五百二 志七郎、山に入り喧嘩分け入る事
服を身に着ける習慣の無い人達の生活圏を抜け、そろそろ日も頂点に差し掛かり、昼飯をどうしようかと思った、その頃だった。
「おう坊主、そろそろ海とも一旦お別れだ、此処っからは山ん中暫く進む事に成るからな」
火取が道の先を指差しながらそんな言葉を口にした。
江戸を出てから此処まで、幾つか峠を越える様な事は有ったが、それでも上の方から南側を見れば海は然程遠く無く、風が吹けば潮の臭いがする様な場所ばかりだった。
だがこの辺りからは南側に大きく張り出した半島の様な地形が有るようで、南側にも北側にも大きな山が見える。
どうやら二つの山……と言うか山塊の間を抜けていくらしい。
「向こうに有る一際大きな禿げ山が天目山、鍛冶の神が住む火元国中の鍛冶師達が弟子入りは無理でも、一度はお参りしたいと願って止まない場所だ」
確かに木々が生い茂る山々の中に一つだけ際立って高い岩山が見えるが……アレは禿げてるんじゃなくて標高が高すぎて木々が育成しない森林限界って奴の所為じゃないか?
でも鍛冶師が集まる山ならば、木々を根こそぎ薪にしていても可怪しくは無いしなぁ……。
「んであっちの北側、木々の間から二つ耳みたいに岩山が飛び出してんのが見えるだろ? アレがこの辺一帯の猫魔共が修行する猫の山、こっから見て右耳が乗良岳で雄山、左耳が香衣岳で雌山なんだとよ」
森の中からちょこん見える二つの山は、確かに茂みに隠れた猫耳の様に見えなくもない。
「猫又の修行場と言うと、確か龍尾島の方に有るもんだと思ったんだけれども、此方にも有るんだな」
以前、猫仙人に会う為に登った根子ヶ岳は前世で言う所の九州に当たる龍尾島に有るのだと聞いた覚えがある、周囲の風景もあの時見たものとは明らかに違うので別の山なのは間違いない。
「そらそーだ、この火元に猫がどんだけ居ると思ってんだ? 人に飼われてりゃその大半が猫魔に成るまで生きるのが当たり前、そっから修行に行くのは一部かも知れねぇがそれでも馬鹿みたいな数にゃぁ成るぜ? その修行場が一箇所切りなわきゃねぇわ」
前世の世界では、辛く苦しい修行をしてまで猫又に成りたいと言う猫が少なく、猫の修行場は何処にも無いのだと友人の飼う猫魔達は言っていた。
だが此方の世界では野良の多くは其処まで生きる事が難しく、人に飼われていても者に拠って愛玩動物か使役動物かの違いは有れど、修行をして居ない猫魔のままではその扱いは決して良い物では無い。
超常の力が薄い前の世界ならば。多少の妖力を身に着けた所で、その存在を維持するのに多くの妖力が散ってしまい、精々寿命の軛から逃れるのが精一杯だと言う。
けれども此方の世界では、妖力が存在するのが当たり前故に、多少の妖力でも放って置けば溜まり続け、時には暴走し人を傷つける事も有るのだ。
故に猫魔と成る年頃の猫は、自ら妖力を捨て只猫としての天珠を全うするか、猫の修行場へと赴き手にしたその妖力を使いこなす修行をするか、そのどちらかを選ぶ事に成る。
猫の裏道を通れば世界中……どころか世界を超えて何処にでも行くことの出来る猫達も、只猫や猫魔の時点では精々近所の近道程度が関の山で、遥か彼方へ行く道など知る由も無く、猫の修行場へは自力で歩いて行くしか無いのだ。
故にこの世界では猫の修行場と呼ばれる場所は世界各地に多数存在するらしい。
その中の総本山が以前行った根子ヶ岳で、此処は支店……の様な物だと言う事の様だ。
「他にもこの辺の森にゃぁ忍びの里が幾つも有るって話でな、其れ等を恐れてか、街道を外れても鬼だの妖怪だのが出ねぇ割と安全な場所なんだわ此れが」
神仙の神通力は異世界からの侵略者には直接効果を及ぼす事は出来ない……とは聞いた覚えがあるので、天目山の神が直接化物をどうこうしているって事は無いんだろうが、お膝元に敵が居りゃその信奉者が黙って無いだろう。
猫又達にしたって自分達の縄張りを犯す敵が居れば当然黙っている筈が無いし、忍術使い達だって霞を食って生きていける訳じゃぁ無い、生活の糧を得る為に鬼や妖怪を狩る事は当然している筈だ。
時に面子が実利を上回るのが武士である、下手に侍が領地を守る為に駐在していると言われるよりも、其れ等三つの勢力が縄張りを張っていると言われる方が余程安心出来てしまうのは、一応は武家の子である俺としては少々複雑な気分では有る。
とは言え……火元国の津々浦々、隙間無く全てを防衛出来る程に武士の数が居る訳では無い、むしろ人が住める場所の方が圧倒的に『狭い』のだ。
その居住可能地域を少しでも増やしてくれると言うのであれば、相手が神だろうと妖怪だろうと忍術使いだろうと、手を組むのは間違いでは無いのだろう。
この辺を領有する大名の面子的にどうなのかとは思わなくも無いが……。
「まぁ……結界が有るとは言え、何処から化物や野獣の類が出るかも解んない様な山道を歩くんだから、少しでも危険が少ないって言うなら歓迎せざるを得ないかな」
だからと言って完全に気を抜いたり、四煌戌達に索敵を緩める様な指示を出すような事はしないが……。
「山に入って少し行った所に、美味い天ぷらを出す見世が有んだよ、この時期なら良い山菜が出るんじゃねぇかな?」
うん、山の幸ってのも偶には良いよな、此処の所どちらかというと海の物が多かったし……
と思考が食い気に負けた辺りで、腹の虫が騒ぎ出すのを感じ、山間の道へと踏み入るのだった。
一寸太めの田舎蕎麦に『たらの芽』『つくし』『蕗の薹』に『菜の花』といった春山菜の天麩羅がたっぷり乗った天そばを鱈腹食って、いざ再出発……と言うその時である。
「手前ぇ! 誰に許可とって此処で商売してやがる! 此処は俺達多古谷組の縄張りだ! 手前ぇが何処の者かは知らねぇが、仁義も切らずに勝手な真似しやがって! ぶっ殺されてぇのか! 嗚呼ん!」
道の先から、あからさまに八九三者の台詞としか思えぬ、そんな声が聞こえて来たのだ。
「嗚呼! 何で天下の往来で商いすんのに地廻り如きの許可が要んだよ! 此方人等天下の台所、河中嶋は立嶋家の御墨付を頂戴した天下御免の烏賊焼き屋さんよ! 少なくとも東街道沿いで商売すんのに文句は言わせねぇぜごルァ!」
少し進んでその姿が見えてきたのだが、相対する商売人の方も堅気とは言えない風貌で、近くに有る屋台には、旅商売で使うには少々取り回しが悪そうなゴツい圧着機が据えられているのが特徴的に見える。
「多古谷組舐めてんのか手前ぇ! 縦縞か横縞か知らねぇが、此処ぁ甲画藩田中家の御料地だ! 何処とも知れねぇどっか遠くのど田舎領主が出した御墨付なんざぁ通用する訳ねぇだろうが呆けぇ!」
てか、あの圧着機、前にも何処かで見た事が有る様な気がするんだが……烏賊焼きって流行ってるのか?
「手前ぇ何処の田舎者だ? 本気で河中嶋藩立嶋家を知らねぇってか? お前ぇじゃ話に成んねぇよ、上の者呼んで来いや。躾も出来てねぇ世間知らずの馬鹿を使いっ走に寄越すなって言ってな」
ソレにしたって的屋の縄張り争いなんかに顔を突っ込むつもりは無かったのだが、あの烏賊焼き屋、聞き捨て成らない事を口にした。
「んだとごルァ! 手前ぇ喧嘩売ってんだな! 此方が大人しくしてりゃぁ付け上がりやがって! 上等だ! ぶっ殺してやんよ!」
河中嶋藩立嶋家って……千代女義姉上の家じゃないか?
未だ仁一郎兄上とは許嫁の関係で、完全に親戚と言う訳では無いが、それでもその名に泥が付く可能性が有る状況で捨て置く訳には行かないのではなかろうか?
なんせ怒鳴り散らしてる地元の衆は明らかにチンピラ風情で有り、烏賊焼き屋の方が間違い無く貫目を感じる。
このまま殴り合いにでも成れば、義姉上の実家の手の者が弱い者虐めをしたと言う風評が立ちかねない……。
「おい! お前等! 天下の往来で何を騒いでんだ!」
喧嘩する相手を推し量る目も無い馬鹿が手を出す前に、俺はそんな台詞を張り上げるのだった。




