言った
『だーいじょうぶ! まーかせて!』
と……。
兎角、化物共を打倒しうる力を得た二人は、近隣諸国の武士達の……特に猪山の者達の協力を経て、業平の元へと辿り着いた。
その時に協力者達は皆、露払いを務め、業平と実際に相対したのは、多和場と兜坂、そして毒島の三人だけだったそうじゃ。
激闘に次ぐ激闘、激戦に次ぐ激戦、数多の命を食らい大化物と成った業平を討ち取るのはそう簡単な事では無かった。
三日三晩に渡る、長い長い闘いの末、業平は討ち取られたが、老骨に鞭打ち参戦しておった毒島は流石にその命数を使い果たしてしまったのじゃ。
勝利の喜びも束の間、掛け替えの無い師を失った二人は、誰憚る事無く大声を上げて涙を流し嘆き悲しんだ……その時じゃ、毒島の遺体が丸で最初から其処には居なかった彼の様に溶けて消えていったと言う。
そして其処に残ったのは、彼が使っていた武具と着物、そして一枚の鯣だったのじゃ。
……此処まで話せばもう解るじゃろ?
そうじゃ多和場と兜坂の……そして数多の陰陽術師達の師匠に当たる男、毒島は烏賊の変化だったのじゃ!
歳を経た生き物が変化と成り人に混ざって生活する事は、今でこそ当たり前に成っておるが、当時はまだ珍しく……しかもソレが陰陽寮の重職にまで登り詰めて居ったのは、此処ら一帯では大きな騒動に成ったのだそうじゃ。
けれども気位の高い京の連中は、業平を追い出した事も毒島が烏賊の変化であった事も認めようとはせず、飽く迄も一地方の豪族が帝に楯突いただけの事……と史書には記されておるらしい。
じゃが……だからこそ、儂等土地の者はこの地を業平の悪行から救った多和場と兜坂を英雄と讃え、その師として身体を張り命を掛けた毒島に敬意を払い、烏賊を食らう事はせんのじゃ。
とは言え、火元国の大半で鯣は縁起物として珍重されておる事は知っておるし、ソレは業平の一件よりも遥かに古い伝統。
故に他所の者が何を食おうと、ソレが何処を通ってどう運ばれようと文句を言うつもりは無い。
それでも目の前でソレが食う為に売られているのを見て、良い気がせん事は理解してもらえる話じゃとは思う。
最もその伝統も今や、この甲画の山々と其処に住む多古八忍くらいにしか残っては居らんがの……
田舎の伝統と言うのは、中々若い者達に引き継ぐのは難しい話なのじゃ
この宿場の出でも、江戸や京に登った際に烏賊を食ろうて美味かった……なんて土産話を持ち帰る者も少なく無いからの。
しかしそれでも少なくとも毒島の御霊が祀られておる出渕社から見える範囲で烏賊を商ったり食ったりという事は許されん、万が一にも毒島が怨霊として蘇りでもしたら、とんでも無い事に成るじゃろうからの。
ふぅ……こんな田舎の婆の話を、如何に童子とは言え、江戸の御武家様に語る様な事が有るとはの。
最後まで聞いてくれて本に有難うございましたですじゃ……」




