四十八 志七郎の大江戸観光記 その三
いやいやいや、さすがに、さすがにコレはマズイでしょう!
皇居……いや、京の都には帝が居るらしいから、首相官邸か? そこに大名……地方の、一万石ならば精々村長か町長の、子供が勝手入り込んだりすれば問題に成らない筈がない!
もし誰かに見つかれば即座に斬り捨てられても文句は言えないだろう、まかり間違って兄上がその実力で押し通したとしても、敵の主体は今度こそ幕府だ、鈴木一郎の一件みたいに落とし所を探すのも難しいだろう。
「あ、兄上、誰かに見つからない内に、早く出ましょう」
今ならまだ間に合うかもしれない、そう考え俺は兄上の袖を引きそう言った。
「ん? どうした、志七郎。何をそんなに慌てておる。そら見てみろ今日は天気が良いからな、武士山まで見通すことも出来そうだぞ」
だがそんな俺の思いは全く通じていないようで、そんな呑気な事を言いながら額に手をかざし、遠くを見るような仕草をして見せた。
「ですから、こんな所に入り込んでいるのを誰かに見られたら問題に成るのでは無いか、と言ってるんです! ここは城の天守じゃないですか、将軍様のお住まいでしょう!?」
いい加減察しの悪い兄上には、やはりストレートに言わなければいけないらしい。そう思った俺はついつい荒くなりそうな語気を抑えながらそう口にした。
「上様はここには住んでおらぬ。有事ならば兎も角、平時はこうして入城料さえ払えば町民にも開放されておるのだ」
だが、兄上の口から返って来たのは衝撃的な物だった。
基本的にどこの天守も居住施設と言う訳ではなく、象徴的な物という以外では精々最も高い位置を占める物見櫓という程度のものでしか無いらしい。
此処まで来たルートはさすがにオープンな扱いに成っている場所だけあって、見栄えがするよう綺麗に整えられている物の、それ以外は大半が物置なのだという。
俺がというか一般的にイメージするだろう豪華絢爛な将軍様の居城と言うのは、この本丸ではなく、二の丸御殿と呼ばれる場所にあるらしい。
「そもそも誰かに見つかると言うならば、それがし達よりも先客が居るのだ今更でござろう」
掌を上に向け肩を竦めるという、アメリカ映画の様なジェスチャーでそういう兄上。
言われてみれば、確かにこの場所には俺達しか居ないという訳では無いようで、子供を連れた老人や、デート中と思われるカップル、物見役らしき侍、と確かに今更である。
まぁ、東京都庁に展望室がある様な物と思えば理解できなくもない、いや入場料をとっている事を考えると、東京タワーやスカイツリーの方がイメージが近いかもしれない。
「ほれ、理解できたならば其方も見てみると良い、北を見れば玄武山脈、南を見れば朱雀湖そしてその先には江戸湾。西は白虎街道と武士山。東は青竜海とどちらを向いても絶景でござる」
そう言いながら四方を指し示す兄上、天守はちょうど東西南北四方に対して四辺がある正方形の様で、そのすべての方向対して大きく開かれた作りに成っている。
外周は手すりと柵が付いているその作りは、本当に観光地の展望台さながらだ。
言われた様に遠くを見るのも良いが、今日の目的は江戸の地理を学ぶと言うのが第一である。
「兄上、家の屋敷はどのへんにありますか?」
そんな事を考え、俺はそう問いかけた。
「我が猪山藩の屋敷は……あ、あそこでござるよ」
指し示された場所は江戸城の北西側の大きな邸宅が集まっている地域、その外周部にほど近い場所である。
こうして上から見ると、江戸という街が何層かの区域に分かれているように見える。
最も外側に広く大きな田園や畑があり、その内側に武家の邸宅街、更に内側に有るのが町人達の住む長屋や商家、その内側はもう城だ。
たぶん田畑は広さが必要なので外側にあるのが当然として、武家屋敷いや大名屋敷が市街の外周部にまとめられているのは、万が一外敵等に攻められた際には最初に戦えということだろう。
つまりは、屋敷街がそのまま市街全部を守るための城壁の役目を果たすのだと思える。
そうして見回していると、兄上の足で歩いていたからあまり感じなかったが、一番外側の城門からこの本丸までもかなり距離がある事に気がついた。
考えてみれば、直臣の大半が城壁の中で暮らしているのだという話であれば、その広さも相応の物で当たり前だろう。
なんとなしに城壁内の屋敷を眺めてみると、やはりそこにも階級社会は見て取れる。
ここでは城門近くに小さく粗末な――と言っても、さすがに町民の長屋よりは余程良い作りだが――家が並び、奥に行くに連れて徐々に大きく豪華な家に成って行く。
「あ、あそこが多分将軍様のお屋敷ですね」
そうして見下ろす中に、一際目立つ金色の瓦で彩られた、綺羅びやかな屋敷が有った。
大きさだけならばそれ以上の物も何件かあるのだが、そのけばけばしいとしか形容できないド派手な屋根は、圧倒的な存在感を示していた。
「いや、あれは勘定奉行の兼無様のお屋敷でござるな。上様がおわす御殿はあちらの、ほれ紅白の屋根でござるよ」
言われて見る先には、木々の陰になるように紅白の縞に塗られた屋根が見える。
ぱっと見る限りには木々の間に小さな建物が点在しているように見えるのだが、よくよく目を凝らしてみると、屋敷の至る所に中庭が設けられており、そこから生える大木が屋敷を上手く覆い隠している様だ。
「それがしも一度だけお呼ばれした事がござるが、あそこは素晴らしい住まいだとそれがしは思うの。恐らくは日当たり具合まで計算し常に剪定されておるのだろう、こうして上から見る限りには鬱陶しそうにみえるのだがな」
正直、前世から通して木に囲まれた、と形容できる場所は死体や凶器の捜索のイメージが強すぎて良い思い出は無い。
だが普通の感覚ならば森林浴なんて言葉のある通り気持ちの良いものなのだろう。
「木に囲まれての生活……ですか。秋には掃除が大変そうですね」
イマイチ、ピンっと来るものが無い俺の口からは、そんな風情の欠片もない言葉しか出なかった。
「否々、掃除が大変だからこそ下々の者にも仕事を与えることが出来るのじゃ。余は民に好かれた将軍で有りたいからな」
と、その時である、不意にそんな言葉が俺達の背に掛けられた。
「そこなでかい図体は猪山の鬼二郎じゃな? 久しいのう、お主は酒宴に顔を出さぬ故、中々顔を見る機会もない」
振り返ると、そこには今まで見たことのない程上等そうな着物を身につけた恰幅の良い老人が居た。
「これは上様。お久しゅうござる。それがしは下戸でござる故、酒宴の類では勧められた酒を断る無礼を働かぬ様、特にとお召でなければ顔を出さぬ事にしております」
その老人の顔を見定め、一瞬驚いた様な表情を見せたが、直ぐに兄上は膝を折り頭を下げた。
当然、俺もそれに習い平伏しようとしたのだが、それよりも早く、
「よい、面を上げよ。ここに居るのはただの隠居爺じゃ。それに童子に礼を求めるなど、八百屋に魚を求めるような物じゃ、愚かしい事この上ないわい」
と、俺の行動を止める言葉がかかる。
どうすれば良いのかと、平伏した兄上を見下ろすと、その言葉に従った物なのだろう、兄上はもう既に顔を上げ立ち上がろうとしていた。
「ついさっき将軍と口にしておきながら、ただの隠居爺でござるか。どの口で申しますやら」
「なに無二の親友である為五郎の孫ならば、余にとっても孫も同然。公の行事でもなく、ただふらりと景色を眺めに来ただけじゃ。改まる必要などないわい」
兄上でも対応に困ると言った表情を見せる中、将軍様その人と思わしき老人は朗らかな笑顔でそう言う。
「鬼も恐れる鬼二郎が子守と言う事は、このちまいのが噂に名高い鬼斬童子じゃな? 余が七代目将軍『禿河 光輝』じゃ」
そう言って差し出された小さな四角い紙片、徳川じゃなくて禿河なのか……。




